子どもの人生を道具にしていく 重度の生き方投影(投映)は日々あること、その日々ある投映をしているようでは、自分育てはできません。したがって、子どもの発達に役立つこともできません。 p94第3パラグ...
皆さん今晩は。
年の暮れもずいぶん迫ってきましたね。大掃除は終わりましたか? 年賀は投かんしましたでしょうか? お節料理の準備はいかがですか?
今年、世間で流行ったもの。いろいろあったでしょ。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちの戦争法。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちの、あまりのウソとゴマカシに、危機感を覚えた人も多いのじゃあないですか? 憲法は無視する、沖縄はイジメる、メディアは脅す、税金は身勝手に使う、年金の積立金で株価を操作する、税金は上げようとする、弱い立場の人が生きていくための福祉・医療・社会保障の予算はケチる、そこで働く人は低賃金でも、低賃金を見直そうとは結局しない、人殺しのために、五兆も使う、キックバックのあるオリンピック、「復興」の看板を悪用する大規模なコンクリートは作る(政治家が、献金やヤミ献金やの形で、税金のピンハネが出来る)。ウソとゴマカシの極致でしょ。
じゃぁ、ウソとゴマカシをやってるのは、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちだけなのか?
NOですね。
東京電力の、原発の事故対策をしてなかったウソとゴマカシ、放射能がどれだけ深刻に拡散しているかについてのウソとゴマカシ、東芝の桁違いの粉飾決算、三井不動産レジデンシャルのマンション偽装、東洋ゴムの耐震ゴムのデータ偽装、西武学園校長の公金横領、化血研(化学及び血清療法研究所)の違法製剤…。
「依存症」は、どんな依存症でも(アルコール依存症、薬物依存のような「ものに依存するもの」でも、買い物依存症、ドメスティック・バイオレンス依存症、ストーカー依存症、それから、あの日々神様を冒涜している人みたいなネット依存症などの、「自分の行動にいぞんするもの」も)、「ウソとゴマカシ」と同じことだということは、当ブログでも繰り返し取り上げてきました(内村鑑三先生が教えてくれる「成功の秘訣」 10カ条、相対性の時代など)。今日は、依存症は、「やりとり」ではなく、「裏取引」であり、「誠実」ではなくて、「形ばかりのオザナリ」であり、「真まこと」ではなく、「看板だけ」なのかについて、触れたいと考えました。
依存症は、自分の向かい合うこと、内省、祈りが出来ません。自分の向かい合うためには、自分の弱さ、愚かさ、狡さなどに向き合うだけ強さが求められますけれども、それに耐えられないからですね。自分の弱さ、愚かさ、狡さに踏みとどまれないからです。それが出来れば、パウロが「ローマ人への手紙」第5章3節~5節で教えてくれているみたいに、デッカイ希望を日々生きることが出来るようになるのに、それが出来ない。そうすると、自分の弱さ、愚かさ、狡さなどを隠す言葉で、自分をゴマカス「裏取引」をすることになります。「バレなきゃいい」、「正しい言葉を言ってれば、どうせ分かんない」…。
また、これは、「誠実」ではなくて、「形ばかりのなおざり」になりますよね。自分と向かい合うこと、内省、祈りがありませんから、他者、お客様、近くの人にも、「やりとり」が出来ませんから、「形ばかりのオザナリ」をすることになります。その人も一見「正しいこと」を言ってる場合もあります。それは、誠実にそのことを「正しいこと」だと感じて、あるいは、考えて、そうするのではなくて、そうすると、「褒められるかもしれない」、「認められるかもしれない」…と感じて、口先だけで言ってるだけになります。結果、「形ばかりのオザナリ」になっちゃうでしょ。
そして、これは、、「真まこと」ではなくて、「看板だけ」になるのも、うなづけますでしょ。あの国会前に散歩が好きな、自称「クリスチャン」が、実は日々神様のや名前を盗用・濫用・悪用して、「自分の顔を見せびらかすのがお好き」な悪魔をやるようにね。「クリスチャン」のフリして、実際は「悪魔」をやってる訳ですね。「クリスチャン」って、十字架で自分が死んだ「人の子」の真似をする人のことですから、「自分の顔を見せびらかすのに、神様のお名前≒祈りと称してやる」こと位、「悪魔」の所業もないわけですね。そんなことにも気づかない「クリスチャン」は、「「看板だけ」の偽物に決まってます。看板には「チョコ」と書いてあるのに、「土塊」が入っていたり、「ダイヤモンド」と書いてあるのに、「ガラス玉」であったりするのと、同じです。
ここで、私が、「やりとり」、「誠実」、「真まこと」と申し上げた言葉は、ギリシア語では、全てビスティス、πιστις 「根源的信頼感」のことなんですね。
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