経験をまとめる≪私≫は、意識の中心ではなく、意識の端っこにある。
p344の第2パラグラフ。
しかし、私どもはここで、非常に重要な課題に直面することになります。それはフロイトのもともとの概念を理解するのに非常に大事なんですね。フロイト自身が理論をこしらえ始めた初期に、Ich≪私≫という言葉を使ったのでしたが、それは、意識の表層的な現象でありつつ、大部分は経験を無意識裡に秩序付けるものでした。それがそうならば、この文脈から言えば、エゴと言うよりも≪私≫と言ったほうが良い、と示唆していることに関して、その決定責任を取るのを拒否する翻訳者たちを非難できるものなど、1人もおりません。しかし、フロイト自身が、意識的な「≪私≫が生きている実感」の重要性を狭めるどんな権利が自分にはあるのか?という疑問を声に出してあげています。「初めは、意識している基準の価値をひどく引き下げがちです。意識は当てにならないからです」と。フロイトは主張し、認めます。「でもね、意識を不当に扱うべきではありません。私どもの人生について言えることかもしれませんが、意識は価値があまり高いとは言えないけれども、意識は,私どもが持つすべてなのです。意識が光を当てなければ、深層心理の闇の中で迷子になることでしょう。私どもがしなくちゃならないのは、自分の状況認識を新鮮にすることです」と。
意識は、無意識の「発見」以来、当てにならないものとされることが多い。しかし、私がハッキリと自覚的に手にしているのは、「意識」だけ。この「意識」を何時でも新鮮にしていくことが、状況や権力によって振り回されないためには、どうしても必要なことなんですね。
≪私≫が生きている実感がありますと,必ず,驚きと感激を日々体感しながら,生きることになりますから。
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