本物の信頼は、エバーグリーン!
ルターは鼻が利くからでしょう、ミセカケやゴマカシは、お嫌いでした。
Young Man Luther 『青年ルター』p.219の第2パラグラフから。
ルターが感じていたのは、当時のキリスト教界が、パウロのキリストに対する信頼やキリスト自身の信頼を忘れ去って、「ユダヤや、トルコや、ペラギウス派の」考えに戻っちゃった、ということです。特に、彼らが、以前に決まった儀式を後生大事にすることを強調した点ですね。私どもは、ルターがローマで、天国行の切符を、無料有料に関わらず、必死で集めてたことを知れば、ルターが何に本気だったか? が分かりますでしょ。ルターは後に、この態度を風刺画的に言ってますよね「その時の私は、聖ヤコブに、ローマに、エルサレムに、あれやこれやと、助けを求めてひた走ったかと思えば、聖ブリギッテに、あれもこれもと、お祈りし。今日も明日も断食したかと思えば、あっちでもこっちでも、懺悔の告白をしに行っては、この人あの人にお伺いを立てる…。それでも、心からの平安が得られませんでした」とね。
心に平安がない人が、やる典型ですね。いいえ、心の中に、自分でも分からない、深い不安と激しい怒りがある人の典型だ、と言うべきでしょうか。静かに立ち返ることを知らないんですね。静かに立ち返る、その良さを知らないんですね。
そこに、儀式という形に囚われる温床が出来るんですね。何かをすることが、平安に繋がると誤解してんですね。何かをすることが、信仰だと誤解してるからですね。間違いですね。
逆説に聞こえるかもしれませんが、なんにもしないことが信頼です。敢えて言えば、本物の信頼は、何もしないところから生まれます。神様の恵みだからですね。けれども、信頼が与えられると、漲る力が湧いてきますから、自ずから行動が生まれてくんですね。その行動だけ見ていると、その行動が、信頼(信仰)と誤解しやすい。でも、間違いですね。
本物の信頼は、なんにもしないところから、静かにしているところから生まれます。神様の恵みだからですね。
本物の信頼は、エバーグリーン!
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