今の日本の学校は、金森俊朗さんの実践やら、上手な教員もいないではないいのです。そこに確かに希望はあります。でもいかんせん、大多数派が、「いいよ」と「だめよ」の境目をハッキリさせるという、第2の発達危機においても、その礼拝に失敗しているケースがあまりにも多いのが残念です。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p47の第3パラグラフから。
この舞台は、礼拝のもう1つ大事な原理が出来上がる所です。私はその礼拝の原理を「ジュディシャス judicious 分別がある」と呼んでいます。というのも、この言葉は「法律」と「言葉」を組み合わせているからです。すなわち、合法性を意味する言葉の精神を快く受け入れるようになることが、ここでの発達の重要な局面です。それで、ここには、あの偉大な人間が、何が自由意思で、何が自己決定で、何が罪と違反の法的定義であるのかという問いに夢中になることの、生育歴上の源があります。したがって、この人生の側面にもとがある制度は、法律と、人が行動する自由とによって定義される制度です。
日本では、得てして、子どもの行動は制限されていることが多い。それは家庭でも学校でもそうです。別に特別じゃうないんじゃぁないのかな? と思う人も少なくないでしょう。でもね、たとえば、オランダでは、多くの公立学校で、授業中に何を学ぶかは、子どもが選択できる、ということに思いを致してください。オランダでは、日本のように、一斉授業ではないんですね。かたや、日本の学校では、マスコットキャラクターひとつ、カバンに付けていくことが禁じられている、なんて学校があります。行動が極端に制限されてますでしょ。日本では、子どもが1人の人格と認められることが極端に少ないからです。
子どもに対して厳罰主義でしょ。そうすると、法制度も、自ずから厳罰主義になるんです。
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