日ごろから自分と対話している人が、他の人と対話ができるのです。
日ごろから自分の、静かな小さな声を聴きつけている人が、他者の「声なき声」に応えることができるのです。
今日はp26の第3段落から。
「弱い立場の人の声なき声に応え続けること」が、 支配と支配したくなる気持ちに堕落するのは簡単です。それは、≪真の関係≫の3つめの要素、すなわち、「弱い立場の人を個として認めること」がない場合には、そうなりやすいのです。「弱い立場の人を個として認めること」は、恐怖ではなくて、畏敬の念なのですね。「リスペクト 弱い立場の人を個として認めること」は、語源によれば(ラテン語のレスピセーレ 見ること)、人をありのままに見ることを意味します。すなわち、その人ならではの個として認めることです。「弱い立場の人を個として認めること」は、ですから、弱い立場の人を不当に利用することはではありません。≪真の関係≫の相手が、自分自身のために、自分らしく、成長し、発展してもらいたいと私は思います。でも、私が利用できるからそう願うのではないのです。私が他の人と≪真の関係≫ならば、その相手が男でも女でも、一体感を感じます。しかも、その一体感を感じるのは、ありのままの相手に対してであって、私が利用するためではありません。「弱い立場の人を個として認めること」ができるのは、私が独立している場合だけです。杖がなくたって立ったり、歩いたりできる場合や、誰か他の人を支配したり、利用したりしない場合です。「弱い立場の人を個として認めること」は、自由だからこそできるのです。「≪真の関係≫とは、自由の子ども」という、古くから歌い継がれたフランスの歌があります。すなわち、≪真の関係≫は自由の子なのであって、支配の子では決してありません。
「弱い立場の人を個として認めること」は、自分が、独立して自由であって、初めて可能になるものでしょうね。逆に、「弱い立場の人を個として認めること」ができないのは、自分が、他の人に依存して、不当に利用しているからですよ。
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