いちご白書:演じる政治が、陽気な抗議に勝る時
学童期の演劇的要素が幼児前期の課題である良心を、より人間的なものにするのに役立つ。普通「親替え」と呼ばれる、良心を受容的、寛容にする作業が、演劇的要素を通じて、実践することができ...
1968、と言っても、小熊英二(立川高校のクラスメート、座席が「お隣り」だったので、呼び捨て、ゴメンね)の大著のタイトルではありません。
加藤周一さんが、亡くなる直前のNHKのインタヴューに応えて、「20世紀から21世紀へ積み残した閉塞感 、根本的に変わる必要がある。…だんだんにシステム・組織の力が強くなってきて、個人の影響力が後退する。昭和や大正時代のほうが個人が、まだあった。今、専門部分に関する細かい話になって、全体として、人間的に、大きな方針、行き先を指示出来る人がいない。…何とか、人間らしさを、人間が作ったものを、世の中に再生させる、…そのために何が相手なのか、敵なのかを理解することが大切である。」と言っていました。
個人が後退し、それでなくても強力だったコンフォーミズムcomformism(形だけ同じになること、が原義)「日和見主義」「大勢順応主義」 が、一層はなはだしくなっているのが、今の日本の現状でしょう。その転換点が、1968年だった。加藤周一さんも、小熊もそこに目をつけているのだと思います。
なぜ、そこまで、コンフォーミズムがますます広がったのか?
それは、エリクソンが取り上げたコロンビア大学での一件でも、日本の全共闘も、権力に「負け」たから。その時以降、それぞれの人が「痛い目」と「冷や飯」と「冷や汗」を、それぞれの事情で、その多寡はあっても、体験したから。髪を切り、ジーパンからスーツに履き替えて、社会の中に、それとなく納まっていったから。
生きることに手応えを感じるどころか、そんなことを考える暇がないほど、せかされ、脅され、監視されているような日々。
それでも、山本義孝さん(安田講堂占拠の時の東大全共闘代表)のように、権力におもねることなく、自分の信を貫いただけではなく、学問的にも後世に残る仕事をした人が、「いる」ことを覚えますね。
「何とかなる!」のです。
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