ケアは単に世話することではありません。やり取りの中でする世話は、本気になれば、心からの誠実さで、心から真実に、相手と向かい合う関わりになるからですね。エリクソンがケアというときには、そういう意味の真実なケアをいう訳ですね。形ばかりのケアのことは、ケアとは呼ばないのです。
The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p79の第3パラグラフから。
それから徐々に、強さが強まりつつ、新しい時間感覚が、後戻りできない、自分を確かにさせる感じに伴って、現れます。自分がそうなろうと思った存在に次第になるにつれて、自分がそれまでのかくあった存在に、自覚的になろうとするわけですね。リフトン(1970)は、一人の人が生き残るってどういうこと? について、非常にハッキリと示してくれましたが、大人になった人が分からなくちゃいけないのは(エディプスが、父と知らずに殺してしまったライウスがしたように)、何かを産み育てる者は、その人が生み育てた相手をこの世に残して先に死ぬ、ということです。こういったことすべては、それほど意識してやっていることではありません。反対に、やり取りの中で次世代を育む舞台は、やり取りの中で何かを生み出すことができない感じに脅かされずに済む状態でいる限り、自分が死すべき存在であることを、すっかり忘れていることが良いことみたいに感じることが、当たり前になりがちです。
死を考えないことは、一見良さそうに思いがちです。現代のように自分の死を忘れてしまうことが当たり前になる時、メメント・モリ 「(自分の)死を覚えておきなさい」と言う叡智とは逆をやることになりがちですね。
しかし、今の日本で、殺人事件が、毎日起こり、報道されている時代になったのは、何故なんでしょうか?
自分を確かにすることが進むにつれて手に入れる新しい時間感覚は、必ず自分の死をも展望に入れる時間感覚になるはずですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます