学校では、「先生」と「生徒」がいます。そこに入っている大人は「先生」と呼ばれます。「遊びのオジサン」である私は、「先生」と呼ばれることを避けたい気持ちでいっぱいです。「先生」と呼ばれる存在になった瞬間、子どもとの関係が歪められる、と感じているからです。何故なんでしょうか?
今どきの日本の学校は、とっても忙しい。私どもの時は、土曜日も4時間授業でした。単純に考えても、いまは、土曜日の4時間分を月~金の5日間に割り振っていますから、私の頃に比べて、今の子どもは、月~金は一時間多くの授業をすることになります。忙しい。
さらには、教員。私が定期的に行っている1つの小学校の教員は、話を聴けば、22時くらいまで居残っている教員が何人にもいるそうです。特に小学校の教員は、中学以降の教員と違って、授業を持たないブランクがほぼない。授業が終わっても、行事準備、生徒指導、授業の準備など、様々な仕事があります。一番私が「教員は忙しいのね」と感じるのは、業間休みや昼休みに、子どもたちと遊んでいる教員が、ほぼ一人もいない小学校がほとんどだ、ということ。教員は実にい忙しい。当ブログでも忙しい = 「あんたにはそんなに価値がないのよ」で書きましたように、子どもの≪遊び相手≫をしないことは、子どもを否定することに、日々繋がってしまいますが、そういうこともお気づきでないことが非常に多い。
教育は、エデュカティオ、「引き出すこと」。子どものポテンシャル、大人のポテンシャルを引き出すこと、お互いに引き出しあうことです。平たく言えば、≪やり取りをすること≫ エリクソンが好きな言葉で言えば、ミューチャリティmutuality 相互性があることです。教え教えられる関係があって初めて、「教育」と呼べます。
しかし、忙しくて、大人が「先生」と呼ばれる学校は、その「やり取り」、「教え教えられる関係」を止めている場合が実に多い。その学校が「〇〇市立◇◇小学校」と呼ばれていても、もう「学校」ではありませんし、教育をするところでもありません。そこのあるのは、≪やり取り≫ではなくて、「一方通行」であり、教育ではなくて、「調教」でしかないからです。
教育は引き出すことで、学校はラテン語でスコレ、「暇」ですから、「遊び」が基本です。陽気で楽しい雰囲気の中で、やり取りしながら、面白く楽しいことを学び合う場です。ですから、私は、「遊びのオジサン」として、あくまでも、子どもたちと愚直なまでに≪やり取り≫をしながら、教え教えられる本物の臨床教育をやりたい、と思う毎日です。
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