ルターにとっては、トイレが面接室でした。
Young Man Luther 『青年ルター』p204の第4パラグラフ下から6行目から。
それでも、シェールは、この解釈は捨ててしまい、実際には、ルターの写本を採った者で、大の大人を不快になるくらいに身もだえさせようとしたり、真面目な学者連に、人を小馬鹿にした態度で、顎であしらう真似をさせたりした者はおりません。かの精神分析家は、Clはトイレのことだと結論付けました。でもね、なかには、「どこで事が起こったのかは、そんなに大事じゃない」と、傲慢にも言う者もいますがね。
エリクソンは、ルターの回心がトイレだったことを大事にしてるみたいでしょ。それはね、昨日も記しましたように「出す場所」だからです。ルターは「出さない質」「ガマンの人」だったからです。面接室に来る人も、その手の人で、自分では、その手の人と思ってない人が大半を占めますからね。
面接では、時と場と中身の3つがいつでもどこでも、大事です。ですから、「どこで事が起こったかは、そんなに大事じゃない」などと言う輩は、三流以下、ヤブ医者以下の「タケノコ」と相場が決まってます。
これは、昔話ではありません。現在進行形のまさに≪いまここ≫の事実です。
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