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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.110,第2パラグラフ,9行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
青年期と理想:
本当の自分と真実
子ども時代の終わりに,自分自身で見通す「自分がやるべき役割(ミッション)」は,条件さえ良ければ,全ての役割の中で一番確かな役割になります。というのも,ミッションのおかげで,様々な技術の点で,私どもは確かにされますし,私どもは,目に見える仕事の中で,生きがい感を(自分には値打ちがある,と)体感することができます。しかし,思春期は不安定ですし,子ども時代を卒業しなくてはなりませんし,また,時代も不安定ですから,様々にぶつかり合う自己イメージが生まれてきます。それは,私どもは労働者としての顔があるだけではなくて,パートナーとしての顔,親としての顔,市民としての顔も心の中に備えておかなくてはなりませんし,自分はまるで機械がうまく動くため,効率よく役割を熟す為に犠牲にされている,と感じることもある時代と同じです。私の他の本で何とか申し上げたことを手短に申し上げますと,聖書の神様と一心同体になる道は,子ども等が,子ども時代に終わりに,自分自身にとっての意味と,自分にとって大切な人にとっての意味と感じられることが,やり取りがあってピッタリと一心同体になっているのか,次第です。若者が退行しがちなのは,心の中で遊んでいるあの子どもに触れる中で不動にされるためですし,若者が「不登校に(会社に行かなく)」なりがちなのはも,時の中で力を得るためです。あるいは,包括的な様々な哲学的なヴィジョンを掴み取るため,という場合もあります。包括的な様々な哲学的なヴィジョンが人々を強烈に束ねるのは,生きている実感を肯定するヌミニースの原理,生きている実感を話し言葉にする原理,生きている実感に則って遊ぶ原理,生きている実感を正しい生き方にする原理を束ねる,非常に分かりやすいけれども,人の気持ちを省みないことが多い答えで,しかも,自分が思い煩っているこをすべてを,他人のせいにする答えでもある場合です。
ここから,2つの生き方が続きます。かたや,いつも驚きがあり,時として,ショックな場合もある,「歓んで生きる意志から生まれ,歓んで生きる意志を繰り返し育む」「日常生活の礼拝」を,バラバラにすることもできます。その礼拝がバラバラにすれば,青年はお互いの関係を日々礼拝にするもできませんし,持つ立場の大人からも,待たない子どもからを(少し,あるいは,悪い良心と戦って),自分の世代を区別することも,出来ません。かたや,「日常生活を礼拝にする様々な,天晴な礼拝と,そういう礼拝から生まれる,様々な天晴な習慣」を身に着けることができます。というのも,生きている実感を法則にして,日常生活の礼拝で,天晴れな人生の習慣を身に付けるからこそ,聖書の神様から,とても良いと共に徹底的に肯定されて,不動にされ,神様の恵みにさらに恵まれ,独立していられる人物になれます。この様な人物に青年がなりますと、自分たちの仲間(人間を上下2つに分けるウソから生まれた、上に立つ自分たちの仲間)の求めに,心から応えられますし,仲間内でエリートにもなれます。その時にだけ,青年は大人になる階段に入れます。大人になるとは,未来を眼に見える様に出来る,ということですね。その未来で,本物の大人は,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にする礼拝の司式をする者になるのですし,おそらくは,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にするのに相応しい場を良く良く見分けることが出来る,ということです。「共に勝ち得た,生きている実感に対する全うな信頼」があれば,日常生活を礼拝にして,自分が生きている実感が発展し続けることの中で発達した,日常生活を礼拝にする様々な原理全ては,世の中に対する唯一無二のイメージの中で一体になりますし,様々な考え方や様々な理想が筋が通ったものにもなります。ただし,実際には,多くの人が,あるいは,強烈に,せかされて成長しなくちゃ,とならなければのお話ですがね。
動物等が,相手を大切にする生まれながらのパターンを互に歓んでやる,お互いに大切に出来る仕組みは,人間には,子どもと青年の時期にだけにしか,当てはまらない,と言われています。人間らしい生き方の中で,十二分に成長するとは,科学技術や政治の仕組みの中で,立場を得る心構えが出来ることですし,自分の仲間の心からの優しさに固有の,決して否定仕切ることなど出来ない,様々な価値やイメージも腑に落ちている,ということです。その様々な価値やイメージは,お互い様に,為にならない輩や,時代遅れ,あるいは,異質なものの考え方を排除することになります。ですから,青年期には,対人関係の中で一心同体になる心の習慣の成長と,その文化がもつ,日常生活を礼拝になるパターンに浸透している,「実感から生まれる哲学の作り方」を受け止める準備とを育む,特別に良い分かれ道をハッキリと描いてきたんです。人と一心同体になることと,「実感から哲学を育むやり方」が一つになって初めて,青年は,科学技術や歴史の回転方向と,自分の新たな強さとを一緒にすることもできます。それに,創造の場では,この本で記してきた,私が生きている実感を創造する様々な原理を,科学技術の面で満足できる日々の中で,青年が一つに出来た場合や,宗教上,民族上,軍隊上の日常生活の礼拝や行事に青年が参加できる場合は,分かれ道は一心同体になるルールができる準備ができて,一心同体になるルールに忠実ですと,驚くほど聖書の神様に従うイメージができます。ただし,実際に役に立つ心の習慣を心から受け容れることが,基盤になっている場合がおおいものです。その実際に役立つ心の習慣は,見た目には,「人間を上下2つに分けるウソの現実」と映るかもしれません。たほうで,この人生の舞台から外れた生き方を,「聖書の神様と一心同体になることがゴチャマゼにされること」です。これにはもちろん,1つの「生き方」が含まれています。その1つの「生き方」は,モラトリアムという形で,かなり特別に善いあそびによって,「浮かれ騒ぎ」や,試しであっても,「違ってもいい」という既定路線を延長するのに役立つことが許されます。たほうで,モラトリアムは,スピリット,市民生活,生きている実感を法則にすることが,制限されることにもなりますと,はた目には,境界性人格障害,犯罪者,危険な不良,スピリットを蝕む熱狂に見えるものです。生き生きとした命漲る生命力が「聖書の神様のお告げの中でハッキリと示されること」は,どれも少しは,ごっこ遊び(人を馬鹿にするごっこ遊びにもなりますし,乱暴なごっこ遊びにもなります)になります。ごっこ遊びは警告として役立つのは,若者は大人に従って当然と考えてはならないし,それは,繰り返し若者が元気を取り戻して立ち上がることができることをハッキリと示す約束があって,はじめて可能になることだ,ということです。歴史的に,聖書の神様と一心同体になって,自分が確かにされることが空っぽになるのは,私が生きている実感を生み出す,聖書の神様と一心同体になるかどうかの分かれ道が,全体的な規模で悪くなり,生きている実感が新鮮にされて,経済的な変化や科学技術の変化に追いつくことによってのみ,善くなる時です。これこそ,ルターのついて書いた私の本(訳注:青年ルター)の中で,私がハッキリと申し上げようとしたことでした。自分が空っぽになる源は,現代史の革命期を通して,辿ることができますが,私どもは,全体主義が,思想的に立たせる,日常生活を礼拝にする礼拝の中に,若者世代を巻き込んでいったことの中に,自分が空っぽになる源があることがわかります。全体主義が青年を巻き込んで,ものの見方を押し付ける日常生活の礼拝も,ヌミノースの驚き感激する原理(ヒットラーの顔),ルールを言葉にする原理(「反アーリア的輩」を声高に「厳罰にしろ」と大合唱),ごっこ遊びの原理(様々な行列に踊りに集会),キッチリと振る舞う原理(整然とした軍隊に様々なマス・スポーツ)が,大きな舞台で演じられます。若者にものの見方を押し付けるやり口は,若者世代全体に,ものの見方を1つにさせようとしますし,それは,若者ひとりびとりに絶え間ない変化にさらすことになりますし,実際に,すべての伝統的な様々な価値は,「御免こうむりますと言いたくなる対象」となります。
結局のところ,日常生活を礼拝にすることが陽気で楽しいを作り出すことを証明するものは,あらかじめ,心導かれて,共に豊かにされてきた,心響き合わせてもらった若者の育ちの良さと,日常生活を礼拝にされることなく育ち,日常生活を礼拝にする,別の様々な礼拝も見通すことができない若者の育ちの悪さとを比べることが一番でしょう。日常生活を礼拝にすることが陽気で楽しいを作り出すことが約束するものは,文字通り,他の人も共に,その人の≪私≫が生きている実感を等しく新鮮にして心から歓びながら,≪私≫が生きている実感を新鮮にすることです。幼稚な悪い良心を手塩にかけて育て,大人の自由な善い良心にします。それは,2人が共に,悪いパートナーにはサヨナラして,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場合は,賢慮が働いて,心から優しい善いパートナーが,自分を空っぽにして,互いに大切にし合うことが実現することから,善い良心が育つわけです。理想的な様々なイメージと共に一心同体になりますし,身に着けた正しい振る舞い方を共に良しと認めます。
このシャロームが実現する全体像を眺めてみる中でハッキリするのは,日常生活を礼拝にする「戦争への道」が,歴史を通して果たしてきた役割です。間違いなく,繰り返し起きた様々な戦争(あるいは,戦争が起きることを期待したり,準備したりすること)は,日々礼拝を繰り返したいと願うニーズを,戦争による礼拝に捻じ曲げてきました。戦争によって,日常生活を礼拝にして,聖書の神様を信頼する信頼を深めることができなくなりますと,心の中にある様々な敵である不安が,人類は1つという歴史の中で,不安同士を互いに神のごとき存在にしてしまうことになりますね。
青年のために予め用意された,やったカッコだけの礼拝にする原理は,「全体主義」です。この「全体主義」は,硬直した様々な考え方の中に,問答無用のお題目を掲げて,熱に浮かされて,人を押しのけて,夢中になることです。この全体主義の道連れは,青年に特有な自己愛的な(訳注:身勝手な、安倍ちゃんみたいな)人や,様々なイデオロギーにありがちな,聖書の神様でないものを,神として崇めることですからね。それから,この「全体主義」は,「よく考えないで従うこと」に退行しているように見えるところもありますし,身勝手な理屈にも見えます。さらに,聖書の神様と一体になる舞台は,「最深欲求」の舞台とも一体です。すなわち,仕事,友達,大切な人との絆の中で,互いに大切にし合うことをし続けることこそが,最深欲求です。この青年期の舞台は,日常生活を礼拝にするリストの中に,「近しくなりたい」原理が加わります。青年期の舞台の,やった格好だけの偽物の礼拝になる側面は,自己愛の舐め合いでという,薄っぺらなやさしさで,排他的集団の1つの「選民意識」となります。
互いに大切にし合うことをし続けることこそが,全ての人の最深欲求です。ですから,この最深欲求からは,近くしなりたい原理が生まれ出るのは,当然です。
選民意識,自分たちだけが偉い,と考えるような幼稚な安倍ちゃんたちの選民意識は,この最深欲求の対極をなします。
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