トマス・アクィナス
トマス・アクィナスは、理性に自由を確保して、合理的に自分を確かにする道をひらいたと言われます。
Young Man Luther 『青年ルター』のp185の下第3パラグラフから。
トマス・アクィナスの神学を通して、神学が自らのものとして手に入れたのは、アリストテレス哲学が行っていた、観察と思索に対する努力であったことは、明らかです。この、観察し思索することは、ルネッサンス期には、ごく普通のことになりました。しかしながら、人間が観察し判断する備えをするには、あの世とこの世を共同されるだけの意志の強さを、神様からいただかなくてはなりません。古代ギリシャ・ローマとキリスト教、理性と信頼をそれぞれ統合する、などと言うことは考えられないことでした。その直接的な結果は、威厳のある敬虔な態度、純粋な思想、統一された世界観ですが、これらは、あらゆる時代のヒエラルキーと儀式の形にピッタリです。しかし、ルターの問いは、この統一において、良心の課題が理性の範囲に限定されちゃいはすまいか?ということであって、理性が信頼と一致しない、ということではありませんでした。
理性と信頼と言う、古くて新しい課題です。
いまでも課題です。学校でやることは、本来、信頼を育みつつ、理性をも洗練させていくことであるはずでしょ。
しかし、今は信頼は決定的に欠落して、理性のほんの一部、アカデミックなところを、進学塾には遠く及ばない形でやっているのが、今の日本の公教育の現状です。ところが、信頼が決定的に欠落している子どもたちが大挙して今の日本の学校に押し寄せ居ていて、今までの学校のやり方が通用しない子どもたちで、今の日本の学校は溢れかえっているんですね。子どもも大変困惑していますが、教員たち、特に管理教育の連中が困ってんですね。
信頼を育む教育を再生する、絶好のチャンス到来です。
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