本物の創造的な人には、「成功」の中で悩み、みたいな、尋常ならざる道がありますね。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.260の、2節の下から6行目途中から。
ルターは回復した時、ルターは技術体系という建物と共に前進しました。しかし、ルターは、自分の教区の人たちや学生たち、それから、王子たちのニーズに、最後の最後まで、応えたんですね。ルターが時々怒りを爆発させる時だけ、拒絶の炎がほとばしり出ましたが、それは、ルターにとっての精神衛生でしたけれども、ゲルマン人には、ずうっと続く悪い例になりましたね。
ですから、ルターは人の話を≪聴く力≫が人並み以上に強かったと言えそうですね。ルターには、≪聴く力≫、聴く耳があるから、人が寄ってきますし、人が依ってくるわけですね。ニーズに応える道も開けます。
今のニッポンの学校は、大川小学校のように、子どもの命や人権よりも、組織の目先の利益を優先しがちです。なぜなら、敗戦直後の自由主義的な教育は失われて、時の政権のご都合主義に盲目的に従い、「人間を上下2つに分けるウソ」の猛毒と、「悪い良心」の毒牙にやられているからです。ですから、善意の暴力が猛烈で、彼らの「正しいこと」を子ども等に押し付けること、甚だしいこと、目に余ります。
したがって、
今のニッポンの学校で、最も足りないのは、この≪聴く力≫です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます