#子どもの遊び は #人間らしい自由な生き方の練習場 #社会正義か不正かの選択現世考 : 戦車部隊にいた司馬遼太郎さんからの,問いかけ インターメッツォ : 心を育てること 自分を育てること 後藤健二さんとマザコン宰相(最小)......
「発達トラウマ障害」Enpedia
をご参照ください。
The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することができた』 p.87。 第2パラグラフ,下から7行目途中から,です。今朝は,p.88の10行目から。
生きている実感があまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きるのが心の習慣になりますし,さらには,生きている実感がリアルに自分を生きていることの不可欠の条件になります。同時に,2人か3人,心響き合う人間に発達するイメージと言葉を分かち合う者達だけがそれぞれの「生きている実感」から唯一の「共に生きている(共に居る)実感」の中で一心同体になります。…。
「共に生きている(共に居る)実感」に関して,フロイトさんも,もっと言ってますからね。「間違いなく,ひとりびとりの人がキリストと一心同体にする絆が,ひとりびとりの人が互いに一心同体になる絆のはじめです」(1921)って。しかし,すでに触れましたように,フロイトさんがこう言ったのは,教会や軍隊のような「一心同体になる集団」についての話の中でしたね。しかしながら,人類皆兄弟姉妹に至る一心同体となる仲間全ては,親や創始者から,神々に至るまで,とても善いと感じる大好きな人と一心同体になる体験がなければ,ありえません。ですから,シナイ半島の上に現れた聖書の神様は,…モーセから問われて,「私は,今ここで生きている ものだ」と自己紹介していますし,モーセに率いられたユダヤの民に,「『私が生きている実感』である私が,『私が生きている実感』を皆さんにギフトとしてプレゼントしますから」と示しています。
かくして,この世を超越したスピリットである聖書の神様と一心同体になるヌミノース体験がなければ,生きている実感,一心同体になる体験も生まれません。
しかし,聖書の神様は眼には見えませんから,聖書の神様のスピリットを生きるひとりの人格が放つスピリットの香りを感じて,聖書の神様に気付くのが王道です。大自然や歴史の中に,聖書の神様のスピリットを実感する場合も少なくありません。
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