ルターの気付きによって、神様は私どもの心の中で語りかける存在になりましたね。
Young Man Luther 『青年ルター』p214の4行目途中から。
人生最後に出合わなければならない脅しになるんじゃなくて、神は、私どもの中で、いつだって、何かを始める存在になりました。ですから、神の子は常に生まれ変わりなんですね。すなわち、「ita et nos semper oportet nasci, novari, generari ラテン語で『ですから、私どもは生まれ変わり、元気を取り戻し、新たなスピリットに生かされるものとなる』」んですね。「出来た」ってことは、いつだって、始めることです。「Proficere est nihil aliud nisi semper incipere ラテン語で『“出来た”というは、始めること以外の何物ではありません』」ということですよ。
「もう人生は終わった」と思う時に出合う人って、どれくらいいるんでしょうね。全ての人がそういう体験をする訳じゃぁ、ない。でもね、そういう体験をした人が、まさかその「もう人生は終わった」と言うところに、新たないのちの始まりがあることに気付いたとしたら…? どんな気持ちがすると想像しますでしょうか? それは文字通り「天にも昇る感動、悦び」じゃぁないかしらね。
ルターは、それを体験したことに間違いはありません。ですから、“出来た”ってことは、いつでも,忖度せずに関わりを始めること。それも単に今までの繰り返しを始めることじゃぁ、ないんですね。別次元の命,聖書の神様同様に,心から優しい関わりを忖度せずに始めることになるんですからね。それは、新しいスピリットに活かされることですよね。
それは、十字架上のイエスの最後の言葉、テテレスタイが“出来た”という言葉であったこと、に始まるものなんですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます