ポスト3.11の視点で見た、蘇える内村鑑三内村鑑三といえば、堅いキリスト教の中でも、ことさらお堅い「無教会」(無教会キリスト者)の元祖。お堅い、偉い、近寄りがたいイメージが従来ありましたね。しかし、今...
先日、ナウエン H.J.NouwenのThe Wounded Healer 『傷を背負った(霊的)治療者』を読んでましたら、ジェームズ・ヒルマン James Hillmanの、Tsimtsum ツィムツーム 「空」についての記述が引用されていて、とても大事なクリスチャンの態度であり、セラピストの態度だと強烈に感じました。その理想形だと感じたからです。
それで、先日、ジェームズ・ヒルマンのInsearch : Psycholgy & Religion 『内観 心理学と宗教』を購入し、読み始めました。そこでもまた、大事なメッセージに満ち溢れていることに出合いましたので、皆さんで、その一つをシェアしたいと考えました。樋口和彦先生らの翻訳もあります(『内的世界への探求』創元社)。
それは、「聴く」ことです。原文ではp.21 の第2パラグラフからになります。
「聴く」ことは、神学者らや牧師らには、大した問題にならないでしょう。と言うのも、「聴く」ことは、瞑想や祈りに似ているからです。祈りは、意識的に沈黙することですし、あの、心の底から聞こえてくる静かな囁きに、全身全霊で、耳を傾けることです。それは、まるで、祈るものは神様に何かをお願いしたり、神様から何か頂き物をしよう、ってんではなくて、神様が私のところに来ていただけるくらいに、立ち帰って心静かになることみたいなもの、ってことなんですよね。
ユングはその昔、「神を信じるか?」と問われたときに、「神様だったら、良く承知しています」と答えたとか。ジェームズ・ヒルマンは、ユングの正統的な弟子ですから、似たような境地なのかもしれません。
私は、ここを読んだら、「ヘボなクリスチャン」等とは比べ物にならないくらいの、本物のクリスチャンだと感じます。「ヘボなクリスチャン」とは、祈りの何たるかも知らずに、「祈り」「プレアウォーク」などと称して、ゴチャゴチャと動き回っている人で、痛々しくて見ていられない感じの人のことです。多分、全く「祈り」をしたことがないのでしょうね。
「祈り」は、いつでもイエスキリストが私の≪いまここ≫に来てくださること、再臨です。それと同時に、そうしていただけるだけ、私どもが心の静かさ、謙虚さ、真実さに立ち帰ろうとする、心のベクトルの中にこそあるんです。
そんな「祈り」を今日も祈りながら、生きたいものですよね。
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