インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 子どもの弱みにつけ込む大人たち本当に信頼しているものと、「泣く赤子」 視線の不思議 「眼は口ほどに物を言う」という格言がありますよね。自分の気持ちを、言葉に表さず......
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今宵も,The Galilean saying and the sense of "I" 「ガリラヤのイエス・キリスト物語と≪私≫の感性」から,p.323,10行目途中から。 少なくとも,4回目の訳し直し。
ウィリアムズ・ジェームズは(彼の著書『心理学原理』の中で)この(訳注:普通の意識では,その存在さえ気が付かない,徹頭徹尾意識の主体である)≪私≫の問題を扱っていますね。しかも,特権的な視点から,すなわち,思想家の視点から。
「私が何かを考えている時はいつでも,私は多かれ少なかれ,《私自身》を意識していますし,《私自身が生きている》ことを意識しています。同時に,意識しているのも私です。したがって,知られている私という私の全ては,いわば二重になっていて,知られている部分と知っている部分,知る対象と知る主体があり,私の中に区別された見方をしなくてはなりません。つまり,私については,《知られている私》と《知っている私》と,その2つを呼ぶことができます」
「《知っている私》,すなわち,純粋自己とは,《知られている私》に比べると,はるかに捉え難い。《知っている私》はいつでも,意識的に《存在します》。他方,《知られている私》は,意識している《相手》の1つです。換言すれば,《知っている私》は考える人です。とするとすぐに思い浮かぶ問いは,その考える人って,《何》なのか?ということです」
このジェームズの文章を読むと,誰かが呟くのが聞こえてきそうですね。「我思うゆえに,我あり」と。しかし,ジェームズの文章の中で私どもが関心を持っているのは,全ての人(その中には考える人も含まれます)の≪私≫の感性ですし,その≪私≫の感性は,≪私たち≫の感性の中で,1つの言葉を分かち合うことによって,他の人たちと一体になります。その1つの言葉は,神の命が回転する場,賢慮と許しに満ちた時空では,皆に受け入れられた世の中を見るイメージが,特定の地域の,ひとりびとりすべてが抱く見通しに影響するだけではなくて,新しい啓示を知らせる神の声を皆が歓んで聞き入れることにも影響する仕方にも,ピッタリとしているはずです。結局は,≪私≫とは,それぞれの人が,やり取りの中で分かち合うことができる体験世界で意識の中心にいることを確かめる硬い岩盤ですし,その中心にいることがあまりにも,畏れに近い驚きと感激に満ちたヌミノース体験,神様が自分を肯定してくれる体験ですから,晴れ晴れとイキイキと生きている実感ともなりますし,さらには,「生きている」って,厳粛に言葉にできる上で欠かせないことにもなります。同時に,2人か,3人,ピッタリ同じな,世の中を見るイメージと言葉を分かち合う人だけが,しばらく,それぞれの≪私≫が1つの≪私たち≫に一心同体になることが出ます。
発達トラウマ障害の子ども,大人が増え,生きている実感が乏しい人があふれているのは,神様に肯定してもらうヌミノース体験がないし,日常生活の礼拝を失って,命のないルールの押し付けばかりの日常に,皆が辟易し,疲れ切ってているからでしょう。
解決策も自ずから明らかでしょう。
私が何かを考えるから,私が生きている実感を持てるのではないのです。
私が神様から「いいよ,いいよ」と肯定される声を聴き,その驚きと感激を体験し,少なくともそれをもう1人の人と分かち合うことができるから,圧倒的で静かな歓びも体験し,いついかなる時にも,陽気で楽しく生きることが実現するんです。
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