2013-08-06 02:36:13 | エリクソンの発達臨床心理
将来こうなりたいと思う自分があります。その「なりたい自分」を具体的にイメージするためには、あそびが必要であることがハッキリ分かりました。あそび(ゆとり、余裕)があるからこそ、遊びのなかでなりたい自分をいろいろイメージしながら、実際に試すことができるのです。その「なりたい自分」は、他人から押し付けられた、「良い子」としての自分では全くありません。自由にイメージし、自分自身が本当に望んでいるのは「これだ!」と実感できる<私>です。この<私>こそ、「確かな自分」ですから、一般的には、「アイデンティティ」と呼ばれることもあります。
私もジャーナリスティクなのかもしれませんね。今日のタイトルなんぞは、その類かもしれません。
基本的人権の中核は何でしょうか? 生存権、社会権、環境権などいくら並べられても、その人権を選択する自由がなければ、その人権など、所詮絵の描いた餅でしかない。日本にも憲法十三条で「すべて国民は、個人として尊重される」と規定されています。しかし、これがどれだけ、家庭や職場や地域社会で生かされているのか?福島やその周辺の人々は、今も放射能で侵されている(はずな)のに、その検査も、治療も受けられない。毎日、どれだけの放射能が、元福島原発から漏れているのか?という基本的データさえ、権力は隠しています。その態度は、「すべて国民は、個人として尊重される」という規定を尊重しているといえるのか?
答えは明確でしょう。権力は、この「すべて国民は、個人として尊重される」の固定をないがしろにしています。同時に権力は、憲法九十七条の規定「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」も、ないがしろにしているといえるでしょう。
自由が基本的人権の中核なんですね。それは日常的に申し上げれば、ゆとりであり、遊びなんですね。ですから、毎日ぎりぎりの生活をするんじゃいけないんですね。ゆとりと遊びを失っちゃぁ、だめなんです。
毎日、自分の最深欲求に向き合う1人の時間、ソリチュード、生きることを豊かにしてくれる1人の時間、を大切にしながら、毎日を丁寧に生きるんです。これこそ、自分を、隣を、大事にするため、人間らしい暮らしを、私どもが取り戻すためにねなくてはならないカイロス、とき、なんです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます