イエスとその弟子たちは、ユダヤ後では、危ない外国人と見なされがちだったことが分かります。
p332の第2パラグラフ。
私どもが、「ディアスボラ、四散の民」という独特な時空の心構え、それは民族が存在するという意味では、誠に曖昧模糊としていますが、これを調べようとするときには、アメリカ史の中での「フロンティア、辺境」という、極めて重要な事実を短くても考え直しておいた方が良い。フロンティアは、徐々に、西に、北に、移動して、太平洋まで行きついた、それでも、フロンティアが姿を見せるのは、たくさんな人生の計画であったり、冒険であったり、もちろん、思い出の中だったりします。言うまでもありませんが、日常的に口に上る話題です。ちなみに、移民という形も見逃さないでくださいね。移民という形は、長らく(移民は今、イスラエルであるように)、移民をする新参者の熱心さを表します。それはどこから来たのかに、関係ありません。「フロンティア」が重要な役割を演じたのは、「ニューディール政策(新規巻き直し政策)」という暗黙の心構えにおいてでしたし、「ニューフロンティア政策」という隠れたスローガンにおいてでした。同じことは、アメリカ人が持つ戦争に対するイメージに対しても真実(真実だったん)です。アメリカ人が持つ戦争に対するイメージは、軍隊とは外国で戦う遠征部隊であって、敵になるかもしれない者が侵入することは意味しない、と決めてかかっています。運命に対する個人的意味は、それは人と分かち合っている時空に対する心構え次第ですが、それは、あらゆる守りの姿勢に中でも、もっとも単純な態度からできています。たとえば、私にしたことを誰かができるし、人々が私に何かをすれば、私も同じことをその人々にできる、ということです。
歴史の中にあった、ディアスボラやフロンティア。それは外的な歴史的事実であると同時に、多くの人の心構えにもなりうる。この視点、目の付け所が実に面白ですね。
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