これだけウソとゴマカシが瀰漫している日本は、信頼する力が極端に落っこちているんですね。一人びとりの日本人が、です。日本人は、倫理を内面化するのが、弱い。倫理は世間の眼以上のものはないから、「ばれなきゃいい」ということになりがちです。そうすると、「ずるいやり方でも、儲かりゃいい」となるでしょう。そのなれの果てが今の日本ですね。
p327の第2パラグラフ。
聖マタイのように、福音を語る形は、一方通行かも分かりませんが、イエスが伝道する際には、ガリラヤで出会った多様なグループの人々に幅広く話しかけることと、しかしそれにもかかわらず、それぞれの出会った人の、潜在的に、相手になることを、両方していることを伝えているんですね。こういう組み合わせをする時、一つの場面が際立ってくるんです。その場面とは、私は精神分析家として、私は、ジェファーソン講座で引用してもいいと感じた場面ですが、ジェファーソンは、この場面を、ジェファーソンか「本物」としたデータからは除外していたものなんで、引用したんです。その場面とは、12年間も出血が続いている女性で、しかも、医者に全財産を取られたのに、全く役に立たなかった、そんな女性の物語です。イエスの周りを取り囲んだ大群衆の中から、イエスはその女性を見つけ出しますが、その女性は敢えてイエスに近づこうとはしませんでしたし、あるいは、そうすることは実際にはできなかったのですが、しかし、イエスの背後からその女性は押し寄せて、イエスの服に触れました。
昨日のNHKスペシャルで、認知症対策の番組をやっていましたが、ご覧になった方もおられるだろうと思います。その中で、ユマニチュード(Humanitude)と呼ばれる、介護の基本的な態度が紹介されていました。ユマニチュードは、human attitude を一つの単語に合成した言葉だろうと思われます。文字通り、認知症の相手を人間として認める関わり方を言うのですね。
このユマニチュード、見つめる、話しかける、触れ合う、という至極当たり前のことを、意識的にするんです。しかし、当たり前のことを意識的にすることこそ、スポーツから芸術まで、あらゆる技術の基本です。ユマニチュードも、見つめる、話しかける、触れ合う、という当たり前のことを、意識的にすることが、認知症の相手を人間として認める関わりに繋がっているんですね。
この触れることが、相手を人間として認めることに繋がる、といのうが、長血の女がイエスの服に触れることと通じます。不思議ですね。
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