トラウマは、表現しただけでも、癒される場合が結構ありますね。必ずしも、言葉にする必要はありません。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.245、ブランクから。
言葉の限界
トラウマは、それを語る者だけではなくて、それを聴く者も圧倒します。『現代の記憶の中の大戦』の中で、それは、第一次世界体験に関する研究の傑作ですが、ポール・フッサールは、トラウマが創り出す沈黙の部分について、鮮やかに叙述しています。
戦争のポイントの1つは、いろんな出来事と、戦争を描くのに(適切だと思われる)手にはいる言葉の衝突です…。理屈を言えば、英語の言葉が、戦争…という現実を上手く描写しきれないのではありません。英語が語彙が豊かです。血、恐怖、苦痛、狂気、くそ!、残忍、殺人、裏切り、痛み、デッチアゲのような言葉もありますし、吹き飛ばされた両足、両手に溢れ出したハラワタ、夜中じゅう聴こえてた金切り声、死ぬまで溢れ出るケツからの出血…みたいな言い回しもあります。
多弁が、むしろ、語りつくせないこと、隠し事、を浮き彫りにすることがありますね。
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