私どもは、どのようにヴィジョンを再生すればいいのでしょうか?
p333の第2パラグラフ。
それで、私どもは結論に達します。すなわち、1人の民族がどのような地理的・歴史的場にあっても、その大多数(あるいは、その指導的なお役人)は、たくさんな支配的な時空の特質に頼っても大丈夫だと確信している、ということです。その時空の特質とは、実際は、≪私≫という感じに求めに対応していますが、それは同時に、その時空の特質が、1つの集団の≪私たち≫において、一貫性もある、ということでもあります。その中から、これまで私どもは≪ヌミノース≫という感じに触れてきました。今やそこに、私どもは、≪行動≫、≪1つの場の中心≫を選択するという1つの選択を付け加えます。それは、同時に、時間の≪一貫性≫と、すべてのものについた、強烈な≪境界線≫の印も、付け加えているんですね。この≪境界線≫の概念は、今後、ユダヤの領地の攻撃されやすい境界線に近い地域と、ヤーウェと言う名の神の世界の、ハッキリとしていて、しかも、全てを包み込む範囲とを比べるのに、なくてもならないものになるでしょう。もちろん、この≪境界線≫の概念は、≪私≫という感じに対しても、≪私たち≫という感じに対しても、衝撃になりうることに触れる際にも、なくてはならないものになるでしょう。1つの集団の時空を描く際に、私どもが強調しなくちゃならない形とは、その時空の特質すべてを高めもし、逆に、時空の特質を、死んでる状態、端っこの状態、行き当たりばったりの状態などにする恐れを抱かせもする、そんな形なんですね
時空が示す境界線。時間の一区切り、国境線、ユダヤとパレスチナを分ける、あの高い壁…。それらが、人間の心に及ぼす影響がいかに大きいのか、それをエリクソンがハッキリ教えてくれているところですね。
一例をあげれば、イスラエルによるガザの空爆や地上戦。これは、ユダヤとパレスチナを分ける、あの高い壁と、今の圧倒的で悲惨な暴力の無力との関係。これが、密接に関係していることに思い至るとき、エリクソンの主張の正確さを、不幸なことながら、証明することになっています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます