エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#大人のお務め #心から自由にされた者のお務め

2019-09-02 06:35:27 | エリクソンの発達臨床心理



「発達トラウマ障害」Enpedia

 をご参照ください。


 不思議な声が,またまたまた聴こえましたので,identity and the life cycle  『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』  p.107 2行目から。




でも,人が育つ場を民主化したいと願うなら,我々人間が先ずしなければならないのは,真っ当な子どもに確実になる様な民主化ですよね。人が育つ場では,親の身勝手,子どもの弱みに付け込むこと,対等でない関係を禁じる為に,我々人間が先ず気が付かなければならないのは,人生の中で対等でない関係が始まるのは,子どもと大人が対等でないことからだ,ということです。人間は子どもの時期が長いですから,親たちも,教えの場も,(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)あの子どもの気高さを心から信頼して,(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)その子どもを鍛えて,私どもが知る限り最高の人間,すなわち,キリストに育て上げる時にもできますね。子どもの時期が長いので,(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)あの気高い子どもも,心が重たくなるような不安に晒されることにもなれば,いつも心配でたまらない,ということにも,晒されることにもなります。たまらない,この不安や心配は,対等な関係がなく,生きている実感が育まれない中で,強まりますと,何となく不安,ということが,大人になっても,いつまでも続くことになります。何となく不安がいつまでも続きますと,巡り巡って,本人の生き方にも,市民としての暮らしにも,国同士の関わりにさえも,無理と無理強いが必ず生じることに決まっています。子どもの時期が長いので,大人たちは,善く考えずに,気高い子どもに関わってもいいや,と試したくなりますし,しかも,(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)あの気高い子どもが,大人にピッタリとくっ付いて,仲良くなりたい,という心底からの(あるいは,最深欲求からの)思いに,残忍に漬け込んじゃえー,との思いに駆られる場合があまりにも多いんですね。(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)あの気高い子どもが,大人にピッタリとくっ付いて,仲良くなりたい,という心底からの(あるいは,最深欲求からの)思いは,他者が割り当てられている,聖書の神様のスピリットが一巡する様に,私ども,心から自由を体得底で身につけた者は,心響かせることが出来る,本物の大人達が出来るように,してやるんです。




子どもが大人と対等でない。

対等でない関係は,聖書の神様の予定にない,的外れ。大間違いの関係です。

聖書の神様が予定される正しい関係は,対等の関係。でも,それは,対等,という言葉から来る常識とはかけ離れた関係です。

対等な関係は,大人が意識して,下に立つ,という態度で子どもに関わる時にだけ,実現します。

それは,その時だけ,聖書の神様のスピリットが子どもとの関係の中で一巡する様に出来るからです。そのように支援するのが,心から自由にされたサイコセラピストの務めです。
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