ルターの疑いは、「現代的」と言えるほど、深刻なものでした。
ルターは根源的な迷いを、一人の人の「働き、感じ、理性」を保証するものとして讃えました。考え方が捻じ曲がっていることは、底なしの危機を孕んでいます。つまり、考え方が捻じ曲がっていたために、ルターが育ちの中に、鉱山主が破滅をいつでも怖がっていることがあったことに加えて、ルターは仕事を急に辞めちゃいやすかったですし、このようにして、いつなんどきでも直面しなくてはならない最後の審判に、いつでも注意を払うことになりました。キルケゴールがかつて「ルターは常に、雷が自分の背後に今にも落ちそうな感じで、(ビクビクしながら)話もするし、行動もする」と言ったことがあります。キルケゴールは、もちろん、あの不思議な雷に触れているのですが、この雷こそ、ルターが修道士になる決心をすることになる啓示的な原因とみなされているものです。しかしながら、破滅を予期しすぎること、怖すぎて、最後の審判の備えをせずにはいられない気持ちは、あの運命的な雷のずっと前から、マルティンの暮らしの一部でした。ルターにはそんな気持ちがあったからこそ、あの雷によって、ルターは修道士になったのかもしれませんね。
ルターは、宗教改革者として、自信に満ち満ちているようで、実際は迷い悩む人だったのですね。だからこそ、裁きをいつも気にしてビクビクしていたのでしょう。破滅を先取りする予期不安、最後の審判でも,天国ではなく,「おまえは地獄に行け!」と言われると思う恐怖が、いつでもルターの暮らしにあったのでした。
これも、500年前のお話でもない感じです。
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