人間にとって必要不可欠な防衛機制も、やりすぎになると病的です。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p83の第2パラグラフです。
アンナ・フロイトの文書に、この可能性を指摘する件があります。もちろん、一番明らかなのは、ひとりびとりの、ある種の防衛機制は、社会の慣習になっている守りと似ている、ということです。たとえば、「虎の威を借りること」。なんか深刻な理由から、オバケが怖くて、いくつかの身振りをすることでオバケに関わらない様にしていた女の子がいます。それで、その子は、ホールで出会ったオバケの真似をしてます。そして、私どもは、怖い相手になることで、「不安を愉快な安心に変えちゃう遊び」(アンナ・フロイト、1936)のことを思うかもしれませんね。同様に、一番攻撃的な格好になることが「魔よけの原始的ないろんなやり方」になる、ということが、文化史を通して、ずっとありますからね。
これも見事ですね。いつもお母さんに叱られている子が、お友達をいつも叱る子になるのは、どこの小学校に行っても、必ず出会う子どもです。これも、自分がいつも叱られて、心に土足で入られてる場合、その叱るお母さんに自分がなって、その時の怖い思いを解消しようと、本能的にするわけでしょ。秋田のなまはげなども、自然からくる恐怖を、怖い鬼になって、追い払おうとするものかもしれませんしね。ヒットラーに心酔した人々も、大恐慌以降の社会不安を、「強そうなヒットラー」に心酔して、なり切ることで、解消したみたいにね。
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