エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

意識と無意識をつなぐ「楽しい」

2013-05-02 05:22:53 | エリクソンの発達臨床心理
 3つの意味が子どもの遊びにはあることを、前回は学びました。今日はその続き、Toys and reasonsからp.41~のSeeing Is Hopingから、第1段落の後半です。それでは翻訳です。





現状では、これらの理論の内の何れも物語の全体を語りつくせるものではありませんが、何れも捨て去るつもりはありません。というのも、これらの理論はすべて、人間の思想と行動に必ずあるいつくかの事実を指し示しているからです。しかし、もし私どもがある遊びの出来事に、相当のトラウマ経験の「解決(徹底操作)」を認めるとしても、楽しいという事実さえあれば、そのトラウマ経験が、自分を再生してくれる行為に変化する、ということもまた、私どもは記しておきます。ある出来事を、人に知らせなくてはならないし、告白さえしなくてはならないという思いに囚われていても、楽しければ自己表現することが嬉しくなります。さらにもし、遊びが成長しつつある能力の練習に役立つことが火を見るよりも明らかであっても、楽しければ、その練習を独創的に思い切りすることができます。実際、楽しいことがもたらす恵みがほとんどないと、もちろん、幼いクライアントにはあまりにもよくあることですが、その子どもは、私が「遊びの混乱」と名付けたことに苦戦しがちです。しかし、無傷の楽しさは遊びに分類できる出来事にだけ当てはまるのではありません。楽しい、ということはおおいに、ピチピチとして生きていることの一部なので、楽しい、ということはどんな定義でもすぐにカワしてしまいがちです。おそらく、一つだけ例外なのは、得難い品質を含んだ定義です。プラトンの「跳ぶ」という遊びの定義がその得難い品質を含んでいます。





 遊びの本質と言うべき、“楽しさ”は定義できません。プラトンの「跳ぶ」の定義以外には、というのが印象的です。実際子どもは、楽しいとピョンピョン飛び跳ねますよね。あれが遊びの原型ということでしょう。その“楽しい”がある時、子どもは(子どもだけではありませんが)意識と無意識を結びつけて、自分を育てる(跳ぶ)ことができますし、その自分を表現した作品も創造する(跳ぶ)こともできます。不思議ですね。まるで、映画「千と千尋の神隠し」のタイトルソング、「いつも何度でも」に出てくる「生きている不思議 死んでいく不思議」そのものです。
 今日はこんなところで。

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