今日から、2本目の論文に入ります。Toys and Reasonsのp.41~51のSeeing Is Hopingの翻訳をします。それでは、タイトルを含めて、第1段落を翻訳します。ただここは長いので、今日のところはその前半を翻訳することにします。
見て知ることは望むこと
この種の2つの短い例を納得してもらうことが、精神分析の考えに慣れておらず、したがって、その考えを受け容れていない人々に果たしてできるのか、私には分かりません。その精神分析の考えとは、あらゆる人間の表現は、人間が言葉にしているつもり以上を語っているし、その人が意識して話そうと思っているよりもはるかに多くを物語っている、ということです。そしてまた、精神分析の考えは、そのような意味にこそ、重要な意味があると分かることがある、ということです。私がお示した入り組んだことの中に、おもちゃの場面で役立つことがあるかもしれない、と認めてくださったとしても、このように厄介な意味が、遊びは天与の恵みであるという考えそのものを、否定しないのかと疑う人が出てくるかもしれませんね。ある神学者はかつて私のことを、興ざめの人物と呼んだことがありました。というのも、私が子どもの遊びの中にさえ、おこがましくも、葛藤や目的を見つけ出してきたからです。そして、これは私が認めてきたことですが、臨床理論などは子どもの遊びに厄介な課題を課してきました。「トラウマ」理論によれば、子どもの遊びは、過去において十分に折り合いがつけられずにいた経験を、象徴的に繰り返したいという強い願いと、かつて受身で苦しんだことを能動的にコントロールできることに変えたいという強い願いを実現するのに役立ちます。「カタルシス」理論によれば、子どもの遊びは、第一に現在における機能、すなわち、鬱積した感情を開放し、あるいは、まじめで役立つことのためには注ぎ込むことができない余分なエネルギーを開放する役割があると見ます。それからまた、「機能的」理論もあり、それは、遊びは新しい能力の練習であり、そのようにして未来に対する備えであると見ます。
この論文Seeing Is Hoping(見て知ることは望むこと)は、Toys and Reasons『おもちゃと知恵』の第一章Play and Vision(遊びとヴィジョン)の第三節にあたります。この前に2つの論文があります。今日の翻訳の冒頭のところで、「この種の2つの短い例」とあるのは、前に出てきた論文のことを指していると考えてください。
さて、今日のところに出てきた、この3つの遊びの定義は、どれも基本的なもので、子どもの遊びの意味を実際に考える時に、いつも実際に活用できる定義です。どうぞご活用ください。
それでは。
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