「ダヴィデに」「二月六日、木曜日にダヴィデが死んだ。」この一文で始まるエッセイ「ダヴィデに」は、5ページほどの極々短いエッセイです。しかし、ここには、人間にとって、非常に大事なエッセ......
津久井やまゆり園の事件では、攻撃性がいかに残忍なものなのか、が見せつけられた感じですね。攻撃性ほどダメなことはない、と一般にも信じられています。
しかし、エリクソンに学んだ私は、全く別の見方をしています。実際に、そのように考えてサイコセラピーをした方が、圧倒的に良好な結果が出ています。
今朝も、Erikson, E. H. (1977). Toys and Reasons: Stages in the ritualization of experience.New York: W. W. Norton. から。P.56から。
根源的でいて、しかも、ほとんど無垢な「攻撃性」のおかげで、日常生活のなかに、あらゆる活動が、イキイキとしたものになる訳ですし、同時に、あらゆる活動が、陽気で楽しいものにもなるんです。攻撃性は、単純に、森羅万象、成長する生き物のまさに生き方に属しているものです。実際に、ラテン語で、aggredere、アグレディーレ、とは、何よりも、陽気で楽しいやり取りを求めて、物や人に歩み寄ることを意味するのです。
攻撃的な子どものことで、親や教員の相談を受けた時に、私は、このエリクソンの件をご紹介することにしています。そして、次のようなお話をするようにしています。
「赤ちゃんで、打ったり、蹴ったりする人はいませんでしょ。赤ちゃんは、なめるか、なでるか、泣くくらい。その時に、周りの大人が赤ちゃんに答え続けていれば、打ったり、蹴ったりするような子にはなりません。
ところで、人に振り向いてほしい時に、肩を、トントンと軽く叩いたとします。それで振り向いてくれればいいですけれども、それで振り向いてくれない時には、もうちょっと力を入れて、トントン、と叩きませんか? それで振り向いてくれたらいいけれども、それでも、振り向いてくれなければ…?
最初は、陽気で楽しいやり取りを求めて軽くたたく感じだったものが、相手が振り向いてくれないことで、いつの間にか、打つ、殴るレベルになりますね。それが、『攻撃的』と呼ばれていることの、真実の姿です」
津久井やまゆり園の事件の「犯人」も、教員の父親や、母親などから、振り向いてもらえない、ネグレクトの人生を歩んできたはずですね。
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