分け前以上をくださる恵み神様からの憐れみは、相応しくない者にも、もらえます。大きな福音。 Young Man Luther 『青年ルター』のp184のブランクの上9行目途中から。...
発達トラウマ障害(DTD)の子どもの臨床像の1つが、手に負えないし、やり取りもできない感じの子どもです。その一つの有名な実例として、ヘレン・ケラーの幼い時期を、ヴァン・デ・コーク教授は思い立ったのでしょう。そういう「オバケ」も結構いるのですが、それよりも多いし、心理的課題が重たいのが「蝋人形」のように表情も暗く、気持ちを言葉にすることがほとんどない(失感情語症 アレキサイノミア)子どもです。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.237の、第3パラグラフから。
少し後に出た本『私が生きている世界』で、ケラーは、自分の2度生まれについて記しています。「私の先生が私のところに来るまで、私が生きていることも分かりませんでした。私がそれまで生きていたのは、人っ子一人いない世界でした。…私には意志のかけらもありませんでしたし、知性のカケラすらありませんでした。…私がこういったことを覚えているのは、それをそうだと分かっていたからではありません。感覚記憶があるからです。感覚記憶におかげで覚えているのはね、私は考えることに前頭葉を使ったためしは一度だってない、ということです」と。
人間は言葉がないと、考えることが出来ない、ということを、ヘレン・ケラーの伝記は教えてくれますね。専門的には「内言」などと言う場合があります。「心の中のつぶやき」と言った方が分かりやすいかもしれません。
この心の中のつぶやきと、≪良心≫が深く結びついている訳ですね。
≪良い良心≫を育んで、≪私≫が生かされるようになった者は 幸いなるかな
≪悪い良心≫のままで、≪私≫が死んだも同然の者は、災いなるかな
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