真に自分のためになることは、必ず人様のためにもなる不思議ですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p201の4から。
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それどころか、劇的な証拠が、ルターの詩編講義のノートに出てくるんですね。証拠とは、ルターがせっせと詩編講義をしている時に、「塔の啓示」で示された洞察をハッキリと主張しているという証拠です。「塔の啓示」の日がいつかは、学者輩が確かめようとして出来なかったことです。ルターが「ローマの信徒への手紙」第1章17節を頭の中で想いを巡らせていた時に、その最後の文の言わんとすることが不意にハッキリしてきました。それが分かったおかげで、ルターは胸に迫るものがあり、自分に「天国の扉が開かれた」と感じました。「というのも、神様が下さる施しと優しさは、あらゆる真の関係に示されるから。『義人は、キリストのまことによって生きる』と書いてあるように、ね」(「ローマの信徒への手紙」第1章17節)。
「ローマの信徒への手紙」第1章17節は、エリクソンが引用した英語からも、ギリシャ語からも、意訳してあります。山浦玄嗣さんに「正義」とは、神のみ心であり、それはツェダカー(ヘブライ語)では、施し、優しさの意味だと教えられているからですね。これはアンパンマンの理解とも重なります。
ルターも、はじめは、あるいは、最後まで、このように理解していたと思います。正義=施しです。なぜならば、私どもがいただくあらゆる信頼は、その施しなしには、絶対的に不可能だからなんですね。その体験があればこそ、「神の義」と誤解されやすい言葉で翻訳されてきたことの本当の中身が、施しであることが、ハッキリ分かります。
ルターもそのように理解していればこそ、涙が出るほど胸に迫り、「天国の扉が開かれた」と感じるほどの、文字通り「天にも昇る悦び」を実感したに違いありませんね。
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