聖書の言葉 : 何度でも取り上げたい ピスティス πιστιςピスティスと信頼 闇夜に輝く満天の星 改訂版 何よりも大事なのが、研ぎ澄ました感性、一隻眼。 『The Sense of Wonder 不......
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今宵は,The Galilean saying and the sense of "I" 「ガリラヤのイエス・キリスト物語と≪私≫の感性」から,p.324,26行目途中から。 少なくとも,5回目の訳し直し。導入部の次の展開部です。
したがって(『新約聖書』の初めにある「マタイによる福音書」が言わんとするところに従えば),イエスの癒しと教えはすべて,道に沿って,あるいは,道のそばを歩いている時に行われたこととして描かれました。イエスが立ち止まるのは,イエスと共に,あるいは,イエスの弟子たちと共に,飛び切りの私になりたいと願う場合だけでした。
通常の意識では,その存在さえ気が付かない,意識の主体である≪私≫と,癒しと教えを行うイエスではピッタリの相手です。
イエスとピッタリと出会いやり取りすることができた時,私どもは,1人の例外もなく,飛び切りの私,全うな私になることができます。
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