エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子どもの不思議 : 子どもが真実を知っている不思議

2014-12-11 14:24:52 | エリクソンの発達臨床心理

 

 子どもの面接をしていると、「子どもは不思議」と思うことによく出会います。子どもは誰に教えられずとも、人間の真実を知っている、ということに繰り返し出会うからかもしれません。

 先日も小学校一年生とコラージュ療法(切り貼り絵遊び)をしている時に、「子どもは不思議」と感じたんですね。というのも、この時のコラージュは、「魚や生き物を探す」というタイトルで、「自分探し」がテーマだったんですが、 その自分は「2人で探す」とこの一年生が言ったからでした。

 日本人にとって馴染み深い自分探しの旅、と言えば、四国の巡礼、遍路旅でしょうか? お遍路さんがよく被る菅笠にあしらった言葉がいろいろあるそうですね。その一つに「同行二人」(どうぎょうににん)という言葉がありますね。それはお遍路さんが一人旅でも、「弘法大師さんと一緒」に巡礼をしていることを言う言葉だそうですね。この自分探しは、弘法大師さんと自分が2人一緒にする、ということでしょう。

 また、何度かこのブログで取り上げていることですが、「良心」とか「意識」という言葉は、ギリシャ語を始め、ラテン語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリヤ語、ロシア語、スウェーデン語などで、「2人で共に見通す・見る」ことを意味します。つまり、良心や意識は、「2人で探す」ものだと言えるでしょう。

 また、赤ちゃんの中に「私」「自分」がどうやって生成するのかを考えてみましょうね。赤ちゃんの中に「私」が生成するのは、お母さんが一年以上、昼夜を分かたぬ献身、赤ちゃんのニーズに無条件で応え続ける、という生業があって初めて可能になってくるんですね。臨床的に申し上げても、「私」はお母さんと一緒に「2人で探す」ものだと言えます。

 子どもは、四国巡礼に行ったわけでもないし、ヨーロッパ諸語を習ったためしはないはずですし、ましてや臨床心理学の研鑽を積んだこともないでしょう。誰から教えられずとも、「自分」は「2人で探す」ものだ、と分かっているわけですね。そして、それができる子どもは特殊、というよりも、普通であるからこそ、その普通の子どもが自分探しは2人でするものだと分かっていることに、私どもは、繰り返し驚嘆するんですね。

 

 

 

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人を大事にすることは、以心伝心。

2014-12-11 11:21:11 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 サリヴァン先生によれば、人を大事にすることは、共働すること。

 p87の3行目から。

 

 

 

 

 

 フロイトの、人を大事にする概念が、19世紀資本主義の言葉で、家父長的な男性が経験することを記述するものであるように、サリヴァン先生の記述は、20世紀の自己疎外された、市場で取引する人間が経験することに触れています。共通する関心を持ち、敵対的で、未知の世界に反対する、2人の人の「二重の自己中心」を描いたものです。実際に、サリヴァン先生の親しみの定義は、原理的に、共働している仲間の気持ちに妥当しますし、その共働では、みんなが、共通する目標を追いかける時に、他者が口にしたニーズに対して自分の行動を合わせることでしたね(サリヴァン先生がここで、「口にした」ニーズについて語るのは、少なくともその一人が、人を大事にすることについた語るのは、2人の間にある「口に出さない」ニーズに応えることを意味する時だ、ということです)。

 

 

 

 

 やはり、人を大事にすることは、以心伝心、阿吽の呼吸が可能な場合の関係です。

 

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心のパラダイス:内なる自然の中にある「平安の源」

2014-12-11 06:16:07 | アイデンティティの根源

 

 捨てライオンの「野生のエルザ」と、その育ての親であるアダムソン夫妻の関係は、仲の良い、本物の親子のようで、素晴らしいですよね。

 p230の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 この物語や、これに似たいろんな物語のポイントは、自然な状態の野生動物と呼ぶものや、私ども人間に内在する「本能的な」野生、あるいは、「自発的な」野生と呼ぶものと、私どもの日々の関係が、歪められているのは、何千年にも渡る迷信のためだ、ということですし、あるいはまた、もしも、その自然をコントロールするだけではなくて、その自然を育てていくことを私どもが学びさえすれば、私どもに内在する「野生」の中にさえ、平安の源があるのかもしれない、ということです。今日、私どもは、「ちょうど聖句にあるように」、サル君に「自分の腕の肉を食む」(イザヤ書第9章19節)ことを教えることができますが、それは、「どこかの首相のように、間違いだらけの指導者たち」が、全人類を「火にくべる薪」(エゼキエル書第15章6節)にしてしまうことに、似ています。しかし、同様にありうることは、私どもは子どもたちを、大自然の中でも、自分に内在する自然においても、「子牛と若いライオンは、共に育つ」(イザヤ書第11章6節)ようにするために、育てることもできる、ということなんですよ。

 

 

 

 

 最後の件は、パラダイスそのものでしょ。「弱肉強食」の世界では、子牛と若いライオンが共存共栄することはありません。しかし、パラダイスでは、子牛と若きライオンが、「弱肉強食」の世界を超えて、育つわけですね。そのように子どもを育てることもできます。かたや、火にくべる薪のように、人を人とも思わない人間に育てることもできますね。

 どちらを選ぶかは、あなた次第です。

 

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