エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

空気読めない で良いじゃんよ

2014-12-26 13:38:07 | エリクソンの発達臨床心理

 

 金森俊朗さんのNHKのコラムに「“空気がよめない”って、悪いこと?」があります。ここで金森さんは、いつもながら、大切なご指摘をしていただいていますから、このブログでもご紹介したいと思います。

http://www.nhk.or.jp/tokkatsu/ijimezero/teacher/2014_005_02_shidou.html

 金森俊朗さん、このブログの読者の皆様は、すでにご存じの方も多いだろうと思います。しかし、初めての方のために、少しご紹介します。金森さんは今でこそ北陸学院大学で教鞭を執っておられますが、定年まで小学校教員を38年間されました。「命の授業」や「手紙ノート」の実践など、本音の話ができるクラスづくり、授業づくりの達人です。

 「“空気がよめない”って、悪いこと?」は、NHKが学校教育のための活動をする一環として続けている「いじめノックアウト」の一つ。今日のフロムでも取り上げましたように、根源的不信感に傾いた人が増えれば増えるほど、違いに対して不寛容になりますから、それだけ同調圧力が強ります。そんな集団では、「空気が読めない」と少しでも異質な人を排除するようになるんですね。それはヘイトスピーチにも通じる心の傾きです。それは昔から「和を乱すな」、「世間は甘くないぞ」、「長い物には巻かれろ」と言い続けてきたことと重なりますでしょ。こうして「違いが分かる男」も女も減ってくんですね。

 それに応じて、違わないように、目立たないように、と過剰に気を使うようになるんです。すると、立ち居振る舞い、言葉遣い、服装まで似てきます。心も体も、魂までもが制服を身にまとったようなものですね。こうなっちゃったら、つまらない。面白くない。「多数とはかなり異なった異質な少数意見、あるいは個性的な意見」こそが、1人の人の豊かさ、人々の豊かさと悦びと分かち合いを生み出すからですよね。違うがゆえに、私どもは豊かですし、分かち合いの中に悦びを見つける源も、できんですからね。

 ですから、私は敢えて、意識的に、次のように言ってます。

 「空気読めない で良いじゃんよ」

 

 

 

 

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現代人の心は、酸欠

2014-12-26 10:21:45 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 現代人は、本当に人を大事にする、ということを体験してないんですね。今どきの日本だけの現象では必ずしもない。

 p93の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 

 もう1つの「おセンチな大好き」は、時間の点で、人を大事にする気持ちを抽象的に語ることです。カップルが自分たちがかつて大事にしあったことを思い出して、心底、心ふるわせるかもしれませんが、この過去が現在になった時点で、大事にする気持ちは全く経験されていませんし、将来大事にすることを空想する場合も同様です。婚約したカップルも、新婚のカップルも、たくさんのカップルが、将来、お互いに大事にし合うことを夢見ますが、暮らし始めた瞬間から、お互いに退屈しだしてはいませんか? こういった傾向が、現代人の一般的な態度の特色でしょう。現代人は、過去と未来に生きていても、現在に生きてないんですね。現代人は、子どもの頃やお母さんをおセンチに思い出したり、将来の幸せを計画したりします。人を大事にすることを、人様がこしらえた作り物にのめりこむことによって、偽物を経験してもしなくても、あるいは、人を大事にすることが、現在から離れて、過去や未来に移し替えてもしなくても、この抽象化され、本当に人を大事にすることから離れてしまった関わりは、アヘンとして役立ちます。このアヘンは、現実の痛み、すなわち、個人が1人ぼっちで、バラバラである事の痛みを和らげてくれるんですね。

 

 

 

 

 

 現代人は、本当に人を大事にすることが分からない。それは、本当に自分が大事にされた経験がないからです。

 日々人から大事にしてもらった経験があれば、それは根源的信頼感を豊かにすることができますから、人と離れていても、絆を実感できます。あるいはまた、人と違っても、その違いに価値があると感じることもできます。

 ところが、現代人は、その多くが根源的不信感に大きく傾いていますでしょ。すると、人と離れていることに耐えられない。人と違うことをすることに、大きな不安を覚えるんですね。それじゃぁなくても集団主義の日本。ますます、人と離れたり、人と別のことをすることに対する不安と恐怖が募ります。同調圧力がそれだけ強まる結果、人と離れていたり、人と違うと「空気読めないの?」という感じの非難が飛んできます。そうして、ますます、空気が苦しくなるみたい。現代人の心は酸欠です。

 

 ですから、フロムの言う通り、スクリーン上で「ありのまま」が流行るんですね。それは皆さんが「ありのまま」ではいられないことの裏返し。

 

 

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男の世界と、女の世界は、別物

2014-12-26 06:14:51 | アイデンティティの根源

 

 女性が、女性らしく生きることができることが、実は、男たちにとっても、子どもたちにとっても、有益なことが分かりきます。

 p235の10行目途中から。

 

 

 

西洋の人たちは、たとえば、インドの今の女性から、歪められていない女らしさを、たくさん学ばなくちゃいけないことがありますでしょ。でもね、新しいフェミニズムが、「人類皆兄弟」に一層近づくものとして、世界的に広がっていますね。この信念に基づく、フェミニズムの世界的流行は、極端に善悪相半ばすることは確かなことですが、人類の将来は、男だけにかかるものではなくて、技術屋の男の手に余る「母親の変数」の運命次第なのですね。このように考えることに対する抵抗が、男からも女からも出てくるのが常ですが、その人たちは、男でも、女でも、持ち味を強調することが、平等でないことをさらに強調することにねなりはしないか、と非常に恐れているんですね。実際に、いろんな生育歴を研究すると、男でも女でも、かなりの程度同じだ、ということを確かにすることになります。いろんな生育歴は、この世界を正確に組立て、論理的に思考をまとめ上げ、言葉を組み合わせていることを表わしている限りそうなんですね。ところが、生育歴の研究をすると分かるのは、少年でも少女でも、同じように考え、同じように振舞い、同じように話をするのですが、自分の身体は(そして、世の中も)、同じようには経験していない、ということなんです。

 

 

 

 

 エリクソンは、男女の性差が、性役割の違いをもたらす結果、この世の中で経験する内容も変わってくる、ということをチャァンと認めてんですね。この当たり前のことを、「学者」と呼ばれる人たちだとか「学問」と呼ばれるものだとかは、無視しやすいものなんですね。「立派な」学者が、世間のことを知らなかったり、「立派な」理論が、机上の空論と呼びたくなるようなものになりがちな所以も、このあたりにありますよね。

 しかし、さすがはエリクソン。自分や自分の家族の経験を、豊かに理論の中に取り入れているんですね。

 

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