エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

精神分析で人を大事にすることも・・・

2014-12-01 13:29:58 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にすることの一つの結果が、満足のいくセックスに繋がる、という至極当たり前のことが、技術に頼りすぎていると、分からなくなっちゃうんですね。

 p83の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 精神分析治療のデータが、どうすればセックスが上手にできるのかを知っていれば、セックスで自分も満足できるし、相手を大事にもできる、という考えが間違いだと、指摘していますが、人を大事にすることは、お互いに性的な満足をすることに付随することだという前提自体、フロイト理論の多大な影響を受けています。フロイトにとっても、人を大事にすること自体が性的なことだからです。「性的に(生殖で)人を大事にすることは、人が最大の満足を得ることになるし、その結果として、実際にその人にとってあらゆる幸せの元型となる、という経験を知った者は、セックスの関係の道に沿って、あらゆる幸せがあると、ばかりに探さずにはおられませんし、生殖に繋がる性愛を、人生で一番大事なこととせずにはおられなくなります」。

 

 

 

 

 物質主義、技術主義の一つの帰結なんでしょうね。フロイトでさえ、こうなんですからね。でも、これでは、人間は本当には、人を大事にできないことに、遠からず気づくことになりますね。

 

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大川小学校の「事件」には、今の日本の学校教育の病理が現れています

2014-12-01 10:04:33 | エリクソンの発達臨床心理

 

 NHKで大川小学校の「事件」の検証番組が再放送されていましたね。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/1128/index.html

 私もこの夏、現地を訪問して、感じたのは、学校の「指示待ち体質」が出たな、ということでした。あの大地震、北上川のすぐ近くの立地を考えれば、津波避難を考えて、山に登るのが当たり前だと思います。しかし、そうはせずに、むしろ川沿いの、場所に逃げようとして、その途中で津波を被って、70人以上の犠牲者を出してしまいました。

 この大川小学校の犠牲を「事故」ではなくて、「事件」と私は呼びます。それは、この「事件」が自然災害などではなくて、日本の公教育が抱える病理を映し出した「事件」だと考えるからですね。

 私は、7年以上、公教育の学校現場のカウンセラーをしてきました。あるいは、保育園・幼稚園~大学院までの教員と付き合いがあります。その中で、教員に感じることは、子どものことを第一に考える人は、ごくごく一握りの少数者だ、ということです。そのこと自体が病理ですよね。教育の主体である子どもが、第一に考えられていないのですから。

 しかし、それだけではないんですね。

 教員が何よりも大事にしているのは、上司の意向ですし、組織なんですね。NHKでも、遺族を前にした教育委員会の対応が、いかに「お役所仕事」と「隠ぺい体質」で満ち満ちているのか、ハッキリ分かりますでしょ。真実を大事にすべき教育現場である学校が、真実よりも、ウソとゴマカシを大事にしているのです。そこに大きな日本の教育の病理が現れていますよね。

 じゃぁなぜそうなっちゃうのか。6年生が「山に逃げよう」と言っていたと、生き残った一人の男の子(只野くん)が証言していましたね。それなのに逃げなかった。教員たちは、日ごろから自分の頭で考えることをしてないんですね。少なくとも、その考えたことをアクションしていない。行動に移していない。自分の判断で行動したら、上司の意向と違った場合、自分に不利益になるからなんですね。自分が損するのは嫌なんですね。

 災害は緊急事態。日頃出来ていないことが、緊急の時にできる訳ないでしょ。かの検証番組では、子どもが犠牲になった中学教員の佐藤さんが「事なかれ主義」と言ってましたが、そんなもんじゃあない。「正しいことは自分が損してもやります」ということが、日本の学校ではほとんどないんですね。そのくせ、子どもには「正しいことを押し付け」んですね。この「言ってること」と「やってること」のかい離。それが日本の学校教育の根源的病理ですね。

 

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道徳と価値と倫理が一つになるとき

2014-12-01 06:22:05 | アイデンティティの根源

 

 熱狂主義は、黄金律でさえ、排除の論理と化してしまう。恐ろしいことですね。

 p226第4パラグラフ。

 

 

 

 

 

 もしも私が、人間がゆっくり成熟することにある、極めて有害な可能性を、ここまで強調してきたならば、それは、教条主義的な悲観主義に立ち止まるためではありませんでした。教条主義的な悲観主義は、臨床に没頭することから簡単に生じますし、また、それは、ただ単に、心配だからやめときましょう、ということになることがしばしば。人間の道徳的、価値的、倫理的な傾向は、非常に価値ある統合へと向かう場合もありますし、実際場合によっては統合されました。それは個人でも集団でも、そういった傾向は1つにまとまります。それは個人や集団が、寛容でも厳格でも、柔軟でも固定的でも、賢くても服従的でも、統合されます。特に、人はもっとも無垢な指導者に敬意を払うことによって、自らのより良い可能性をぼんやりと知ることが出来るのが常ですね。その無垢なる指導者とは、2つに分けることなどできない人類に対する、もっとも単純で、最も包括的な物差しを教えてくれています。

 

 

 

 

 ここはちょっと難しいところ。具体的なイメージがつかめそうでつかめない。ただし、「人間皆兄弟」、1つの人類という最も単純で最も包括的な物差しを教えを教えてくれる指導者に従う時に、道徳と価値と倫理が一つになる、という点だけは、ハッキリしていますね。

 

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