エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

比較できない価値を忘れると…

2014-12-05 13:46:18 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 フロイト理論は時代の要請。時代の精神に合致していると同時に、時代の縛られるきらいもあります。

 p84下から5行目途中から。

 

 

 

 

 経済学者たちは、資本主義が負けず嫌い、お互いも嫌い合うことで満ちていることを、経済的に得することに対して飽くことのない欲望があるという点から「証明」し、ダーウィンが「適者生存」と言う生物学の法則の点から、同様に証明した一方、フロイトは、男は、あらゆる女性を性的に征服したいという飽くなき欲望によって駆り立てられているし、社会の圧力によってのみ、人はその欲望を抑えることになる、という前提によって、同様な結論に達しました。その結果、人はお互いに嫉妬深くなること必定でして、お互いに嫉妬深くなり、負けず嫌いになります。それは、嫉妬深く負けず嫌いになるような、あらゆる経済的な理由、あらゆる社会的な理由がなくなっても、人は嫉妬深く、負けず嫌いなままなんですね。

 

 

 

 

 いったん資本主義が走り出すと、人はおしなべて、嫉妬深く、負けず嫌いになる、というのがフロムの主張です。実に的を射た話でしょ。すぐに人と自分を比べるからなんですね。資本主義は比べられる価値だけを強調するからでもありますね。お金、財産、土地、地位、着てるモノ、持ってるブランド…。

 それは、比較できない価値を忘れているだけなのにね。

 

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日本の公教育の病理 その5 主権在民の忘れ物

2014-12-05 12:39:18 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日本の学校がウソとゴマカシの組織になっちゃってんのは、1つには本物の「教育」を忘れているから。そこに偽物の「教育」が入り込み、蔓延ってしまいやすい。エリクソンがよく言う通りです。「本物が表から出ていくと、偽物が裏口から入ってくる」ってね。

 もう一つ忘れていることは、憲法だと私は思います。

 日本国憲法の三大特色は、①主権在民、②基本的人権の尊重、③平和主義、だと言われます。学校は、あるいは、教育行政は、①主権在民と②基本的人権の尊重を忘れていることが多いんですね。

 公務員は、公僕であって、(将来の)主権者である、子どもに奉仕する立場です。しかし、教員や教育行政の関わる役人は、まるで子どもや学校の「上に立つ」かのようですね。これは大きな間違いの源なんですね。行政の組織図も、日本では首長が一番上に書き、市民が一番下に来ますよね。日本語で「上に立つ者」と言えば、「組織のトップ」でしょ。

 私はその昔、デンマークのオーデンセ市を訪問して、福祉施設の見学をしたときのことを忘れられませんね。福祉施設を訪問する前に、オーデンセ市役所で行政説明を受けた時です。その時、オーデンセ市の若き行政マンが、1枚の行政組織図を見せてくれました。その時、複数のmayor市長が一番下に、citizen市民が一番上に書いてあるんですね。市長は、日本では「部長」か「局長」なんでしょう。分権が徹底しているので、教育や福祉や建設など、その分野ごとに市長がいるんですね。主権者は市民だから、一番上に書いてんですね。

 日本は全くの真逆。公務員は公僕なのに、市民の上に立ってんです。これだと「国民主権」に抵触しますよね。

 ですから、学校や教育行政担当の役人は、「指導」や「行政指導」で、子どもや学校をコントロールしようとすんですね。そうすると、子どもの人権や教員の人権は、尊重するよりも、制限する方に傾きがちですね。つまり、子どもの自己決定権よりは、「指導」や「行政指導」が重んじられがちです。教員は法定労働時間を守るよりも、果てしない長時間労働を(強いられています)しています。

 私どもは、学校をまともな「教育」ができる場にするためにも、憲法を大事にすることを、日々の中に活かしていかなくてはなりませんね。

 

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ブレークの警告  改訂版

2014-12-05 06:22:23 | アイデンティティの根源

 

 幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理の区別が大事で、しかも、結び付けたほうが良い。どういうことでしょうか? 

 p227下から5行目から。

 

 

 

 

 

 しかし、人が「しなければならない」ことを、地球すべてにせよ、と命令する命令に関する議論を終わりにしようとする時、ブレークが警告していることを思い出した方が良いでしょう。それは、共通善は、「ならず者、偽善者、オベンチャラ」が口にしやすい、ということですし、なにがしか良いことをする者は、良いことは「細部」においてそうしなくてはならない、ということです。そして、実際に、私がここまで申し上げてきたことは、発達と進化の法則についてだけですし、それによれば、倫理に対する心構えは、個人においては、進化がもたらした適応の一部として発達する、ということ、しかし、個人の中で、倫理に対する心構えが育つためには、倫理が世代の繋がりの中で、繰り返し繰り返し、生まれて来なくてはならない、ということなんですね。物事を十分に理解し体系化することを、ヒンドゥーの伝統では、紋切り型でいう人もいますでしょう。私は、私どもが気付いたことによってこの過程に関して分かったことについて、もっとハッキリと申し上げなくてはなりませんね。

 

 

 

 

 良いことは、「ならず者、偽善者、オベンチャラ」でも言うんですね。それは、我が安倍晋三首相を見ればすぐに分かるでしょ。ウソとゴマカシの組織の人でも言いますもんね。でもそれは口先だけなんですね。実態がありません。初めからその「言ってること」を「やってること」にするつもりなんて、露ほどもないんですね。だからこその「ウソとゴマカシ」です。「やらないこと」を隠ぺいするための「ウソとゴマカシ」の言葉なんです。

 慣れてくれば、その「言ってること」が「ウソとゴマカシ」の言葉だって、すぐに分かるようになります。子どもは、すぐに気づきます。それが不思議です。

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