
New York Public Library
ブログランキングというものがある。
なんか賞品でももらえるのか?
順位が上がって何か得られるものでもあるのかな?
それで得られるものは想像すらつかない。何の意味があるんだ?
俺が文章をしっかり書いてみたのはブログが初めての経験だ。
中学生のときの作文と、ウインドのBBSくらいしか文章なんて書いたことがない。
あとは好きな彼女へのメールかな。→これが一番真剣に文章を書いたかな。
文章を書いてわかったことがある。
一つ目は自分の文章は自分自身でありそのタイプを変えれないということ。
二つ目は自分はとても理屈っぽいということ。
三つ目は本当に書きたいことは本当に言いたいことと同じくらい表現できないということ。
四つ目は一番肝心なことだけど、文章を書く行為は自己療養になるということ。
書く内容は何でもいい。気持ちが整理できて、自分の考えに客観的な見解を持てる。
実際は自己療養なんか出来なくて、自己療養へのささやかな試みに過ぎないかもしれないけど希望は少しある。
怖いのは自分の考えが他人に筒抜けになってしまうことだ。
手に取るように相手のことがわかるならある意味危険だと思うし、
今までは自分の内部を公表するというのは自分の意にそぐわないと思っていた。
ところがだよ、携帯の短文メールでの自分を隠し上っ面だけの文章でも、
実は心の中は読んだ人にお見通し。文章とはどんな形であれハートが残る。
気持ちをこめない事務的なメールでさえ、冷たいハートが読み取れる。
人間は言葉を発した瞬間、裸になるのだ。
世の中には分析力があり、頭の良い人が物凄くたくさんいるのだ。
指紋や声紋と同じで、言葉の端々にその人の本質が表れる。他人はそれを見逃さない。
だったら怖がらず書いてしまえばいいんだ。書かないと残らない。
僕らが世の中に残すものは画像ではない。その人のぬくもりではない。
手作りの携帯ストラップでもない。その人自身にある文明なんだ。
とすると文章とは文化であって、文明伝達の根本のはずだ。
だから文章は自身の文明であって、それに使われる言葉は正確であるべきだ。
他者へもしくは媒体への伝達の手段だから。
当たり前のことだけど、『日本語は正しく』だ。でも凄く難しいな。
自分は話し下手で、相手がわかっているつもりで話すので主語が抜けてしまう。
支離滅裂になってしまう。収拾がつかなくなり1分前に自分が何を言ったか忘れてしまう。
俺はそれをよく指摘されたよ。それなら文章を書きながら直していくのが一番いいでしょ。
その文章を使っての自己表現の場として、ブログは最適だと思っている。
紙に書くより速いし、画像や音楽でそのときの自分の精神状態がクローズアップされる。
なのでただの単語の組合せだけで、ブログランキングどうのこうのというのは全く興味はない。内容がないのにランキングとはふざけてる。
(俺のブログのカウンターはプロバイダーがつけてるだけだよ)
文章を書くことで自分には文明があることがわかる。それと歴史だ。
そうすると何と言うか、日々を大切に生きなくちゃいけないと思う。
仲間とのウインドがいかに素敵で素晴らしいものかを文章にしたことで、
感謝の気持ちを再認識できた。
自分はこうあるべきだと確信が持てる。自分が間違いだらけなことにも気がつく。
あのほら、こないだ死んだあの人どんな人だった?って聞かれて
そのURL見てごらん、って言える。あー、こういう人だったんだ、ってね。