関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
文字数オーバーしたので、Vol.4をつくりました。
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3から
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
28.慈眼山 無量院 萬福寺 (つづき)
〔梶原平三景時〕
東京都大田区南馬込1-49-1
曹洞宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:江戸・東京四十四閻魔参り第19番、閻魔三拾遺第29番
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南馬込の禅刹、萬福寺。山内掲示の縁起書には以下のとおりあります。
「当寺は鎌倉時代の初期、建久年間(1190年頃)に梶原景時が将軍源頼朝の命により大檀那となり梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として大井丸山と云う処に建立された。
元応二年(1320年)に火災にあい、景時の墓所のある馬込へ移され再建された。」
『新編武蔵風土記稿』(国会図書館DC)には、当山と梶原景時のかかわりについて詳細に記されています。
(同書では、景時の所領は多磨郡柚井領(現・八王子市)としており、じっさい、元(梶原)八王子八幡神社の由緒には、この地が梶原景時の所領(梶原屋敷)であったことが記されています。)
そのうえで「景時モシ一寺ヲモ建立セントセハ 其住所及ヒ所領ノ地ヲ置テ遠ク当所ヘ起立スヘケンヤ 寺ニ傳フル所イフカシキ事ナリ ヨリテ按ニ小田原北條家人梶原三河守 当寺ノ大檀那ニシテ此人ヲ萬福寺ト号セリ 此人当寺ヲ中興セシユヘニヨリ 梶原ノ家号ヨリ 誤テ平三景時カ開基トセシナラン」と辛辣な書き様ですが、「境内ニ建テタル梶原氏ノ碑陰ニ梶原三河守影時同子息助五郎影末云々」と山内の碑に”梶原三河守影時”の文字があることを認め、「其誤シモ又ユヘアルニ似タリ」としています。
景時の墓所(開基寺院)が、八王子の所領から通く離れた馬込の地にあることに疑問を呈しつつ、梶原家が当山の大旦那であることを含め、一定の所縁は認めているわけです。
一方、萬福寺の公式Webには、「建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建されました。開基は梶原平三景時公であったと伝えられています。元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転したと伝えられます。」とあります。
これによれば、当地へ移転したのは梶原景時(六代)の子孫であり、それが正しいとすると当山は梶原景時の子孫の菩提寺であり、子孫が菩提のために先祖(景時)の墓所となすことは、あながち無理筋ではないような気もします。
また、『江戸名所図会巻二』の萬福寺の項には「相傳ふ、当寺は梶原平蔵景時、創立の梵宇なりと云ふ。霊碑ならびに墳墓あり。」とあります。
ただし注記に「(梶原平蔵)景時三河守に任ぜし事、古書に所見なし」として、北条家家臣の梶原三河守ないし、梶原助五郎の開創ではないかと記しています。
いずれにしても、仮に後世の付会があつたとしても梶原景時ゆかりの寺院として伝承されてきたことは間違いなく、景時ゆかりの見どころも多いのでこちらでご紹介します。

【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 するすみの像
高台の閑静な住宅地に風流な山内入口、どっしりと構える山門はおそらく茅葺き。
山門左手前には名馬「するすみ」の像。
磨墨(するすみ)は景時の嫡男・景季が頼朝公から賜った名馬で、『平家物語』の宇治川の先陣争いの段で登場します。
頼朝公お気に入りの郎党、佐々木四郎高綱も頼朝公から生食(いけづき)という名馬を下賜されていました。
宇治川をはさんで、対岸の木曽義仲軍と対峙した景季と高綱は、いずれも先駆けを狙っていました。
まずは磨墨に乗った景季が川に乗り入れ、六間ほどおくれて生食に乗った高綱が川入りして先陣争いを展開。
初動でおくれをとった高綱は、「梶原殿、この川は西国一の大河。貴殿の馬の腹帯が緩んでおる。締め直したまえ」と景季に声を掛けました。
これを聞いた景季は「それはそうだ」と馬を止め、腹帯を調べるとべつに異常はない。
その隙に高綱に先を越され、一番乗りを逃したという有名なくだりです。
名うての武将が腹帯を確かめずに先駆けとは疑問ですが、宇治川の川底には進撃よけの縄が張り巡らせられ、これを刀で絶ちつつ進撃したためにこの忠告が効いたとされています。
馬込は「磨墨」の生誕地との伝承があり、「磨墨」を供養する「するすみ塚」もあって当山が管理しています。
そのような所縁もあって、この「するすみ像」が建てられたのでしょう。
また、当山は梶原景時が戦場で用いたと伝わる馬具(区指定文化財)を所蔵しています。
だとすると「磨墨」につけられた可能性がありますが、山内の説明板には「『新編武蔵風土記稿』では北条氏直の家臣梶原三河守のものであろうと記す。」とありました。

【写真 上(左)】 閻魔堂
【写真 下(右)】 のぼり
山門をくぐって右手には閻魔堂。江戸時代から広く知られた閻魔様のようで、閻魔三拾遺第29番、江戸・東京四十四閻魔参り第19番の札所になっています。
「鎌倉の武将 梶原景時公菩提寺」ののぼりはためく階段をさらにのぼると無量門(中門)。
切妻屋根本瓦葺のすこぶる整った意匠の四脚門で、大棟には梶原氏の紋「丸に並び矢」が金色に輝いています。

【写真 上(左)】 無量門
【写真 下(右)】 鐘楼門
参道とは別に庫裡に向かう通用道があり、そちらには楼閣造りの鐘楼門があります。
無量門をくぐると門脇にお幸(身代り)地蔵尊。
右手には楼閣造りの摩尼輪堂で、一層の摩尼車には四天王と地蔵菩薩が御座。
二層には「磨墨観音」の扁額があるので名馬・磨墨ゆかりの観音様(馬頭観世音?)が奉安されているのかもしれません。

【写真 上(左)】 摩尼輪堂
【写真 下(右)】 磨墨観音の扁額
さらに進むと右手に子安観音と「当山開基 源頼朝随将 梶原平三景時公菩提寺」の石標。

【写真 上(左)】 山内案内図
【写真 下(右)】 「菩提寺」の石標
その先には鬼子母神。
当寺には重病の日蓮聖人が一夜参籠されたという伝承があり、参籠明けに聖人が奉納された持佛の鬼子母神というもので、当山相伝の守護神とのこと。
お像(御前立?)よこには「日蓮聖人参籠祈願之霊跡」の石碑が建っています。
鬼子母神縁起と日蓮聖人参籠のいきさつについては、公式Webに掲載されています。
馬込における曹洞宗と日蓮宗の関係が記された貴重な内容です。

【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝-1

【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂は入母屋造本瓦葺。正面手前に大がかりな千鳥破風の向拝を起こして風格があります。
水引虹梁両端に獅子二連の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に龍の彫刻。
格天井。正面硝子格子扉のうえに扁額が掲げられていますが、すみません、達筆すぎて筆者には読めません ^^;)
「慈眼 萬福」か?
御本尊の阿弥陀三尊は一光三尊の善光寺式で天文三年(1534年)以前の作とみられ、区の文化財に指定されています。(いまは光背は逸失とのこと)

【写真 上(左)】 「丸に並び矢」の天水鉢
【写真 下(右)】 レリーフ
本堂前の天水鉢には梶原氏の「丸に並び矢」の紋。本堂脇には景時ゆかりのレリーフと、梶原カラー満載です。
景時の墓所は本堂向かって左手の歴代住職の墓のよこにあります。
墓所は撮影しておりませんので、→こちら(公式Web)をご覧くださいませ。
当寺の隣地は室井犀星の旧宅で、「春の寺」で描かれた”うつくしきみ寺”は当寺のこと。
山内には犀星旧宅の銘石を譲り受け犀星の句を刻んだ句碑が安置されています。
御朱印は、雰囲気ある庫裡にて拝受しました。
こちらは3回参拝していますが、すべて異なる揮毫でしたので3体ともご紹介します。
うちひとつは、閻魔霊場へのご縁日(16日)の参拝です。
閻魔様の御朱印は授与されていないとのことで、御本尊の御朱印を拝受しています。

【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 宗派本尊・釈迦牟尼佛の御朱印

■ 江戸・東京四十四閻魔参り第19番の申告でいただいた御朱印
29.永劫山 華林院 慶元寺
〔江戸太郎重長〕
東京都世田谷区喜多見4-17-1
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:多摩川三十四観音霊場第4番、小田急武相三十三観音霊場第6番、玉川六阿弥陀霊場第2番、玉川北百番霊場第10番
江戸氏は桓武平氏良文流、秩父氏族の一流で豊島郡江戸郷(現在の千代田区~文京区)に拠って勢力を伸ばしました。
常陸國那珂郡(現・茨城県)には別流の江戸氏があるので、通常「武蔵江戸氏」として区別されます。
鎌倉幕府草創時の当主は第2代の江戸太郎重長で、当初は平家方に属していました。
治承四年(1180年)8月の衣笠城合戦では、同族の畠山重忠、河越重頼とともに三浦・衣笠城の三浦氏を攻め、三浦氏当主の三浦義明を討ち取っています。
この合戦の原因については所説ありますが、平家への義理や外聞からの挙兵を採る説はすくないようです。
こちらの系図(さくらいようへいブログ様掲載)をみると、城を攻めた畠山、河越、江戸氏はすべて秩父姓で、攻められた三浦氏は千葉姓です。
おなじ桓武平氏良文流とはいえ、支流同士で確執があったのかもしれません。
ちなみに桓武平氏良文流は秩父姓に畠山氏、小山田・稲毛氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏、豊島氏、葛西氏。千葉姓に上総氏、千葉氏、村山氏、三浦氏、和田氏、岡崎氏と、多くの有力御家人を生み出した血統です。
『吾妻鏡』9月28日条には、頼朝公はこの強大な秩父一族の切り崩しを狙って重長に使いを送り、「大庭景親の催促を受け、石橋山で合戦に及んだのはやむを得ないが、以仁王の令旨の通り(頼朝公に)従うべきである。畠山重能・小山田有重が在京の今、武蔵国では汝(重長)が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺の武士達を率いて参上すべし」と伝えたとあります。
頼朝公が江戸重長の家柄と実力を「武蔵国の統領」ということばを使って認めていることがわかります。
その一方で、重長が景親に味方してなかなか自陣に参じないので、はやくから麾下となった秩父姓の葛西清重に、大井の要害に重長を誘い出し討ち取るよう命じています。(『吾妻鏡』9月29日条)
10月2日、頼朝軍が武蔵に入ると、4日、重長は畠山重忠、河越重頼とともに頼朝に帰順し、重長は頼朝公から武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられたといわれます。
(この権限は「武蔵国留守所総検校職」によるものとも思われますが、この職は河越氏の世襲という見方もあり、江戸氏がこれに任ぜられたかどうかは諸説ある模様。)
しかし、頼朝公の遅参への怒りは収まらず、重長の所領を没収して葛西清重に与えようとしました。
この話を受けた清重は「(秩父)一族の重長の所領を賜うのは私の意志にあらず。」と拒絶。
清重にも激怒した頼朝公は従わないなら清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず。」と峻拒。
清重の気骨に感じ入った頼朝公は、ついに重長を許したといいます。(『沙石集』)
以降、頼朝公の御家人となり文治五年(1189年)の奥州合戦には兄弟の親重とともに従軍、建久元年(1190年)秋の頼朝公上洛参院では後陣随兵をつとめています。
同族の河越重頼、畠山重忠は政権内部の勢力争いで滅ぼされましたが、江戸氏は巧みに命脈を保ち幕政に参画しています。
鎌倉幕府では無難に処世を図ったとみられる江戸氏ですが、それ以降は幾多の波乱に見舞われます。
「鎌倉殿の13人」を離れますが、江戸氏の菩提寺・慶元寺が世田谷にあることも含めて関係しますので、しばらく辿ってみます。
なお、江戸氏はすでに鎌倉期から宗家の武蔵江戸氏と庶流の浅草江戸氏の系譜が錯綜したともいわれますが、これにかかわると煩雑になるので割愛します。
ともかくも、江戸氏は江戸郷の所領を保って室町時代に入りました。
南北朝では家内で南北に分かれてこれをしのぎましたが、応安元年(1368年)、運命の武蔵平一揆を迎えます。
これは、秩父氏一族、相模の中村氏一族などの平氏を中心とした国人がおこした一揆で、関東管領・上杉憲顕が上洛した隙を狙い、河越直重以下、高坂氏、豊島氏、江戸氏、高山氏、古屋谷氏、仙波氏、山口氏、金子氏など武蔵の武士が河越館に拠り、下野の宇都宮氏、越後の新田氏などと連携したもの。
上杉憲顕は京で室町幕府を味方にし、足利基氏の後を継いだ鎌倉公方・足利氏満を擁して関東入りし河越に出兵。一揆は鎮圧されました。
戦に敗れた河越直重一党は南朝の北畠顕能を頼り伊勢国へ敗走し、領地はすべて没収され、関係した武将も領地を削られ没落しました。
その例にもれず、武蔵(江戸)宗家の江戸氏も没落しています。
以降、江戸の地には太田道灌が進出し、宗家江戸氏はこれに対抗できずに江戸郷を退去して世田谷木田見(喜多見)へと移住。
長禄元年(1457年)春には、太田道灌が江戸城を築いたと伝わります。
江戸氏は、鎌倉時代からすでに新恩として喜多見を領していたという説があります。
家勢が衰えた江戸氏が喜多見の地にやすやすと新領地を得たというのは無理があり、やはりなんらかの拠点があって、そこに退去したとみるのが自然です。
(「城郭図鑑」様Webに典拠は不明ですが「鎌倉時代には江戸武重が木田見次郎と名乗って木田見郷を領有しており、このとき既に江戸氏と喜多見の地には関係ができていたことが窺える。」という記事がありました。)
喜多見に移った宗家江戸氏は御北条氏の将、世田谷城主・吉良氏の家臣として仕え、徳川家康公の江戸入府後はその家臣(旗本)となり、喜多見領を安堵され姓を江戸から喜多見に改めました。
綱吉公治世の当主・喜多見重政は綱吉の寵臣として出世、約千石の旗本から加増を重ね、天和三年(1683年)ついに1万石の譜代大名となり喜多見藩を立藩しました。
のちに1万石の加増を受けて2万石。貞享二年(1685年)には側用人となるなど異例の出世を遂げたものの、元禄二年(1689年)2月に突如改易され大名の座を失いました。
改易の理由については諸説あり、定説はないようです。
江戸氏累代の菩提寺である慶元寺は、文治二年(1186年)江戸太郎重長が、江戸氏始祖江戸重継(重長の父)の菩提のため、のちの江戸城紅葉山のあたりに創建とされます。
創建当時は天台宗で、岩戸山 大沢院 東福寺と号しました。
以降、現地案内板、新編武蔵風土記稿、『多摩川三十四ヶ所観音霊場札所案内』などから寺歴を追ってみます。
上記のとおり、江戸氏の江戸退去を受けて康正二年(1451年)元喜多見(現・成城)に移転、次いで応仁二年(1468年)には喜多見の現在地に移転。
天文九年(1540年)、真蓮社空誉上人により中興開山、浄土宗に改宗して京・知恩院の末寺となり永劫山 華林院 慶元寺と号を改めました。
文禄二年(1593年)喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建、寛永十三年(1635年)には三代将軍家光公より寺領十石の御朱印地を賜りました。
名刹だけに寺宝も多く、江戸・喜多見両氏の系図も蔵しています。
十夜法要(11月24日)と仏名会(12月31日)で奏される「(喜多見)双盤念仏」は相互に鉦を打ち鳴らし、節のついた念仏を唱えるもので、江戸時代に奥沢の九品仏浄真寺から伝えられたといいます。世田谷区指定無形民俗文化財(民俗芸能)です。

【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
所在は喜多見一丁目。交通の便はいまひとつですが、喜多見氷川神社や区立喜多見農業公園などがあり緑の多いところです。
参道脇には慶元寺幼稚園があり、園児の声でにぎやかです。

【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 銅像
山内入口は築地塀で本瓦葺の屋根を乗せています。その手前に寺号標。
ここから本堂にかけて木立の下の長い参道がつづき、その途中に狩衣姿の江戸太郎重長の銅像があります。

【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
その先の山門は切妻屋根桟瓦葺の重厚な四脚門で、山号扁額を置いています。
江戸中期の宝暦五年(1755年)築で、かつては喜多見陣屋の門であったとも伝わります。
鐘楼堂も江戸中期の築とされています。

【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額
本堂は享保元年(1716年)築で、現存する世田谷区内の寺院本堂では最古の建物といわれています。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝。桟瓦葺ながら屋根の勾配や照りに勢いがあり、名刹ならではの風格を感じます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に大ぶりな本蟇股。
向拝正面桟唐戸の上欄は菱狭間で、そのうえに寺号扁額を掲げています。

【写真 上(左)】 本堂妻部
【写真 下(右)】 庫裡と本堂
妻側にまわると破風部は三連の斗栱のうえに虹梁、その上には笈形なしの大瓶束で、それを覆うように猪の目懸魚。
鬼板部は整った経の巻獅子口です。

【写真 上(左)】 観音堂
【写真 下(右)】 三重塔
墓地エリアには、江戸氏・喜多見氏累代の墓所があり、江戸重長追善供養のためといわれる五輪塔があります。
この喜多見家(江戸家)墓所は、世田谷区指定史跡となっています。
また、山内には喜多見古墳群のうち、慶元寺三号墳から六号墳までの4基の古墳が現存しています。
名族・江戸氏、そして短期間ではありますが大名・喜多見氏の菩提寺だけあって、随所に風格を感じる山内です。
御朱印は庫裡にて多摩川三十四観音霊場のものを拝受しました。
御本尊・阿弥陀如来の御朱印は不授与とのことです。

■ 多摩川三十四観音霊場の御朱印

【写真 上(左)】 観音霊場の札所案内
【写真 下(右)】 観音霊場の専用納経帳
多摩川三十四観音霊場は、調布常演寺観音講が中心となり昭和8年に制定された多摩川中流域を巡る観音霊場です。
風情のある名刹が多く廻り応えがあり、原則として札所御朱印は常時授与されているようですが、当寺のように御朱印は観音霊場のもの(専用納経帳用用紙)のみで、御本尊御朱印は不授与のケースが目立ちます。
なお、近くに御鎮座の(喜多見)氷川神社も喜多見氏にゆかりをもちますが、別の機会にご紹介します。(御朱印授与されています。)
30.龍智山 毘廬遮那寺 常光院
〔中条藤次家長〕
公式Web
埼玉県熊谷市上中条1160
天台宗
御本尊:釈迦如来(三尊佛)
札所:関東九十一薬師霊場第38番、関東百八地蔵尊霊場第16番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番、武蔵国十三佛霊場第13番
中条藤次家長は、八田知家の猶子となり、幾度か失脚の危機に見舞われながらもその地位を巧みに保ち、晩年まで幕府中枢の座を保ったという有力御家人です。
中条(ちゅうじょう)氏の出自は諸説ありますが、武蔵七党の横山党の流れとみる説が有力です。
横山党は、小野篁の子孫の小野孝泰が武蔵守として武蔵国に下向し、その子義孝が南多摩郡横山に拠り横山を称したのが始まりとされます。
義孝の末裔、成田太郎成綱は保元の乱では源義朝公に従い、頼朝の旗揚げには一族とともに馳せ参じました。
成綱の弟成尋は北埼玉郡中条保に拠って中条義勝房法橋(中条兼綱)を称し、石橋山の合戦にも加わったといいます。
成尋の子・家長も源平合戦、奥州合戦などに参戦して戦功をあげ、御家人としての地位を固めていきます。(源平合戦に「藤次家長」の名がみられます。)
家長の叔母(近衛局)は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだといわれ、頼朝公の乳母もつとめたとされます。
八田知家はその縁から家長を養子とし、中条藤次家長を名乗らせました。
その際に本姓藤原氏(藤原北家道兼流)を称したといいます。
家長は有力者八田知家の後ろ盾もあって、一時は不遜な挙動も目立ったといいます。
建久元年(1190年)、頼朝公の許諾を得ずに右馬允に補任され、頼朝公の怒りを買って辞官しています。
建久六年(1195年)には毛呂季光と私闘を起こして公的行事を延期させ、頼朝公は養父知家を通じて家長に出仕停止を命じています。
ここまではかなりの暴れん坊だった可能性がありますが、これ以降はみずからの行いを悔い改めたとされ、建久六年(1195年)頼朝公上洛の随兵に召されています。
『吾妻鏡』では、中條藤次のほか中條平六という名もみられ、こちらは文治元年(1185年)十月廿四日の勝長壽院供養で「六御馬」の重責を担っていますが、家長との関係は不明です。
建仁三年(1203年)頼朝公を祀る法華堂の奉行。法華堂は頼朝公の公的な墓所とされていますから、こちらの奉行職はかなりの重職とみられます。
その後も政権内の権力闘争を巧みにかわし、嘉禄元年(1225年)評定衆設置の際にはその一員に任ぜられ、以降も幕政の中枢を占めて御成敗式目の策定にもかかわっています。
坂東武者にはめずらしく御成敗式目の策定に係わったということは、文官の才も当代一流のものがあったとみられます。
尾張国守護職にも任ぜられ、以降中条氏が数代世襲し、とくに高橋庄(猿投・挙母など)を中心に強く勢力を張りました。
室町時代には幕府内で地位を確保して評定衆をつとめ、家伝の剣法中条流を足利将軍に師範したと伝わります。
戦国期に入るとその勢力は漸減し、永禄年間(1558年-)、徳川家康、織田信長に相次いで攻められいかんともしがたく、ついに本拠の挙母城は落ちたとされます。
龍智山 常光院は中条家長が鎌倉に住んだため、かつての中条氏居館・中條館を寺とし、中条(條)氏の祖で祖父である中条常光などの菩提のため開基した寺院と伝わります。
公式Webおよび現地掲示に中条家長の出自・業績と併せ、由緒の記載があるので要点を抜粋引用します。
・長承元年(1132年)藤原鎌足十六代目の子孫・判官藤原常光が武蔵国司として下向、当地に公文所を建て、土地の豪族白根氏の娘を娶り中條の地名を姓として土着。同年に中条館を築館。
・常光の孫の中條出羽守藤次家長は、若干16歳で石橋山の合戦時にはすでに頼朝公に扈従していて信任が厚かった。
・家長は評定衆として鎌倉に住したため中條館を寺とし、祖父常光などの菩提を弔うため、比叡山から名僧金海法印を迎えて建久三年(1192年)に開基。
・開基以来延暦寺の直末で天台宗に属し、とくに梶井宮門跡(現三千院門跡)の令旨と、その御紋章「梶竪一葉紋」を下腸されて寺紋とし、徳川幕府に至って寺格は十万石、帝鑑定の間乗輿独札の待遇を与えられ、東比叡山の伴頭寺。

【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山内まわり
熊谷市街の北東の利根川寄り、山内まわりに堀、石垣、土塀を構えて中世豪族の居館の趣きがあります。
参道庫裡入口に「県指定 中條氏舘跡 常光院」の石標。山内は「中條氏舘跡」として県指定史跡に指定されています。

【写真 上(左)】 史跡標
【写真 下(右)】 山門

【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 参道
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、門柱には「天台宗別格本山」の木板が掲げられ、関東屈指の天台宗の名刹であることがわかります。見上げには山号扁額。
深い木立のなかつづく参道を辿ると本堂が見えてきます。

【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
元禄五年(1692年)頃の再建とされる平屋書院造茅葺のどっしりとしたつくりで、市指定文化財です。
正面が御本尊向拝、向かって左が「熊谷厄除大師」の二連向拝で、さらにそのよこが授与所です。

【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 「熊谷厄除大師」向拝
御本尊向拝は、軒下に向拝柱を構え、手前に寺紋「梶竪一葉紋」の向拝幕。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備の板蟇股にはめずらしく山号が刻まれていますが、現・山号とは異なるようです。
「熊谷厄除大師」の向拝にも「梶竪一葉紋」の向拝幕が懸けられていました。
山内は広く、いろいろと見どころがありますが長くなったので省略です。
こちらは「熊谷厄除大師」として知られ、4つの現役霊場の札所を兼ね、御本尊の御朱印も授与されているので計5種もの御朱印が拝受できますが、おのおの性格が異なる霊場のため都度参拝がベターかもしれません。
なお、おのおのの札所本尊の御座所が異なるので要注意です。
〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦如来(三尊佛)(釈迦三尊)
本堂に御座します。

2.関東九十一薬師霊場第38番 薬師如来(瑠璃光殿)
本堂御内佛で室町作とされる一尺三寸の木彫坐像です。

3.関東百八地蔵尊霊場第16番 地蔵菩薩(地蔵尊)
本堂内御厨子に安置。室町初期作とされる一尺二寸の木彫坐像の延命地蔵尊です。

4.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番 観世音菩薩(大悲殿)
境内に露仏として奉安されています。

5.武蔵国十三佛霊場第13番 虚空蔵菩薩(虚空蔵尊)
境内に露仏として安置されている十三佛のうち、虚空蔵菩薩が札所本尊とみられます。

→ ■ 熊谷温泉 「熊谷温泉 湯楽の里」のレポ
31.礒明山 松岸寺
〔佐々木三郎盛綱〕
安中市Web資料
群馬県安中市磯部4-4-27
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:
佐々木氏は宇多源氏の名流で、近江国佐々木庄を地盤として勢力を蓄えました。
平安末期の当主、秀義は八幡太郎義家公の孫で、頼朝公の祖父為義公の息女を娶ったとされ、清和(河内)源氏とふかいつながりがありました。
保元の乱では秀義は義朝公に属して勝利、平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝公に属したものの敗れ、縁を頼って奥州へと落ちのびる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、重国の息女を娶って此所に落ち着きました。
秀義には長男:定綱、次男:経高、三男:盛綱、四男:高綱、五男:義清などの優れた息子がおりました。
治承四年(1180年)頼朝公の旗揚げにあたり、平家方の大庭景親から頼朝公討伐の計画を聞き、急遽定綱を頼朝公に使わして危急を知らせ、定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝公挙兵の援軍として向かわせて頼朝公の信任を得ました。
秀義の三男、盛綱は源為義の息女を母にもつという源家としては抜群の血筋で、一説には頼朝公の伊豆配流時代から仕えていたともされます。
Wikipediaには典拠不明ながら「治承4年(1180年)8月6日、平氏打倒を決意した頼朝の私室に一人呼ばれ、挙兵の計画を告げられる。この時に頼朝は『未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す』と述べた。」とあり、旗揚げ前から頼朝公の信任厚かったことがうかがえます。
治承四年(1180年)8月の伊豆目代・山木兼隆館襲撃にも加わったとされています。
石橋山敗戦後はいったん渋谷館に逃れたもののふたたび鎌倉で頼朝公の許に参じ、富士川の戦いや佐竹氏討伐にも参加しています。
源平合戦では藤戸合戦(児島合戦)で範頼公麾下として奮戦、対岸の平行盛勢を前にわずか6騎で乗馬のまま海路を押し渡り、行盛軍を追い落としたと伝わります。
この戦いの戦後のいきさつは「藤戸」として能の演目のひとつとなりました。
弟の高綱も宇治川の戦いで梶原景季と先陣を争い、名馬「いけづき」とともに名を残しており、佐々木兄弟は華やかな戦歴に彩られています。
頼朝公館での双六の最中、盛綱の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち割るといういさかいが勃発。盛綱は頼朝公より信実追補の命を受けるも「信実はすでに出家し親子の縁を切った」としてこの上意を拒むという、なかなか骨のある対応をとっています。
それでも盛綱に特段のお咎めはなかったようですから、それだけ頼朝公の信任が厚かったのでしょう。
『吾妻鏡』によると、文治元年(1185年)十月廿四日の勝長壽院供養では「十御馬」という重責、建久元年(1190年)十一月七日の頼朝公上洛参院御供では「先陣随兵」、同月十一日の石淸水八幡宮御參にも供奉し、以降もしばしば『吾妻鏡』に記名されていることから一貫して主力御家人の地位にあったことがわかります。
建久六年(1195年)4月10日、東大寺供養参内供奉の折に兵衛尉に任官。
頼朝公逝去後の建久十年(1199年)3月、出家して西念と称しました。
備前国児島荘、越後国加地荘、上野国磯部などを領し、出家後は主に磯部郷に在ったようです。
出家後も武将としての働きを期待され、越後国鳥坂城の城資盛を激戦の末に破っています。
越後国加地荘では子孫が加地氏を称し、戦国時代までかなりの勢力を張りました。
また、備前国児島荘五流尊瀧院は修験道でも高い格式を誇る「児島修験」の本拠でしたが、五流尊瀧院とゆかりのある南北朝時代の南朝の忠臣・児島高徳は、盛綱の子・盛則の次男・重範の流れとする説もあるようです。
盛綱の領地であった上野国磯部の松岸寺には、佐々木盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔があり、県指定の重要文化財となっています。
非札所で情報があまりとれないのですが、「群馬県:歴史・観光・見所様」によると「平安時代の天暦六年(952年)に開かれたと伝わる古刹」のようです。

【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門

【写真 上(左)】 山門鬼板
【写真 下(右)】 本堂-1
磯部温泉にもほど近い、中磯部の碓井川沿いにあります。
参道入口に寺号標。その先には塀つきの切妻屋根桟瓦葺の四脚門。
妻側に経の巻獅子口とその下に「松岸寺」の瓦板を掲げ、さらに下には渦巻き様の変わった形状の懸魚。
境内向かって右手が本堂。その右手の奥にかの五輪塔があります。本堂右手には庫裡。

【写真 上(左)】 本堂-2
【写真 下(右)】 向拝
本堂は寄棟造桟瓦葺。向拝柱のない禅刹らしいすっきりとした意匠。
向拝正面サッシュ扉のうえに山号扁額を掲げています。

【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 五輪塔
二基ある五輪塔は立派な覆屋のなかに安置され、横に建つ石碑には「佐々木盛綱古墳」とあります。
覆屋前の説明板には正応六年(1293年)造建とあります。
盛綱の没年は不明ですが、生年は仁平元年(1151年)と年代差があるので、墓所というより供養塔のようなものかもしれません。
こちらは、以前に一度参拝してご不在。
今回「ウクライナ難民支援御朱印」(令和4年4月8日~6月30日)で参拝して御朱印を拝受しました。。
札所ではないので、ご住職ご不在時には拝受できない可能性があります。

【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 ウクライナ難民支援御朱印(限定)
→ 〔 温泉地巡り 〕 磯部温泉
32.勅使山 大光寺
〔勅使河原三郎有直〕
埼玉県上里町勅使河原1864
臨済宗円覚寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:円覚寺百観音霊場第49番
勅使河原氏は武蔵国七党のひとつ丹党の流れで、宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔を称します。
丹党は神流川流域の児玉地方を本拠地とし、勅使河原氏も神流川右岸の現・上里町付近に拠りました。
秩父(丹)基房の長男直時を始祖とし、直時の孫三郎有直は御家人として『吾妻鏡』にその名がみえます。
上里町のWeb資料「上里町の中世」では、有直が範頼公・義経公麾下として六条河原合戦で木曽方の那波広純らと戦ったこと(平家物語九)、元暦元年(1184年)範頼公・義経公に追われて京都を脱出する木曽義仲を勅使河原有直・有則兄弟が追撃したこと(源平盛衰記)が紹介されています。
『吾妻鏡』によると、有直は文治元年(1185年)十月廿四日の南御堂(勝長壽院)供養供奉では「次随兵西方」、建久元年(1190年)十一月七日の頼朝公上洛参院では「先陣随兵」をつとめ、文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵にもその名がみえます。
埼玉県上里町の大光寺は勅使河原(権)三郎有直の創建と伝わる古刹です。
現地由緒書および「円覚寺百観音霊場納経帳」によると、建保三年(1215年)に勅使河原(権)三郎有直が創建、勧請開山は日本における臨済宗の開祖・栄西禅師です。
栄西禅師の入滅は京の建仁寺で建保三年(1215年)の夏。
栄西禅師は建久九年(1198年)以降に鎌倉に下向、正治二年(1200年)頼朝公一周忌の導師を務め、寿福寺住職に招聘という記録があります。
鎌倉にゆかりのふかい栄西禅師を、その没年に勧請ということでしょうか。
南北朝に入ると勅使河原直重(- 建武三年(1336年))は南朝方として新田義貞に従い上京、九州から進軍した足利尊氏軍を迎撃しましたが大渡で敗れ、次いで三条河原で奮戦するも後醍醐帝の比叡山への脱出を知ると悲嘆して羅城門近くで自刃したと伝わります。
一時廃れた大光寺は応永十八年(1411年)に現・伊勢崎市の泉龍寺・白崖宝生禅師により再興されたものの、天正十年(1582年)の神流川合戦により総門のみを残して焼失しました。
神流川合戦は上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いです。
上里町資料によると、滝川一益は甲斐の武田家滅亡後、信濃・上野の領国支配を任され関東管領として箕輪城、後に厩橋城(前橋市)に入城しました。
天正十年(1582年)6月、本能寺の変が勃発。一報を聞いた一益はまずは本国伊勢に向かおうとしました。
北条氏直は信長殺害の報を得ると鉢形城の北条氏邦を先方として神流川に陣を張り、滝川一益軍と数日にわたる激しい戦いとなりました。
大光寺の総門には、神流川合戦の矢の跡が当時のまま残されています。
大光寺の境内は勅使河原氏の館跡とも伝わります。
みどころも多く、総門(勅使門)、神流川の渡しの安全を祈念した見透燈籠、親子地蔵、石幢は上里町の有形文化財に指定されています。
毎年4月23日には勅使河原氏の慰霊祭でもある”蚕影山”が催され、植木市なども立って賑わいを見せるそうです。

【写真 上(左)】 総門
【写真 下(右)】 総門扁額
国道17号線の群馬県との境「神流川橋南」の交差点から脇道へ入り、高崎線の高架下をくぐった、神流川河畔にもほど近いところです。
総門は切妻屋根本瓦葺の風格ある四脚門で、山号扁額を掲げています。
総門手前に寺号標と「勅使河原氏館跡」の石標。

【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内
広々とした山内、手前に立派な鐘楼とそのおくに本堂。
参道右手の百体観音は霊験あらたかにして篤い信仰があるとのこと。

【写真 上(左)】 円覚寺百観音霊場ののぼり
【写真 下(右)】 本堂

【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は入母屋造桟葺流れ向拝、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備には龍の彫刻を置いています。
向拝正面サッシュ扉のうえに寺号扁額を掲げます。
当山は栄西禅師直筆の扁額を蔵すとのことですが、こちらがその扁額かどうかは不明です。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
こちらは円覚寺百観音霊場の札所なので手慣れたご対応です。

【写真 上(左)】 円覚寺百観音霊場 専用納経帳の御朱印
【写真 下(右)】 円覚寺百観音霊場 御朱印帳揮毫御朱印
→ ■ 神川温泉 「かんなの湯」のレポ
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5へつづく。
【 BGM 】
■ Whatcha' Gonna Do For Me - Average White Band (1980)
■ What Love Can Do - Island Band (1983)
■ Closer To You - Roby Duke (1984)
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3から
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
28.慈眼山 無量院 萬福寺 (つづき)
〔梶原平三景時〕
東京都大田区南馬込1-49-1
曹洞宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:江戸・東京四十四閻魔参り第19番、閻魔三拾遺第29番
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南馬込の禅刹、萬福寺。山内掲示の縁起書には以下のとおりあります。
「当寺は鎌倉時代の初期、建久年間(1190年頃)に梶原景時が将軍源頼朝の命により大檀那となり梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として大井丸山と云う処に建立された。
元応二年(1320年)に火災にあい、景時の墓所のある馬込へ移され再建された。」
『新編武蔵風土記稿』(国会図書館DC)には、当山と梶原景時のかかわりについて詳細に記されています。
(同書では、景時の所領は多磨郡柚井領(現・八王子市)としており、じっさい、元(梶原)八王子八幡神社の由緒には、この地が梶原景時の所領(梶原屋敷)であったことが記されています。)
そのうえで「景時モシ一寺ヲモ建立セントセハ 其住所及ヒ所領ノ地ヲ置テ遠ク当所ヘ起立スヘケンヤ 寺ニ傳フル所イフカシキ事ナリ ヨリテ按ニ小田原北條家人梶原三河守 当寺ノ大檀那ニシテ此人ヲ萬福寺ト号セリ 此人当寺ヲ中興セシユヘニヨリ 梶原ノ家号ヨリ 誤テ平三景時カ開基トセシナラン」と辛辣な書き様ですが、「境内ニ建テタル梶原氏ノ碑陰ニ梶原三河守影時同子息助五郎影末云々」と山内の碑に”梶原三河守影時”の文字があることを認め、「其誤シモ又ユヘアルニ似タリ」としています。
景時の墓所(開基寺院)が、八王子の所領から通く離れた馬込の地にあることに疑問を呈しつつ、梶原家が当山の大旦那であることを含め、一定の所縁は認めているわけです。
一方、萬福寺の公式Webには、「建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建されました。開基は梶原平三景時公であったと伝えられています。元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転したと伝えられます。」とあります。
これによれば、当地へ移転したのは梶原景時(六代)の子孫であり、それが正しいとすると当山は梶原景時の子孫の菩提寺であり、子孫が菩提のために先祖(景時)の墓所となすことは、あながち無理筋ではないような気もします。
また、『江戸名所図会巻二』の萬福寺の項には「相傳ふ、当寺は梶原平蔵景時、創立の梵宇なりと云ふ。霊碑ならびに墳墓あり。」とあります。
ただし注記に「(梶原平蔵)景時三河守に任ぜし事、古書に所見なし」として、北条家家臣の梶原三河守ないし、梶原助五郎の開創ではないかと記しています。
いずれにしても、仮に後世の付会があつたとしても梶原景時ゆかりの寺院として伝承されてきたことは間違いなく、景時ゆかりの見どころも多いのでこちらでご紹介します。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 するすみの像
高台の閑静な住宅地に風流な山内入口、どっしりと構える山門はおそらく茅葺き。
山門左手前には名馬「するすみ」の像。
磨墨(するすみ)は景時の嫡男・景季が頼朝公から賜った名馬で、『平家物語』の宇治川の先陣争いの段で登場します。
頼朝公お気に入りの郎党、佐々木四郎高綱も頼朝公から生食(いけづき)という名馬を下賜されていました。
宇治川をはさんで、対岸の木曽義仲軍と対峙した景季と高綱は、いずれも先駆けを狙っていました。
まずは磨墨に乗った景季が川に乗り入れ、六間ほどおくれて生食に乗った高綱が川入りして先陣争いを展開。
初動でおくれをとった高綱は、「梶原殿、この川は西国一の大河。貴殿の馬の腹帯が緩んでおる。締め直したまえ」と景季に声を掛けました。
これを聞いた景季は「それはそうだ」と馬を止め、腹帯を調べるとべつに異常はない。
その隙に高綱に先を越され、一番乗りを逃したという有名なくだりです。
名うての武将が腹帯を確かめずに先駆けとは疑問ですが、宇治川の川底には進撃よけの縄が張り巡らせられ、これを刀で絶ちつつ進撃したためにこの忠告が効いたとされています。
馬込は「磨墨」の生誕地との伝承があり、「磨墨」を供養する「するすみ塚」もあって当山が管理しています。
そのような所縁もあって、この「するすみ像」が建てられたのでしょう。
また、当山は梶原景時が戦場で用いたと伝わる馬具(区指定文化財)を所蔵しています。
だとすると「磨墨」につけられた可能性がありますが、山内の説明板には「『新編武蔵風土記稿』では北条氏直の家臣梶原三河守のものであろうと記す。」とありました。


【写真 上(左)】 閻魔堂
【写真 下(右)】 のぼり
山門をくぐって右手には閻魔堂。江戸時代から広く知られた閻魔様のようで、閻魔三拾遺第29番、江戸・東京四十四閻魔参り第19番の札所になっています。
「鎌倉の武将 梶原景時公菩提寺」ののぼりはためく階段をさらにのぼると無量門(中門)。
切妻屋根本瓦葺のすこぶる整った意匠の四脚門で、大棟には梶原氏の紋「丸に並び矢」が金色に輝いています。


【写真 上(左)】 無量門
【写真 下(右)】 鐘楼門
参道とは別に庫裡に向かう通用道があり、そちらには楼閣造りの鐘楼門があります。
無量門をくぐると門脇にお幸(身代り)地蔵尊。
右手には楼閣造りの摩尼輪堂で、一層の摩尼車には四天王と地蔵菩薩が御座。
二層には「磨墨観音」の扁額があるので名馬・磨墨ゆかりの観音様(馬頭観世音?)が奉安されているのかもしれません。


【写真 上(左)】 摩尼輪堂
【写真 下(右)】 磨墨観音の扁額
さらに進むと右手に子安観音と「当山開基 源頼朝随将 梶原平三景時公菩提寺」の石標。


【写真 上(左)】 山内案内図
【写真 下(右)】 「菩提寺」の石標
その先には鬼子母神。
当寺には重病の日蓮聖人が一夜参籠されたという伝承があり、参籠明けに聖人が奉納された持佛の鬼子母神というもので、当山相伝の守護神とのこと。
お像(御前立?)よこには「日蓮聖人参籠祈願之霊跡」の石碑が建っています。
鬼子母神縁起と日蓮聖人参籠のいきさつについては、公式Webに掲載されています。
馬込における曹洞宗と日蓮宗の関係が記された貴重な内容です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝-1


【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂は入母屋造本瓦葺。正面手前に大がかりな千鳥破風の向拝を起こして風格があります。
水引虹梁両端に獅子二連の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に龍の彫刻。
格天井。正面硝子格子扉のうえに扁額が掲げられていますが、すみません、達筆すぎて筆者には読めません ^^;)
「慈眼 萬福」か?
御本尊の阿弥陀三尊は一光三尊の善光寺式で天文三年(1534年)以前の作とみられ、区の文化財に指定されています。(いまは光背は逸失とのこと)


【写真 上(左)】 「丸に並び矢」の天水鉢
【写真 下(右)】 レリーフ
本堂前の天水鉢には梶原氏の「丸に並び矢」の紋。本堂脇には景時ゆかりのレリーフと、梶原カラー満載です。
景時の墓所は本堂向かって左手の歴代住職の墓のよこにあります。
墓所は撮影しておりませんので、→こちら(公式Web)をご覧くださいませ。
当寺の隣地は室井犀星の旧宅で、「春の寺」で描かれた”うつくしきみ寺”は当寺のこと。
山内には犀星旧宅の銘石を譲り受け犀星の句を刻んだ句碑が安置されています。
御朱印は、雰囲気ある庫裡にて拝受しました。
こちらは3回参拝していますが、すべて異なる揮毫でしたので3体ともご紹介します。
うちひとつは、閻魔霊場へのご縁日(16日)の参拝です。
閻魔様の御朱印は授与されていないとのことで、御本尊の御朱印を拝受しています。


【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 宗派本尊・釈迦牟尼佛の御朱印

■ 江戸・東京四十四閻魔参り第19番の申告でいただいた御朱印
29.永劫山 華林院 慶元寺
〔江戸太郎重長〕
東京都世田谷区喜多見4-17-1
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:多摩川三十四観音霊場第4番、小田急武相三十三観音霊場第6番、玉川六阿弥陀霊場第2番、玉川北百番霊場第10番
江戸氏は桓武平氏良文流、秩父氏族の一流で豊島郡江戸郷(現在の千代田区~文京区)に拠って勢力を伸ばしました。
常陸國那珂郡(現・茨城県)には別流の江戸氏があるので、通常「武蔵江戸氏」として区別されます。
鎌倉幕府草創時の当主は第2代の江戸太郎重長で、当初は平家方に属していました。
治承四年(1180年)8月の衣笠城合戦では、同族の畠山重忠、河越重頼とともに三浦・衣笠城の三浦氏を攻め、三浦氏当主の三浦義明を討ち取っています。
この合戦の原因については所説ありますが、平家への義理や外聞からの挙兵を採る説はすくないようです。
こちらの系図(さくらいようへいブログ様掲載)をみると、城を攻めた畠山、河越、江戸氏はすべて秩父姓で、攻められた三浦氏は千葉姓です。
おなじ桓武平氏良文流とはいえ、支流同士で確執があったのかもしれません。
ちなみに桓武平氏良文流は秩父姓に畠山氏、小山田・稲毛氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏、豊島氏、葛西氏。千葉姓に上総氏、千葉氏、村山氏、三浦氏、和田氏、岡崎氏と、多くの有力御家人を生み出した血統です。
『吾妻鏡』9月28日条には、頼朝公はこの強大な秩父一族の切り崩しを狙って重長に使いを送り、「大庭景親の催促を受け、石橋山で合戦に及んだのはやむを得ないが、以仁王の令旨の通り(頼朝公に)従うべきである。畠山重能・小山田有重が在京の今、武蔵国では汝(重長)が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺の武士達を率いて参上すべし」と伝えたとあります。
頼朝公が江戸重長の家柄と実力を「武蔵国の統領」ということばを使って認めていることがわかります。
その一方で、重長が景親に味方してなかなか自陣に参じないので、はやくから麾下となった秩父姓の葛西清重に、大井の要害に重長を誘い出し討ち取るよう命じています。(『吾妻鏡』9月29日条)
10月2日、頼朝軍が武蔵に入ると、4日、重長は畠山重忠、河越重頼とともに頼朝に帰順し、重長は頼朝公から武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられたといわれます。
(この権限は「武蔵国留守所総検校職」によるものとも思われますが、この職は河越氏の世襲という見方もあり、江戸氏がこれに任ぜられたかどうかは諸説ある模様。)
しかし、頼朝公の遅参への怒りは収まらず、重長の所領を没収して葛西清重に与えようとしました。
この話を受けた清重は「(秩父)一族の重長の所領を賜うのは私の意志にあらず。」と拒絶。
清重にも激怒した頼朝公は従わないなら清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず。」と峻拒。
清重の気骨に感じ入った頼朝公は、ついに重長を許したといいます。(『沙石集』)
以降、頼朝公の御家人となり文治五年(1189年)の奥州合戦には兄弟の親重とともに従軍、建久元年(1190年)秋の頼朝公上洛参院では後陣随兵をつとめています。
同族の河越重頼、畠山重忠は政権内部の勢力争いで滅ぼされましたが、江戸氏は巧みに命脈を保ち幕政に参画しています。
鎌倉幕府では無難に処世を図ったとみられる江戸氏ですが、それ以降は幾多の波乱に見舞われます。
「鎌倉殿の13人」を離れますが、江戸氏の菩提寺・慶元寺が世田谷にあることも含めて関係しますので、しばらく辿ってみます。
なお、江戸氏はすでに鎌倉期から宗家の武蔵江戸氏と庶流の浅草江戸氏の系譜が錯綜したともいわれますが、これにかかわると煩雑になるので割愛します。
ともかくも、江戸氏は江戸郷の所領を保って室町時代に入りました。
南北朝では家内で南北に分かれてこれをしのぎましたが、応安元年(1368年)、運命の武蔵平一揆を迎えます。
これは、秩父氏一族、相模の中村氏一族などの平氏を中心とした国人がおこした一揆で、関東管領・上杉憲顕が上洛した隙を狙い、河越直重以下、高坂氏、豊島氏、江戸氏、高山氏、古屋谷氏、仙波氏、山口氏、金子氏など武蔵の武士が河越館に拠り、下野の宇都宮氏、越後の新田氏などと連携したもの。
上杉憲顕は京で室町幕府を味方にし、足利基氏の後を継いだ鎌倉公方・足利氏満を擁して関東入りし河越に出兵。一揆は鎮圧されました。
戦に敗れた河越直重一党は南朝の北畠顕能を頼り伊勢国へ敗走し、領地はすべて没収され、関係した武将も領地を削られ没落しました。
その例にもれず、武蔵(江戸)宗家の江戸氏も没落しています。
以降、江戸の地には太田道灌が進出し、宗家江戸氏はこれに対抗できずに江戸郷を退去して世田谷木田見(喜多見)へと移住。
長禄元年(1457年)春には、太田道灌が江戸城を築いたと伝わります。
江戸氏は、鎌倉時代からすでに新恩として喜多見を領していたという説があります。
家勢が衰えた江戸氏が喜多見の地にやすやすと新領地を得たというのは無理があり、やはりなんらかの拠点があって、そこに退去したとみるのが自然です。
(「城郭図鑑」様Webに典拠は不明ですが「鎌倉時代には江戸武重が木田見次郎と名乗って木田見郷を領有しており、このとき既に江戸氏と喜多見の地には関係ができていたことが窺える。」という記事がありました。)
喜多見に移った宗家江戸氏は御北条氏の将、世田谷城主・吉良氏の家臣として仕え、徳川家康公の江戸入府後はその家臣(旗本)となり、喜多見領を安堵され姓を江戸から喜多見に改めました。
綱吉公治世の当主・喜多見重政は綱吉の寵臣として出世、約千石の旗本から加増を重ね、天和三年(1683年)ついに1万石の譜代大名となり喜多見藩を立藩しました。
のちに1万石の加増を受けて2万石。貞享二年(1685年)には側用人となるなど異例の出世を遂げたものの、元禄二年(1689年)2月に突如改易され大名の座を失いました。
改易の理由については諸説あり、定説はないようです。
江戸氏累代の菩提寺である慶元寺は、文治二年(1186年)江戸太郎重長が、江戸氏始祖江戸重継(重長の父)の菩提のため、のちの江戸城紅葉山のあたりに創建とされます。
創建当時は天台宗で、岩戸山 大沢院 東福寺と号しました。
以降、現地案内板、新編武蔵風土記稿、『多摩川三十四ヶ所観音霊場札所案内』などから寺歴を追ってみます。
上記のとおり、江戸氏の江戸退去を受けて康正二年(1451年)元喜多見(現・成城)に移転、次いで応仁二年(1468年)には喜多見の現在地に移転。
天文九年(1540年)、真蓮社空誉上人により中興開山、浄土宗に改宗して京・知恩院の末寺となり永劫山 華林院 慶元寺と号を改めました。
文禄二年(1593年)喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建、寛永十三年(1635年)には三代将軍家光公より寺領十石の御朱印地を賜りました。
名刹だけに寺宝も多く、江戸・喜多見両氏の系図も蔵しています。
十夜法要(11月24日)と仏名会(12月31日)で奏される「(喜多見)双盤念仏」は相互に鉦を打ち鳴らし、節のついた念仏を唱えるもので、江戸時代に奥沢の九品仏浄真寺から伝えられたといいます。世田谷区指定無形民俗文化財(民俗芸能)です。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
所在は喜多見一丁目。交通の便はいまひとつですが、喜多見氷川神社や区立喜多見農業公園などがあり緑の多いところです。
参道脇には慶元寺幼稚園があり、園児の声でにぎやかです。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 銅像
山内入口は築地塀で本瓦葺の屋根を乗せています。その手前に寺号標。
ここから本堂にかけて木立の下の長い参道がつづき、その途中に狩衣姿の江戸太郎重長の銅像があります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
その先の山門は切妻屋根桟瓦葺の重厚な四脚門で、山号扁額を置いています。
江戸中期の宝暦五年(1755年)築で、かつては喜多見陣屋の門であったとも伝わります。
鐘楼堂も江戸中期の築とされています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額
本堂は享保元年(1716年)築で、現存する世田谷区内の寺院本堂では最古の建物といわれています。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝。桟瓦葺ながら屋根の勾配や照りに勢いがあり、名刹ならではの風格を感じます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に大ぶりな本蟇股。
向拝正面桟唐戸の上欄は菱狭間で、そのうえに寺号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂妻部
【写真 下(右)】 庫裡と本堂
妻側にまわると破風部は三連の斗栱のうえに虹梁、その上には笈形なしの大瓶束で、それを覆うように猪の目懸魚。
鬼板部は整った経の巻獅子口です。


【写真 上(左)】 観音堂
【写真 下(右)】 三重塔
墓地エリアには、江戸氏・喜多見氏累代の墓所があり、江戸重長追善供養のためといわれる五輪塔があります。
この喜多見家(江戸家)墓所は、世田谷区指定史跡となっています。
また、山内には喜多見古墳群のうち、慶元寺三号墳から六号墳までの4基の古墳が現存しています。
名族・江戸氏、そして短期間ではありますが大名・喜多見氏の菩提寺だけあって、随所に風格を感じる山内です。
御朱印は庫裡にて多摩川三十四観音霊場のものを拝受しました。
御本尊・阿弥陀如来の御朱印は不授与とのことです。

■ 多摩川三十四観音霊場の御朱印


【写真 上(左)】 観音霊場の札所案内
【写真 下(右)】 観音霊場の専用納経帳
多摩川三十四観音霊場は、調布常演寺観音講が中心となり昭和8年に制定された多摩川中流域を巡る観音霊場です。
風情のある名刹が多く廻り応えがあり、原則として札所御朱印は常時授与されているようですが、当寺のように御朱印は観音霊場のもの(専用納経帳用用紙)のみで、御本尊御朱印は不授与のケースが目立ちます。
なお、近くに御鎮座の(喜多見)氷川神社も喜多見氏にゆかりをもちますが、別の機会にご紹介します。(御朱印授与されています。)
30.龍智山 毘廬遮那寺 常光院
〔中条藤次家長〕
公式Web
埼玉県熊谷市上中条1160
天台宗
御本尊:釈迦如来(三尊佛)
札所:関東九十一薬師霊場第38番、関東百八地蔵尊霊場第16番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番、武蔵国十三佛霊場第13番
中条藤次家長は、八田知家の猶子となり、幾度か失脚の危機に見舞われながらもその地位を巧みに保ち、晩年まで幕府中枢の座を保ったという有力御家人です。
中条(ちゅうじょう)氏の出自は諸説ありますが、武蔵七党の横山党の流れとみる説が有力です。
横山党は、小野篁の子孫の小野孝泰が武蔵守として武蔵国に下向し、その子義孝が南多摩郡横山に拠り横山を称したのが始まりとされます。
義孝の末裔、成田太郎成綱は保元の乱では源義朝公に従い、頼朝の旗揚げには一族とともに馳せ参じました。
成綱の弟成尋は北埼玉郡中条保に拠って中条義勝房法橋(中条兼綱)を称し、石橋山の合戦にも加わったといいます。
成尋の子・家長も源平合戦、奥州合戦などに参戦して戦功をあげ、御家人としての地位を固めていきます。(源平合戦に「藤次家長」の名がみられます。)
家長の叔母(近衛局)は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだといわれ、頼朝公の乳母もつとめたとされます。
八田知家はその縁から家長を養子とし、中条藤次家長を名乗らせました。
その際に本姓藤原氏(藤原北家道兼流)を称したといいます。
家長は有力者八田知家の後ろ盾もあって、一時は不遜な挙動も目立ったといいます。
建久元年(1190年)、頼朝公の許諾を得ずに右馬允に補任され、頼朝公の怒りを買って辞官しています。
建久六年(1195年)には毛呂季光と私闘を起こして公的行事を延期させ、頼朝公は養父知家を通じて家長に出仕停止を命じています。
ここまではかなりの暴れん坊だった可能性がありますが、これ以降はみずからの行いを悔い改めたとされ、建久六年(1195年)頼朝公上洛の随兵に召されています。
『吾妻鏡』では、中條藤次のほか中條平六という名もみられ、こちらは文治元年(1185年)十月廿四日の勝長壽院供養で「六御馬」の重責を担っていますが、家長との関係は不明です。
建仁三年(1203年)頼朝公を祀る法華堂の奉行。法華堂は頼朝公の公的な墓所とされていますから、こちらの奉行職はかなりの重職とみられます。
その後も政権内の権力闘争を巧みにかわし、嘉禄元年(1225年)評定衆設置の際にはその一員に任ぜられ、以降も幕政の中枢を占めて御成敗式目の策定にもかかわっています。
坂東武者にはめずらしく御成敗式目の策定に係わったということは、文官の才も当代一流のものがあったとみられます。
尾張国守護職にも任ぜられ、以降中条氏が数代世襲し、とくに高橋庄(猿投・挙母など)を中心に強く勢力を張りました。
室町時代には幕府内で地位を確保して評定衆をつとめ、家伝の剣法中条流を足利将軍に師範したと伝わります。
戦国期に入るとその勢力は漸減し、永禄年間(1558年-)、徳川家康、織田信長に相次いで攻められいかんともしがたく、ついに本拠の挙母城は落ちたとされます。
龍智山 常光院は中条家長が鎌倉に住んだため、かつての中条氏居館・中條館を寺とし、中条(條)氏の祖で祖父である中条常光などの菩提のため開基した寺院と伝わります。
公式Webおよび現地掲示に中条家長の出自・業績と併せ、由緒の記載があるので要点を抜粋引用します。
・長承元年(1132年)藤原鎌足十六代目の子孫・判官藤原常光が武蔵国司として下向、当地に公文所を建て、土地の豪族白根氏の娘を娶り中條の地名を姓として土着。同年に中条館を築館。
・常光の孫の中條出羽守藤次家長は、若干16歳で石橋山の合戦時にはすでに頼朝公に扈従していて信任が厚かった。
・家長は評定衆として鎌倉に住したため中條館を寺とし、祖父常光などの菩提を弔うため、比叡山から名僧金海法印を迎えて建久三年(1192年)に開基。
・開基以来延暦寺の直末で天台宗に属し、とくに梶井宮門跡(現三千院門跡)の令旨と、その御紋章「梶竪一葉紋」を下腸されて寺紋とし、徳川幕府に至って寺格は十万石、帝鑑定の間乗輿独札の待遇を与えられ、東比叡山の伴頭寺。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山内まわり
熊谷市街の北東の利根川寄り、山内まわりに堀、石垣、土塀を構えて中世豪族の居館の趣きがあります。
参道庫裡入口に「県指定 中條氏舘跡 常光院」の石標。山内は「中條氏舘跡」として県指定史跡に指定されています。


【写真 上(左)】 史跡標
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 参道
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、門柱には「天台宗別格本山」の木板が掲げられ、関東屈指の天台宗の名刹であることがわかります。見上げには山号扁額。
深い木立のなかつづく参道を辿ると本堂が見えてきます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
元禄五年(1692年)頃の再建とされる平屋書院造茅葺のどっしりとしたつくりで、市指定文化財です。
正面が御本尊向拝、向かって左が「熊谷厄除大師」の二連向拝で、さらにそのよこが授与所です。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 「熊谷厄除大師」向拝
御本尊向拝は、軒下に向拝柱を構え、手前に寺紋「梶竪一葉紋」の向拝幕。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備の板蟇股にはめずらしく山号が刻まれていますが、現・山号とは異なるようです。
「熊谷厄除大師」の向拝にも「梶竪一葉紋」の向拝幕が懸けられていました。
山内は広く、いろいろと見どころがありますが長くなったので省略です。
こちらは「熊谷厄除大師」として知られ、4つの現役霊場の札所を兼ね、御本尊の御朱印も授与されているので計5種もの御朱印が拝受できますが、おのおの性格が異なる霊場のため都度参拝がベターかもしれません。
なお、おのおのの札所本尊の御座所が異なるので要注意です。
〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦如来(三尊佛)(釈迦三尊)
本堂に御座します。


2.関東九十一薬師霊場第38番 薬師如来(瑠璃光殿)
本堂御内佛で室町作とされる一尺三寸の木彫坐像です。


3.関東百八地蔵尊霊場第16番 地蔵菩薩(地蔵尊)
本堂内御厨子に安置。室町初期作とされる一尺二寸の木彫坐像の延命地蔵尊です。


4.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番 観世音菩薩(大悲殿)
境内に露仏として奉安されています。


5.武蔵国十三佛霊場第13番 虚空蔵菩薩(虚空蔵尊)
境内に露仏として安置されている十三佛のうち、虚空蔵菩薩が札所本尊とみられます。


→ ■ 熊谷温泉 「熊谷温泉 湯楽の里」のレポ
31.礒明山 松岸寺
〔佐々木三郎盛綱〕
安中市Web資料
群馬県安中市磯部4-4-27
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:
佐々木氏は宇多源氏の名流で、近江国佐々木庄を地盤として勢力を蓄えました。
平安末期の当主、秀義は八幡太郎義家公の孫で、頼朝公の祖父為義公の息女を娶ったとされ、清和(河内)源氏とふかいつながりがありました。
保元の乱では秀義は義朝公に属して勝利、平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝公に属したものの敗れ、縁を頼って奥州へと落ちのびる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、重国の息女を娶って此所に落ち着きました。
秀義には長男:定綱、次男:経高、三男:盛綱、四男:高綱、五男:義清などの優れた息子がおりました。
治承四年(1180年)頼朝公の旗揚げにあたり、平家方の大庭景親から頼朝公討伐の計画を聞き、急遽定綱を頼朝公に使わして危急を知らせ、定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝公挙兵の援軍として向かわせて頼朝公の信任を得ました。
秀義の三男、盛綱は源為義の息女を母にもつという源家としては抜群の血筋で、一説には頼朝公の伊豆配流時代から仕えていたともされます。
Wikipediaには典拠不明ながら「治承4年(1180年)8月6日、平氏打倒を決意した頼朝の私室に一人呼ばれ、挙兵の計画を告げられる。この時に頼朝は『未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す』と述べた。」とあり、旗揚げ前から頼朝公の信任厚かったことがうかがえます。
治承四年(1180年)8月の伊豆目代・山木兼隆館襲撃にも加わったとされています。
石橋山敗戦後はいったん渋谷館に逃れたもののふたたび鎌倉で頼朝公の許に参じ、富士川の戦いや佐竹氏討伐にも参加しています。
源平合戦では藤戸合戦(児島合戦)で範頼公麾下として奮戦、対岸の平行盛勢を前にわずか6騎で乗馬のまま海路を押し渡り、行盛軍を追い落としたと伝わります。
この戦いの戦後のいきさつは「藤戸」として能の演目のひとつとなりました。
弟の高綱も宇治川の戦いで梶原景季と先陣を争い、名馬「いけづき」とともに名を残しており、佐々木兄弟は華やかな戦歴に彩られています。
頼朝公館での双六の最中、盛綱の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち割るといういさかいが勃発。盛綱は頼朝公より信実追補の命を受けるも「信実はすでに出家し親子の縁を切った」としてこの上意を拒むという、なかなか骨のある対応をとっています。
それでも盛綱に特段のお咎めはなかったようですから、それだけ頼朝公の信任が厚かったのでしょう。
『吾妻鏡』によると、文治元年(1185年)十月廿四日の勝長壽院供養では「十御馬」という重責、建久元年(1190年)十一月七日の頼朝公上洛参院御供では「先陣随兵」、同月十一日の石淸水八幡宮御參にも供奉し、以降もしばしば『吾妻鏡』に記名されていることから一貫して主力御家人の地位にあったことがわかります。
建久六年(1195年)4月10日、東大寺供養参内供奉の折に兵衛尉に任官。
頼朝公逝去後の建久十年(1199年)3月、出家して西念と称しました。
備前国児島荘、越後国加地荘、上野国磯部などを領し、出家後は主に磯部郷に在ったようです。
出家後も武将としての働きを期待され、越後国鳥坂城の城資盛を激戦の末に破っています。
越後国加地荘では子孫が加地氏を称し、戦国時代までかなりの勢力を張りました。
また、備前国児島荘五流尊瀧院は修験道でも高い格式を誇る「児島修験」の本拠でしたが、五流尊瀧院とゆかりのある南北朝時代の南朝の忠臣・児島高徳は、盛綱の子・盛則の次男・重範の流れとする説もあるようです。
盛綱の領地であった上野国磯部の松岸寺には、佐々木盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔があり、県指定の重要文化財となっています。
非札所で情報があまりとれないのですが、「群馬県:歴史・観光・見所様」によると「平安時代の天暦六年(952年)に開かれたと伝わる古刹」のようです。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山門鬼板
【写真 下(右)】 本堂-1
磯部温泉にもほど近い、中磯部の碓井川沿いにあります。
参道入口に寺号標。その先には塀つきの切妻屋根桟瓦葺の四脚門。
妻側に経の巻獅子口とその下に「松岸寺」の瓦板を掲げ、さらに下には渦巻き様の変わった形状の懸魚。
境内向かって右手が本堂。その右手の奥にかの五輪塔があります。本堂右手には庫裡。


【写真 上(左)】 本堂-2
【写真 下(右)】 向拝
本堂は寄棟造桟瓦葺。向拝柱のない禅刹らしいすっきりとした意匠。
向拝正面サッシュ扉のうえに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 五輪塔
二基ある五輪塔は立派な覆屋のなかに安置され、横に建つ石碑には「佐々木盛綱古墳」とあります。
覆屋前の説明板には正応六年(1293年)造建とあります。
盛綱の没年は不明ですが、生年は仁平元年(1151年)と年代差があるので、墓所というより供養塔のようなものかもしれません。
こちらは、以前に一度参拝してご不在。
今回「ウクライナ難民支援御朱印」(令和4年4月8日~6月30日)で参拝して御朱印を拝受しました。。
札所ではないので、ご住職ご不在時には拝受できない可能性があります。


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 ウクライナ難民支援御朱印(限定)
→ 〔 温泉地巡り 〕 磯部温泉
32.勅使山 大光寺
〔勅使河原三郎有直〕
埼玉県上里町勅使河原1864
臨済宗円覚寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:円覚寺百観音霊場第49番
勅使河原氏は武蔵国七党のひとつ丹党の流れで、宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔を称します。
丹党は神流川流域の児玉地方を本拠地とし、勅使河原氏も神流川右岸の現・上里町付近に拠りました。
秩父(丹)基房の長男直時を始祖とし、直時の孫三郎有直は御家人として『吾妻鏡』にその名がみえます。
上里町のWeb資料「上里町の中世」では、有直が範頼公・義経公麾下として六条河原合戦で木曽方の那波広純らと戦ったこと(平家物語九)、元暦元年(1184年)範頼公・義経公に追われて京都を脱出する木曽義仲を勅使河原有直・有則兄弟が追撃したこと(源平盛衰記)が紹介されています。
『吾妻鏡』によると、有直は文治元年(1185年)十月廿四日の南御堂(勝長壽院)供養供奉では「次随兵西方」、建久元年(1190年)十一月七日の頼朝公上洛参院では「先陣随兵」をつとめ、文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵にもその名がみえます。
埼玉県上里町の大光寺は勅使河原(権)三郎有直の創建と伝わる古刹です。
現地由緒書および「円覚寺百観音霊場納経帳」によると、建保三年(1215年)に勅使河原(権)三郎有直が創建、勧請開山は日本における臨済宗の開祖・栄西禅師です。
栄西禅師の入滅は京の建仁寺で建保三年(1215年)の夏。
栄西禅師は建久九年(1198年)以降に鎌倉に下向、正治二年(1200年)頼朝公一周忌の導師を務め、寿福寺住職に招聘という記録があります。
鎌倉にゆかりのふかい栄西禅師を、その没年に勧請ということでしょうか。
南北朝に入ると勅使河原直重(- 建武三年(1336年))は南朝方として新田義貞に従い上京、九州から進軍した足利尊氏軍を迎撃しましたが大渡で敗れ、次いで三条河原で奮戦するも後醍醐帝の比叡山への脱出を知ると悲嘆して羅城門近くで自刃したと伝わります。
一時廃れた大光寺は応永十八年(1411年)に現・伊勢崎市の泉龍寺・白崖宝生禅師により再興されたものの、天正十年(1582年)の神流川合戦により総門のみを残して焼失しました。
神流川合戦は上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いです。
上里町資料によると、滝川一益は甲斐の武田家滅亡後、信濃・上野の領国支配を任され関東管領として箕輪城、後に厩橋城(前橋市)に入城しました。
天正十年(1582年)6月、本能寺の変が勃発。一報を聞いた一益はまずは本国伊勢に向かおうとしました。
北条氏直は信長殺害の報を得ると鉢形城の北条氏邦を先方として神流川に陣を張り、滝川一益軍と数日にわたる激しい戦いとなりました。
大光寺の総門には、神流川合戦の矢の跡が当時のまま残されています。
大光寺の境内は勅使河原氏の館跡とも伝わります。
みどころも多く、総門(勅使門)、神流川の渡しの安全を祈念した見透燈籠、親子地蔵、石幢は上里町の有形文化財に指定されています。
毎年4月23日には勅使河原氏の慰霊祭でもある”蚕影山”が催され、植木市なども立って賑わいを見せるそうです。


【写真 上(左)】 総門
【写真 下(右)】 総門扁額
国道17号線の群馬県との境「神流川橋南」の交差点から脇道へ入り、高崎線の高架下をくぐった、神流川河畔にもほど近いところです。
総門は切妻屋根本瓦葺の風格ある四脚門で、山号扁額を掲げています。
総門手前に寺号標と「勅使河原氏館跡」の石標。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内
広々とした山内、手前に立派な鐘楼とそのおくに本堂。
参道右手の百体観音は霊験あらたかにして篤い信仰があるとのこと。


【写真 上(左)】 円覚寺百観音霊場ののぼり
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は入母屋造桟葺流れ向拝、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備には龍の彫刻を置いています。
向拝正面サッシュ扉のうえに寺号扁額を掲げます。
当山は栄西禅師直筆の扁額を蔵すとのことですが、こちらがその扁額かどうかは不明です。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
こちらは円覚寺百観音霊場の札所なので手慣れたご対応です。


【写真 上(左)】 円覚寺百観音霊場 専用納経帳の御朱印
【写真 下(右)】 円覚寺百観音霊場 御朱印帳揮毫御朱印
→ ■ 神川温泉 「かんなの湯」のレポ
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5へつづく。
【 BGM 】
■ Whatcha' Gonna Do For Me - Average White Band (1980)
■ What Love Can Do - Island Band (1983)
■ Closer To You - Roby Duke (1984)
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