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関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-21
Vol.-20からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第63番 初音山 東漸寺 観智院
(かんちいん)
公式Web
台東区谷中5-2-4
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第64番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第6番
第63番は谷中の観智院です。
第63番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』では観智院、江戸八十八ヶ所霊場では加納院となっています。
加納院は御府内霊場第64番ですから、どこかの時点で63番と64番の札所が入れ替わった可能性があります。
いずれにしても、谷中の観智院は御府内霊場開創当初からの札所であったとみられます。
公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
観智院は、慶長十六年(1611年)、照譽法印が小(北)寺町に開山、慶安元年(1648年)谷中へ移転したといいます。
慶安元年(1648年)の移転は旧寺地が幕府用地となつたためで、『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)、明王院(第57番)などと同様とみられますが、寺伝には慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、万治年中(1658-1660年)に現在地へ移転とあります。
延宝八年(1680年)、当山12世・宥朝法印が入山され元禄十一年(1698年)に院号を現在の観(觀)智院に改めました。
当初の院号は圓照院。
宥朝法印は「”圓照”は”炎焦”に通ずる」との霊告を受けられて号を改めたといいます。
宥朝法印の入山により寺勢はますます興隆しましたが、公式Webでは当山と檀越関係にあった奥医師・丸山玄棟の外護も大きかったと推察されています。
安永八年(1779年)には不動堂を建立、興教大師作と伝わる不動尊像が安置され、五大明王像を奉安という史料もみられます。
五大明王とは不動明王を中心に降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北)と配置される明王像で、霊験ことにあらたかとして広く信仰されます。
元禄十六年(1703年)十一月、大震災につづいて本郷追分、小石川辺から出火した火災は、折からの強風にあおられて江戸の町の大半を焼きつくしました。
谷中の寺院も多くが焼失しますが、観智院は奇跡的に炎禍を遁れたといいます。
観智院の不動尊は興教大師御作と伝わる霊像であること、中興開山・宥朝法印の「火除けの改号」のいわれ、そして大火の炎禍を免れたことなどもあってか、「谷中の火除不動尊」と呼ばれて多くの参詣者を集めたといいます。
文化・文政(1804-1829年)の頃になると、江戸御府内はもちろん近隣からも参詣人が訪れ、門前は市がたつほどの賑わいになったと伝わります。
谷中のメインロードであった「三崎坂」(さんざきざか)に面していたことも大きいのでは。
明治初頭の神仏分離の際には大店の商人をはじめとする町人の檀信徒が23世・真興法印のもとに結集して寺門を支えたといい、御府内霊場札所のポジションも堅持しています。
明治39年、24世・海隆法印が入山、先々代・石本海隆師も堂宇整備に尽力されて大正年間にはふたたび寺容を整えたといいます。
関東大震災では延焼を免れた当山に人々が避難したといい、昭和20年3月の東京大空襲では本堂・庫裡に砲弾を受けたものの大師堂・不動堂は焼失の難を遁れ、いまなお戦前の姿を残すとともに、御本尊・大日如来をはじめすべての仏像、什器もまた焼失を遁れています。
火除不動尊の霊験まことにあらたかというべきでしょうか。
昭和24年初音幼稚園を設置し、いまでも山内は園児の声でにぎやかです。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十三番
谷中三崎通り
醫王山 東漸寺 観智院
本所弥勒寺末 新義
本尊:弘法大師
■ 『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.100』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
醫王山東漸寺観智院
権現様御世慶長十六年(1611年)2月15日、当寺開山照誉法印代 於神田小寺町ニ寺地拝領仕候 大猷院様御世慶安元年(1648年)中、神田小寺町御用地ニ付被召上 谷中ニ代地拝領仕候
開山 照誉法印 卒年月不知
中興開基 宥朝法印 享保六年(1721年)遷化
本堂
本尊 弘法大師座像
不動尊土蔵
不動尊座像 興教大師作
稲荷社
■ 『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
觀智院(谷中初音町一丁目二三番地)
本所彌勒寺末、醫王山東漸寺と号す。本尊弘法大師。当寺亦慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を賜うて起立し、慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや現地に転じた。開山は僧照譽、中興は僧宥朝。(享保六年(1721年)五月二十二日寂)
境内に不動堂がある。
「観智院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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※ 休園日に撮った写真がなぜか見つかりません。見つかったら追加します。
最寄りは東京メトロ千代田線「千駄木」で徒歩約7分ほど。
JR「日暮里」駅からも同じくらいで歩けます。
千駄木から谷中霊園へ向かう三崎坂をほぼ登り切ったところに道に面してあります。
第57番明王院の並びにあり、谷中寺町のほぼ中心部に当たります。
【写真 上(左)】 全景
【写真 下(右)】 本堂
山内のほとんどは幼稚園として使われ、平日の日中はセキュリティ上から閉門されているので、休日の参拝がベターとみられます。
山内入口に初音六地蔵。
昭和58年秋の像立と新しいお像ですが、手篤く供養されて存在感があります。
門柱に院号標があり、おくに本堂は見えますが、平日昼間は園児たちが走り回り幼稚園バスが停まっていたりしてほぼ幼稚園です。
正面の階段上に唐破風の向拝を備えた本堂。
複雑な意匠で見応えがあります。
【写真 上(左)】 不動堂(右)と大師堂(左)
【写真 下(右)】 不動堂の扁額
本堂向かって左手前に不動堂と大師堂があります。
不動堂は宝形造銅板葺で向拝に「火除不動尊」の扁額を掲げています。
大師堂は不動堂の向かって右手に連接してあります。
柱には御府内霊場ではなく、「弘法大師廿一ヶ所六番」の札所板が打ち付けられていました。
お大師さまは、堂内の大ぶりな厨子のなかに御座されています。
御朱印は本堂向かって左手前の庫裡にて拝受しました。
なお、「火除不動尊」の御朱印は授与されていないそうです。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と胎蔵大日如来のお種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第六十三番」の札所印。左に地蔵尊の御影印、院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第64番 長谷山 元興寺 加納院
(かのういん)
台東区谷中5-8-5
新義真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第63番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第4番
第64番は谷中の加納院。御府内霊場では数すくない、紀州根來寺を総本山とする新義真言宗の寺院です。
第64番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』では加納院、江戸八十八ヶ所霊場では観智院となっています。
観智院は御府内霊場第63番ですから、どこかの時点で63番と64番の札所が入れ替わった可能性があります。
いずれにしても、谷中の加納院は御府内霊場開創当初からの札所であったとみられます。
下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
加納院は、慶長十六年(1611年)、幕府より神田小(北)寺町に寺地を給せられて尊慶上人が開基、慶安元年(1648年)谷中へ移転したといいます。
慶安元年(1648年)の移転は旧寺地が幕府用地となったためで、『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)、明王院(第57番)、観智院(第63番)などと同様とみられますが、慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、延宝八年(1680年)再び幕府用地となったため現在地へ移転といいます。
加納院は情報が少ないですが、『寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考』には、本堂御本尊は阿弥陀如来で両脇侍は正観世音菩薩と勢至菩薩。
御本尊の阿弥陀如来は「(御府内)八十八ヶ所ノ第六十三番」と記されています。
本堂内(『下谷区史』では大師堂内)に弘法大師像、興教大師像を奉安し、御府内霊場札所としての要件は整っていたようです。
聖天堂には大聖歓喜天二躰(秘佛)と本地佛として十一面観世音菩薩を奉安。
相殿に稲荷。阿弥陀如来、弁財天二躰、千手観世音菩薩も安置と伝わります。
『ルートガイド』によると、当山所蔵の「両界曼荼羅版木」は台東区有形文化財に指定されているとのこと。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十四番
谷中
長谷山 元興寺 加納院
本所弥勒寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.102』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
長谷山元興寺加納院
起立 慶長十六年(1611年)
開基 尊慶 寛永十三年(1636年)寂
権現様御代 神田北寺町ニ寺地拝領仕候 慶安元年(1648年)大猷院様御代 神田北寺町御用ニ付 谷中清水坂ニテ替地拝領仕候 延宝八年(1680年)厳有院様御代御用地ニ付 清水坂地処差上● 只今ハ当所ニ住居仕候
本堂
本尊 阿弥陀如来木座像
八十八ヶ所ノ第六十三番
両脇士 観世音 勢至
弘法大師 興教大師
位牌壇 大日如来
聖天堂
歓喜天二躰 秘佛
本地 十一面観音
相殿稲荷 阿弥陀如来 弁財天二躰 千手観世音
■ 『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
加納院(谷中上三崎北町六番地)
本所彌勒寺末、長谷山元興寺と号す。本尊阿彌陀如来。慶長十六年(1611年)幕府より神田北寺町に寺地を給せられて起立した。開山を尊慶(寛永十三年(1636年)四月六日寂)といふ。慶安元年(1648年)同所が幕府用地となったため谷中清水坂(現谷中清水町)に移り、延寶八年(1680年)同所亦用地となり、現地に転じた。
境内に聖天堂(大聖歡喜天を安置す)及び大師堂(弘法大師像及び興教大師像を安置す)がある。
「加納院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「千駄木」駅からの方が距離的には近いくらいですが、急な登りとなります。
台地上にある「日暮里」駅から歩くとわかりにくいですが、千駄木方面から望むとかなりの高台にあることがわかります。
寺院に囲まれた路地奥の立地ですが、観光スポットの観音寺の築地塀の先にあり、目立つ朱塗り門を構えているので、訪れる人は意外に多いのかもしれません。
位置的には三崎坂から明王院と観智院のあいだの路地を北に入った路地の突き当たりにあります。
この路地まわりはほとんどが寺院で、谷中が都内屈指の寺町であることを実感できます。
【写真 上(左)】 加納院前から望む観音寺の築地塀(左)
【写真 下(右)】 山門
山門は切妻屋根桟瓦葺の朱塗りの薬医門で、脇塀とともにコの字型の空間をつくり出し、どこか城門のようです。
山門前に御府内霊場札所標。
これは御府内霊場(第64番)と御府内二十一ヶ所霊場(第4番)を併記したもので、比較的めずらしいかたちでは。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内
緑濃い山内はよく手入れされて心なごみます。
四季折々の花々が咲き誇る花の寺でもあるようです。
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの向拝
向拝に扁額はないですが、向拝扉右手に御府内霊場(第64番)と御府内二十一ヶ所霊場(第4番)の札所板が掲げられています。
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 御朱印案内
御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
御府内霊場は参拝後の御朱印申告が原則ですが、こちらでは参拝前に御朱印帳を預ける旨の掲示があります。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊阿弥陀如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫とお種子(おそらく阿弥陀如来のお種子・キリーク)の御寶印。
御寶印は八葉をかたちどったもので、胎蔵曼荼羅の中心部・中台八葉院をモチーフとしたものかも。
右に「第六十四番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
西暦で書かれた奉拝日が個性的です。
■ 第65番 明王山 遍照寺 大聖院
(だいしょういん)
港区三田4-1-27
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第65番
第65番は三田の大聖院。
御府内霊場の後半は、三田の札所が多くなります。
第65番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに大聖院で、三田の大聖院は御府内霊場開創当初からの第65番札所であったとみられます。
下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
大聖院は、慶長十六年(1611年)数寄屋町に創建ののち八丁堀に移り、寛永十二年(1635年)淀松尾氏等の外護を受けて三田の現在地に移転といいます。
開山は宥専上人、中興開基は法印祐壽と伝わります。
江戸期は愛宕前真福寺末でしたが、明治12年に智山派総本山智積院の直轄末寺となっています。
本堂には、御本尊の大日如来木座像を奉安。六躰の阿弥陀如来木座像と弘法大師木座像、興教大師木座像を安置して御府内霊場札所の体裁を整えていたようです。
護摩堂には不動尊木座像、千手観音木座像、愛染明王木座像、聖天尊真鍮立像を奉安し、鎮守は稲荷社と伝わります。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十五番
芝三田寺町
明王山 遍照寺 大聖院
愛宕山真福寺末 新義
本尊:金剛界大日如来 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.92』
三田寺町
愛宕前真福寺末 新義真言宗
明王山大聖院遍照寺
草創之年暦 開山 中興開山 開基 不分明
慶長十六年(1611年)四月数寄屋町 八町堀に替地拝領仕
寛永十二年(1635年)八月八町堀から三田寺町に替地拝領仕
中興開基 法印祐壽 寛永十二年(1635年)
本堂
本尊 大日如来木座像
阿彌陀如来木座像 六躰
弘法大師木座像
興教大師木座像
護摩堂
不動尊木座像 千手観音木座像 愛染明王木座像 聖天尊真鍮立像
鎮守稲荷社
■ 『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
大聖院 三田北寺町二十一番地
初め眞言宗愛宕眞福寺末派で、慶長十六年(1611年)数寄屋町に創建し、後八丁堀に移り、寛永十二年(1635年)淀松尾氏等の外護に依って現在地に堂宇を定めた。開山は宥専上人である。明治十二年六月二日京都総本山智積院直轄末寺となった。御府内第六十五番の札所である。
「大聖院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営三田線「三田」駅で徒歩約10分。
国道1号に面し、蛇坂の登り口にあります。
三田界隈は国道1号が低地を走り、台地上を走る二本榎通りに向かっていくつかの坂道があり、その坂道や国道1号に面して寺院が点在する寺町です。
【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 院号標
三田には都心霊場ならではのビルタイプの札所寺院がありますが、こちらもそのひとつ。
国道1号からスロープを介して少しく引き込んでいるので、入口壁面の院号標がなければ寺院とは思えません。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 尊像御座の一画
瀟洒なビルで、エントランスの唐破風がなければ近づいても寺院と気づかないかも。
エントランス向かって右手の一画に札所標、二童子を従えた不動明王、弘法大師像、地蔵尊像が御座し、俄然霊場札所らしい雰囲気が出てきます。
【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 向拝?
エントランスが拝所(向拝?)と思われ、こちらから参拝しました。
こちらは二度参拝しいずれもご不在だったので、ご在寺時にお声掛けすれば堂内に入れていただけるかは不明です。
『ルートガイド』には弘法大師の御作と伝わる不動明王を安置とありますが、御座所は不明です。
御朱印はエントランス脇の扉に書置が掛けてありました。
専用用紙、御朱印帳貼付、どちらのタイプも準備されていました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と御寶印。
御寶印のお種子は不動明王の「カン/カーン」のようにも見えますが、どうでしょうか。
右に「第六十五番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第66番 白龍山 寿命院 東覚寺
(とうかくじ)
公式Web
北区田端2-7-3
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:(田端)八幡神社(北区田端2-7-2)
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第66番、豊島八十八ヶ所第66番、谷中七福神(福禄寿)、上野王子駒込辺三十三観音霊場第29番、九品仏霊場第2番(上品中生)、閻魔三拾遺第5番、江戸・東京四十四閻魔参り第35番、滝野川寺院めぐり第2番
※この記事は■ 滝野川寺院めぐり-1をアレンジして仕上げています。
第66番は田端の東覚寺です。
御府内霊場には東覚寺を号する札所がふたつ(当山と第73番/亀戸)ありますが、当山を「田端東覚寺」、第73番を「亀戸東覚寺」と呼んで区別しているようです。
ところで城北の田端あたりは御府内に入っていたのでしょうか。
「御府内」とは「江戸町奉行が支配の対象とする江戸(の範囲内)」ないし「寺社勧化場として許可された江戸(の範囲内)」といわれ、時代によって変化したといいます。
東京都公文書館のWeb資料には以下のとおりあります。
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文政元年(1818)8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。
この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。
その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。
東…中川限り
西…神田上水限り
南…南品川町を含む目黒川辺
北…荒川・石神井川下流限り
この朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、この墨引で示された範囲が、町奉行所支配の範囲を表しています。朱引と墨引を見比べると、例外的に目黒付近で墨引が朱引の外側に突出していることを除けば、ほぼ朱引の範囲内に墨引が含まれる形になっていることが見てとれます。
以来、江戸の範囲といえば、この朱引の範囲と解釈されるようになったのです。
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このようにきわめて明快に説明されています。
つまり、江戸御府内=江戸朱引図内ということです。
■ 江戸朱引図(東京都公文書館Web公開資料)
江戸朱引図(東京都公文書館)をみると田畑村はしっかり朱引図内に収まっており、田端が御府内に位置することがわかります。
■ 朱引きと田畑村の位置関係(東京都公文書館Web公開資料を筆者にて加工)
第66番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに東覚寺となっており、第66番札所は御府内霊場開創当初から田端の東覚寺であったとみられます。
公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
東覚寺は、延徳三年(1491年)真言宗御室派の僧、源雅和尚が神田筋違橋(現在の万世橋付近)に不動明王を御本尊に勧請して創建。
その後根岸の御印田を経て、慶長年間(1596-1615年)に田畑村の現在地に移転したと伝わります。
田端の名刹・與楽寺(第56番札所)の末寺で、20を数えた末寺のなかで筆頭に位置したといいます。
その名刹ぶりは、末寺なから養福寺・寿徳寺・福蔵寺・普門寺という4つの末寺を擁していたこと、御府内霊場、九品仏霊場、(西国)三十三観音霊場など複数の霊場札所を兼ねていたことからもわかります。
江戸時代には徳川歴代将軍の祈願所となり、寺紋に“葵の紋”を賜りました。
昭和20年4月13日の戦災で御本尊の不動明王を除いて諸堂などほぼ全てを焼失。
現在の本堂は、昭和42年の再建です。
東覚寺は江戸時代は八幡社(田端八幡宮)の別当で、『江戸名所図会』で八幡社の山裾に佇む様は別当としての性格をあらわしています。
八幡社(田端八幡宮)は文治五年(1189年)頼朝公の勧請と伝わる田畑村の鎮守です。
『新編武蔵風土記稿』には東覺寺、八幡社(田畑八幡宮)、石像仁王、九品佛堂、観音堂などが渾然と載せられ、神仏習合の霊地であったことがうかがえます。
【写真 上(左)】 田端八幡神社
【写真 下(右)】 田端八幡神社の御朱印
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十六番
田ばた村
白龍山 壽命院 東覺寺
田ばた村与楽寺末
本尊:不動明王 本社八幡大菩薩 弘法大師
■ 『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻十』(国立国会図書館)
(田端村)東覺寺
與楽寺末白龍山壽命院ト号ス 寺領七石ノ御朱印ヲ附セラル
本尊不動ハ弘法大師ノ作ナリ
八幡社
村ノ鎮守ナリ 江戸志等ニ文治五年(1189年)頼朝ノ勧請ナル由記シタレト 今社伝ニ存セス 社前ニ石像仁王アリ 昔銘ニ施主道如宗海上人東岳寺賢盛代 寛永十八年(1641年)八月二十一日ト彫ル
九品佛堂
惠心ノ作ノ三尊彌陀ヲ安置ス 第二番ノ堂ト云
観音堂
■ 『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
田畑八幡宮
同所(田畑村)西の方にあり田畑村の鎮守とす 相伝ふ文治五年(1189年)頼朝公勧請す すなはち駒込神明宮と同時の鎮座なりと云 別当ハ眞言宗東覚寺と号して弘法大師の作の不動尊を本尊とす 開山行基菩薩なり
「東覚寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
「田畑八幡宮」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[15],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836] .国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【写真 上(左)】 赤紙仁王尊と明王堂
【写真 下(右)】 奉納された草鞋
最寄りはJR「田端」駅で徒歩約6分。
複数の霊場札所を兼ね、「赤紙仁王尊」でも知られる寺院です。
区画整理が進んだ広々とした街区に、赤紙を貼られた赤紙仁王尊の出現はインパクトがあります。
この赤紙仁王尊(区の指定文化財)は寛永十八年(1641年)の背銘があり、当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宋海上人が願主建立されたもので、赤紙を自分の患部と同じところに貼って願をかけると霊験ありと信じられ、いまもたくさんの赤紙が貼られています。
【絵図】 慶応2年頃の石像金剛力士像の様子(北区教育委員会の現地説明板より/出典『御府内八十八ヶ所道しるべ』/国立国会図書館提供)
ときどき赤紙を剥がすそうですが、剥がす前のタイミングだと石造の仁王尊は赤紙に貼り尽くされほとんどお姿が見えません。
病が治癒すると草履を供えるとされ、仁王尊の脇にはたくさんの草履が奉納されています。
この赤紙仁王尊は門前の明王堂(護摩堂)参道に御座しますが、もともとは当山が別当を務めた田端八幡神社の参道に安置されていたといいます。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂
山門は新しいですが本瓦葺、二軒の平行垂木を備えた立派なものでおそらく薬医門。
正面本堂左手前の修行大師像と金色の金剛界大日如来坐像、向拝欄干には御本尊不動明王の御真言とお大師さまの御寶号が掲げられ、保守本流の真言宗寺院の空気感。
【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面桟唐戸の上に「白龍山」の扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 札所標
本堂左手客殿前には金色の阿弥陀如来坐像、その奥に「九品佛第二番 阿弥陀如来」と西國廿九番(上野王子駒込辺三十三観音霊場、札所本尊馬頭観世音菩薩)の札所標が並びます。
九品佛霊場は江戸時代開創の古い霊場で発願は巣鴨の真性寺、結願は板橋の智清寺。東覚寺は第2番で上品中生の阿弥陀如来です。
両霊場ともに御朱印の有無をお伺いしましたが、いずれもお出しになられていないとのことでした。
【写真 上(左)】 鼓翼(はばたき)平和観音像
【写真 下(右)】 馬頭観世音
庫裡に回り込む手前に、鼓翼(はばたき)平和観音像と馬頭観世音菩薩が御座します。
馬頭観世音菩薩は三面八臂の坐像で、髻に馬頭をいだかれた憤怒相です。
馬頭観世音菩薩は観世音菩薩にはめずらしい憤怒尊で、「馬頭明王」と呼ばれることもあります。
この立派な馬頭観世音菩薩は、上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所本尊なのかもしれません。
本堂裏には回遊式の庭園があり、庭内に諸仏が安置されています。
- むらすずめ さわくち声も もも声も つるの林の つるの一声 -
太田蜀山人 / 雀塚の石塔
こちらは江戸・東京四十四閻魔参り第35番の札所で、御縁日に参拝したところ閻魔大王の御朱印は授与されていないとのことで、御本尊の御朱印をいただきました。
閻魔大王は奪衣婆とともに、本堂内に御座されているそうです。
また、歴史ある谷中七福神の福禄寿尊天をお祀りされます。
この福禄寿尊天は、もとは通称「六角山」にあった六角堂(西行庵)に西行法師坐像とともに祀られていたもので、明治に入って当寺に遷座されました。
毎年正月には本堂で御開帳されています。
御朱印は、向かって左裏手の寺務所で拝受します。
複数の霊場札所を兼務されているので、希望の御朱印をはっきりと申告します。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊不動明王」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内第六拾六番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【上(左)】 閻魔様の御縁日に拝受した御本尊の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所第66番の御朱印
■ 滝野川寺院めぐり第2番の御朱印
※「滝野川寺院めぐり 第2番」の札所印はお持ちでないとのことでしたが、ご厚意で揮毫の札番をいただけました。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-22)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ ノーサイド - 松任谷由実
願い - 童子-T feat.YU-A
■ いつかまた咲く花へ - 西沢はぐみ
■ into the world - kalafina
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第63番 初音山 東漸寺 観智院
(かんちいん)
公式Web
台東区谷中5-2-4
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第64番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第6番
第63番は谷中の観智院です。
第63番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』では観智院、江戸八十八ヶ所霊場では加納院となっています。
加納院は御府内霊場第64番ですから、どこかの時点で63番と64番の札所が入れ替わった可能性があります。
いずれにしても、谷中の観智院は御府内霊場開創当初からの札所であったとみられます。
公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
観智院は、慶長十六年(1611年)、照譽法印が小(北)寺町に開山、慶安元年(1648年)谷中へ移転したといいます。
慶安元年(1648年)の移転は旧寺地が幕府用地となつたためで、『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)、明王院(第57番)などと同様とみられますが、寺伝には慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、万治年中(1658-1660年)に現在地へ移転とあります。
延宝八年(1680年)、当山12世・宥朝法印が入山され元禄十一年(1698年)に院号を現在の観(觀)智院に改めました。
当初の院号は圓照院。
宥朝法印は「”圓照”は”炎焦”に通ずる」との霊告を受けられて号を改めたといいます。
宥朝法印の入山により寺勢はますます興隆しましたが、公式Webでは当山と檀越関係にあった奥医師・丸山玄棟の外護も大きかったと推察されています。
安永八年(1779年)には不動堂を建立、興教大師作と伝わる不動尊像が安置され、五大明王像を奉安という史料もみられます。
五大明王とは不動明王を中心に降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北)と配置される明王像で、霊験ことにあらたかとして広く信仰されます。
元禄十六年(1703年)十一月、大震災につづいて本郷追分、小石川辺から出火した火災は、折からの強風にあおられて江戸の町の大半を焼きつくしました。
谷中の寺院も多くが焼失しますが、観智院は奇跡的に炎禍を遁れたといいます。
観智院の不動尊は興教大師御作と伝わる霊像であること、中興開山・宥朝法印の「火除けの改号」のいわれ、そして大火の炎禍を免れたことなどもあってか、「谷中の火除不動尊」と呼ばれて多くの参詣者を集めたといいます。
文化・文政(1804-1829年)の頃になると、江戸御府内はもちろん近隣からも参詣人が訪れ、門前は市がたつほどの賑わいになったと伝わります。
谷中のメインロードであった「三崎坂」(さんざきざか)に面していたことも大きいのでは。
明治初頭の神仏分離の際には大店の商人をはじめとする町人の檀信徒が23世・真興法印のもとに結集して寺門を支えたといい、御府内霊場札所のポジションも堅持しています。
明治39年、24世・海隆法印が入山、先々代・石本海隆師も堂宇整備に尽力されて大正年間にはふたたび寺容を整えたといいます。
関東大震災では延焼を免れた当山に人々が避難したといい、昭和20年3月の東京大空襲では本堂・庫裡に砲弾を受けたものの大師堂・不動堂は焼失の難を遁れ、いまなお戦前の姿を残すとともに、御本尊・大日如来をはじめすべての仏像、什器もまた焼失を遁れています。
火除不動尊の霊験まことにあらたかというべきでしょうか。
昭和24年初音幼稚園を設置し、いまでも山内は園児の声でにぎやかです。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十三番
谷中三崎通り
醫王山 東漸寺 観智院
本所弥勒寺末 新義
本尊:弘法大師
■ 『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.100』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
醫王山東漸寺観智院
権現様御世慶長十六年(1611年)2月15日、当寺開山照誉法印代 於神田小寺町ニ寺地拝領仕候 大猷院様御世慶安元年(1648年)中、神田小寺町御用地ニ付被召上 谷中ニ代地拝領仕候
開山 照誉法印 卒年月不知
中興開基 宥朝法印 享保六年(1721年)遷化
本堂
本尊 弘法大師座像
不動尊土蔵
不動尊座像 興教大師作
稲荷社
■ 『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
觀智院(谷中初音町一丁目二三番地)
本所彌勒寺末、醫王山東漸寺と号す。本尊弘法大師。当寺亦慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を賜うて起立し、慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや現地に転じた。開山は僧照譽、中興は僧宥朝。(享保六年(1721年)五月二十二日寂)
境内に不動堂がある。
「観智院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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※ 休園日に撮った写真がなぜか見つかりません。見つかったら追加します。
最寄りは東京メトロ千代田線「千駄木」で徒歩約7分ほど。
JR「日暮里」駅からも同じくらいで歩けます。
千駄木から谷中霊園へ向かう三崎坂をほぼ登り切ったところに道に面してあります。
第57番明王院の並びにあり、谷中寺町のほぼ中心部に当たります。
【写真 上(左)】 全景
【写真 下(右)】 本堂
山内のほとんどは幼稚園として使われ、平日の日中はセキュリティ上から閉門されているので、休日の参拝がベターとみられます。
山内入口に初音六地蔵。
昭和58年秋の像立と新しいお像ですが、手篤く供養されて存在感があります。
門柱に院号標があり、おくに本堂は見えますが、平日昼間は園児たちが走り回り幼稚園バスが停まっていたりしてほぼ幼稚園です。
正面の階段上に唐破風の向拝を備えた本堂。
複雑な意匠で見応えがあります。
【写真 上(左)】 不動堂(右)と大師堂(左)
【写真 下(右)】 不動堂の扁額
本堂向かって左手前に不動堂と大師堂があります。
不動堂は宝形造銅板葺で向拝に「火除不動尊」の扁額を掲げています。
大師堂は不動堂の向かって右手に連接してあります。
柱には御府内霊場ではなく、「弘法大師廿一ヶ所六番」の札所板が打ち付けられていました。
お大師さまは、堂内の大ぶりな厨子のなかに御座されています。
御朱印は本堂向かって左手前の庫裡にて拝受しました。
なお、「火除不動尊」の御朱印は授与されていないそうです。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と胎蔵大日如来のお種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第六十三番」の札所印。左に地蔵尊の御影印、院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第64番 長谷山 元興寺 加納院
(かのういん)
台東区谷中5-8-5
新義真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第63番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第4番
第64番は谷中の加納院。御府内霊場では数すくない、紀州根來寺を総本山とする新義真言宗の寺院です。
第64番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』では加納院、江戸八十八ヶ所霊場では観智院となっています。
観智院は御府内霊場第63番ですから、どこかの時点で63番と64番の札所が入れ替わった可能性があります。
いずれにしても、谷中の加納院は御府内霊場開創当初からの札所であったとみられます。
下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
加納院は、慶長十六年(1611年)、幕府より神田小(北)寺町に寺地を給せられて尊慶上人が開基、慶安元年(1648年)谷中へ移転したといいます。
慶安元年(1648年)の移転は旧寺地が幕府用地となったためで、『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)、明王院(第57番)、観智院(第63番)などと同様とみられますが、慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、延宝八年(1680年)再び幕府用地となったため現在地へ移転といいます。
加納院は情報が少ないですが、『寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考』には、本堂御本尊は阿弥陀如来で両脇侍は正観世音菩薩と勢至菩薩。
御本尊の阿弥陀如来は「(御府内)八十八ヶ所ノ第六十三番」と記されています。
本堂内(『下谷区史』では大師堂内)に弘法大師像、興教大師像を奉安し、御府内霊場札所としての要件は整っていたようです。
聖天堂には大聖歓喜天二躰(秘佛)と本地佛として十一面観世音菩薩を奉安。
相殿に稲荷。阿弥陀如来、弁財天二躰、千手観世音菩薩も安置と伝わります。
『ルートガイド』によると、当山所蔵の「両界曼荼羅版木」は台東区有形文化財に指定されているとのこと。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十四番
谷中
長谷山 元興寺 加納院
本所弥勒寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.102』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
長谷山元興寺加納院
起立 慶長十六年(1611年)
開基 尊慶 寛永十三年(1636年)寂
権現様御代 神田北寺町ニ寺地拝領仕候 慶安元年(1648年)大猷院様御代 神田北寺町御用ニ付 谷中清水坂ニテ替地拝領仕候 延宝八年(1680年)厳有院様御代御用地ニ付 清水坂地処差上● 只今ハ当所ニ住居仕候
本堂
本尊 阿弥陀如来木座像
八十八ヶ所ノ第六十三番
両脇士 観世音 勢至
弘法大師 興教大師
位牌壇 大日如来
聖天堂
歓喜天二躰 秘佛
本地 十一面観音
相殿稲荷 阿弥陀如来 弁財天二躰 千手観世音
■ 『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
加納院(谷中上三崎北町六番地)
本所彌勒寺末、長谷山元興寺と号す。本尊阿彌陀如来。慶長十六年(1611年)幕府より神田北寺町に寺地を給せられて起立した。開山を尊慶(寛永十三年(1636年)四月六日寂)といふ。慶安元年(1648年)同所が幕府用地となったため谷中清水坂(現谷中清水町)に移り、延寶八年(1680年)同所亦用地となり、現地に転じた。
境内に聖天堂(大聖歡喜天を安置す)及び大師堂(弘法大師像及び興教大師像を安置す)がある。
「加納院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「千駄木」駅からの方が距離的には近いくらいですが、急な登りとなります。
台地上にある「日暮里」駅から歩くとわかりにくいですが、千駄木方面から望むとかなりの高台にあることがわかります。
寺院に囲まれた路地奥の立地ですが、観光スポットの観音寺の築地塀の先にあり、目立つ朱塗り門を構えているので、訪れる人は意外に多いのかもしれません。
位置的には三崎坂から明王院と観智院のあいだの路地を北に入った路地の突き当たりにあります。
この路地まわりはほとんどが寺院で、谷中が都内屈指の寺町であることを実感できます。
【写真 上(左)】 加納院前から望む観音寺の築地塀(左)
【写真 下(右)】 山門
山門は切妻屋根桟瓦葺の朱塗りの薬医門で、脇塀とともにコの字型の空間をつくり出し、どこか城門のようです。
山門前に御府内霊場札所標。
これは御府内霊場(第64番)と御府内二十一ヶ所霊場(第4番)を併記したもので、比較的めずらしいかたちでは。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内
緑濃い山内はよく手入れされて心なごみます。
四季折々の花々が咲き誇る花の寺でもあるようです。
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの向拝
向拝に扁額はないですが、向拝扉右手に御府内霊場(第64番)と御府内二十一ヶ所霊場(第4番)の札所板が掲げられています。
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 御朱印案内
御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
御府内霊場は参拝後の御朱印申告が原則ですが、こちらでは参拝前に御朱印帳を預ける旨の掲示があります。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊阿弥陀如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫とお種子(おそらく阿弥陀如来のお種子・キリーク)の御寶印。
御寶印は八葉をかたちどったもので、胎蔵曼荼羅の中心部・中台八葉院をモチーフとしたものかも。
右に「第六十四番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
西暦で書かれた奉拝日が個性的です。
■ 第65番 明王山 遍照寺 大聖院
(だいしょういん)
港区三田4-1-27
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第65番
第65番は三田の大聖院。
御府内霊場の後半は、三田の札所が多くなります。
第65番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに大聖院で、三田の大聖院は御府内霊場開創当初からの第65番札所であったとみられます。
下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
大聖院は、慶長十六年(1611年)数寄屋町に創建ののち八丁堀に移り、寛永十二年(1635年)淀松尾氏等の外護を受けて三田の現在地に移転といいます。
開山は宥専上人、中興開基は法印祐壽と伝わります。
江戸期は愛宕前真福寺末でしたが、明治12年に智山派総本山智積院の直轄末寺となっています。
本堂には、御本尊の大日如来木座像を奉安。六躰の阿弥陀如来木座像と弘法大師木座像、興教大師木座像を安置して御府内霊場札所の体裁を整えていたようです。
護摩堂には不動尊木座像、千手観音木座像、愛染明王木座像、聖天尊真鍮立像を奉安し、鎮守は稲荷社と伝わります。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十五番
芝三田寺町
明王山 遍照寺 大聖院
愛宕山真福寺末 新義
本尊:金剛界大日如来 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.92』
三田寺町
愛宕前真福寺末 新義真言宗
明王山大聖院遍照寺
草創之年暦 開山 中興開山 開基 不分明
慶長十六年(1611年)四月数寄屋町 八町堀に替地拝領仕
寛永十二年(1635年)八月八町堀から三田寺町に替地拝領仕
中興開基 法印祐壽 寛永十二年(1635年)
本堂
本尊 大日如来木座像
阿彌陀如来木座像 六躰
弘法大師木座像
興教大師木座像
護摩堂
不動尊木座像 千手観音木座像 愛染明王木座像 聖天尊真鍮立像
鎮守稲荷社
■ 『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
大聖院 三田北寺町二十一番地
初め眞言宗愛宕眞福寺末派で、慶長十六年(1611年)数寄屋町に創建し、後八丁堀に移り、寛永十二年(1635年)淀松尾氏等の外護に依って現在地に堂宇を定めた。開山は宥専上人である。明治十二年六月二日京都総本山智積院直轄末寺となった。御府内第六十五番の札所である。
「大聖院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営三田線「三田」駅で徒歩約10分。
国道1号に面し、蛇坂の登り口にあります。
三田界隈は国道1号が低地を走り、台地上を走る二本榎通りに向かっていくつかの坂道があり、その坂道や国道1号に面して寺院が点在する寺町です。
【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 院号標
三田には都心霊場ならではのビルタイプの札所寺院がありますが、こちらもそのひとつ。
国道1号からスロープを介して少しく引き込んでいるので、入口壁面の院号標がなければ寺院とは思えません。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 尊像御座の一画
瀟洒なビルで、エントランスの唐破風がなければ近づいても寺院と気づかないかも。
エントランス向かって右手の一画に札所標、二童子を従えた不動明王、弘法大師像、地蔵尊像が御座し、俄然霊場札所らしい雰囲気が出てきます。
【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 向拝?
エントランスが拝所(向拝?)と思われ、こちらから参拝しました。
こちらは二度参拝しいずれもご不在だったので、ご在寺時にお声掛けすれば堂内に入れていただけるかは不明です。
『ルートガイド』には弘法大師の御作と伝わる不動明王を安置とありますが、御座所は不明です。
御朱印はエントランス脇の扉に書置が掛けてありました。
専用用紙、御朱印帳貼付、どちらのタイプも準備されていました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と御寶印。
御寶印のお種子は不動明王の「カン/カーン」のようにも見えますが、どうでしょうか。
右に「第六十五番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第66番 白龍山 寿命院 東覚寺
(とうかくじ)
公式Web
北区田端2-7-3
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:(田端)八幡神社(北区田端2-7-2)
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第66番、豊島八十八ヶ所第66番、谷中七福神(福禄寿)、上野王子駒込辺三十三観音霊場第29番、九品仏霊場第2番(上品中生)、閻魔三拾遺第5番、江戸・東京四十四閻魔参り第35番、滝野川寺院めぐり第2番
※この記事は■ 滝野川寺院めぐり-1をアレンジして仕上げています。
第66番は田端の東覚寺です。
御府内霊場には東覚寺を号する札所がふたつ(当山と第73番/亀戸)ありますが、当山を「田端東覚寺」、第73番を「亀戸東覚寺」と呼んで区別しているようです。
ところで城北の田端あたりは御府内に入っていたのでしょうか。
「御府内」とは「江戸町奉行が支配の対象とする江戸(の範囲内)」ないし「寺社勧化場として許可された江戸(の範囲内)」といわれ、時代によって変化したといいます。
東京都公文書館のWeb資料には以下のとおりあります。
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文政元年(1818)8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。
この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。
その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。
東…中川限り
西…神田上水限り
南…南品川町を含む目黒川辺
北…荒川・石神井川下流限り
この朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、この墨引で示された範囲が、町奉行所支配の範囲を表しています。朱引と墨引を見比べると、例外的に目黒付近で墨引が朱引の外側に突出していることを除けば、ほぼ朱引の範囲内に墨引が含まれる形になっていることが見てとれます。
以来、江戸の範囲といえば、この朱引の範囲と解釈されるようになったのです。
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このようにきわめて明快に説明されています。
つまり、江戸御府内=江戸朱引図内ということです。
■ 江戸朱引図(東京都公文書館Web公開資料)
江戸朱引図(東京都公文書館)をみると田畑村はしっかり朱引図内に収まっており、田端が御府内に位置することがわかります。
■ 朱引きと田畑村の位置関係(東京都公文書館Web公開資料を筆者にて加工)
第66番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに東覚寺となっており、第66番札所は御府内霊場開創当初から田端の東覚寺であったとみられます。
公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
東覚寺は、延徳三年(1491年)真言宗御室派の僧、源雅和尚が神田筋違橋(現在の万世橋付近)に不動明王を御本尊に勧請して創建。
その後根岸の御印田を経て、慶長年間(1596-1615年)に田畑村の現在地に移転したと伝わります。
田端の名刹・與楽寺(第56番札所)の末寺で、20を数えた末寺のなかで筆頭に位置したといいます。
その名刹ぶりは、末寺なから養福寺・寿徳寺・福蔵寺・普門寺という4つの末寺を擁していたこと、御府内霊場、九品仏霊場、(西国)三十三観音霊場など複数の霊場札所を兼ねていたことからもわかります。
江戸時代には徳川歴代将軍の祈願所となり、寺紋に“葵の紋”を賜りました。
昭和20年4月13日の戦災で御本尊の不動明王を除いて諸堂などほぼ全てを焼失。
現在の本堂は、昭和42年の再建です。
東覚寺は江戸時代は八幡社(田端八幡宮)の別当で、『江戸名所図会』で八幡社の山裾に佇む様は別当としての性格をあらわしています。
八幡社(田端八幡宮)は文治五年(1189年)頼朝公の勧請と伝わる田畑村の鎮守です。
『新編武蔵風土記稿』には東覺寺、八幡社(田畑八幡宮)、石像仁王、九品佛堂、観音堂などが渾然と載せられ、神仏習合の霊地であったことがうかがえます。
【写真 上(左)】 田端八幡神社
【写真 下(右)】 田端八幡神社の御朱印
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十六番
田ばた村
白龍山 壽命院 東覺寺
田ばた村与楽寺末
本尊:不動明王 本社八幡大菩薩 弘法大師
■ 『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻十』(国立国会図書館)
(田端村)東覺寺
與楽寺末白龍山壽命院ト号ス 寺領七石ノ御朱印ヲ附セラル
本尊不動ハ弘法大師ノ作ナリ
八幡社
村ノ鎮守ナリ 江戸志等ニ文治五年(1189年)頼朝ノ勧請ナル由記シタレト 今社伝ニ存セス 社前ニ石像仁王アリ 昔銘ニ施主道如宗海上人東岳寺賢盛代 寛永十八年(1641年)八月二十一日ト彫ル
九品佛堂
惠心ノ作ノ三尊彌陀ヲ安置ス 第二番ノ堂ト云
観音堂
■ 『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
田畑八幡宮
同所(田畑村)西の方にあり田畑村の鎮守とす 相伝ふ文治五年(1189年)頼朝公勧請す すなはち駒込神明宮と同時の鎮座なりと云 別当ハ眞言宗東覚寺と号して弘法大師の作の不動尊を本尊とす 開山行基菩薩なり
「東覚寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
「田畑八幡宮」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[15],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836] .国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【写真 上(左)】 赤紙仁王尊と明王堂
【写真 下(右)】 奉納された草鞋
最寄りはJR「田端」駅で徒歩約6分。
複数の霊場札所を兼ね、「赤紙仁王尊」でも知られる寺院です。
区画整理が進んだ広々とした街区に、赤紙を貼られた赤紙仁王尊の出現はインパクトがあります。
この赤紙仁王尊(区の指定文化財)は寛永十八年(1641年)の背銘があり、当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宋海上人が願主建立されたもので、赤紙を自分の患部と同じところに貼って願をかけると霊験ありと信じられ、いまもたくさんの赤紙が貼られています。
【絵図】 慶応2年頃の石像金剛力士像の様子(北区教育委員会の現地説明板より/出典『御府内八十八ヶ所道しるべ』/国立国会図書館提供)
ときどき赤紙を剥がすそうですが、剥がす前のタイミングだと石造の仁王尊は赤紙に貼り尽くされほとんどお姿が見えません。
病が治癒すると草履を供えるとされ、仁王尊の脇にはたくさんの草履が奉納されています。
この赤紙仁王尊は門前の明王堂(護摩堂)参道に御座しますが、もともとは当山が別当を務めた田端八幡神社の参道に安置されていたといいます。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂
山門は新しいですが本瓦葺、二軒の平行垂木を備えた立派なものでおそらく薬医門。
正面本堂左手前の修行大師像と金色の金剛界大日如来坐像、向拝欄干には御本尊不動明王の御真言とお大師さまの御寶号が掲げられ、保守本流の真言宗寺院の空気感。
【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面桟唐戸の上に「白龍山」の扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 札所標
本堂左手客殿前には金色の阿弥陀如来坐像、その奥に「九品佛第二番 阿弥陀如来」と西國廿九番(上野王子駒込辺三十三観音霊場、札所本尊馬頭観世音菩薩)の札所標が並びます。
九品佛霊場は江戸時代開創の古い霊場で発願は巣鴨の真性寺、結願は板橋の智清寺。東覚寺は第2番で上品中生の阿弥陀如来です。
両霊場ともに御朱印の有無をお伺いしましたが、いずれもお出しになられていないとのことでした。
【写真 上(左)】 鼓翼(はばたき)平和観音像
【写真 下(右)】 馬頭観世音
庫裡に回り込む手前に、鼓翼(はばたき)平和観音像と馬頭観世音菩薩が御座します。
馬頭観世音菩薩は三面八臂の坐像で、髻に馬頭をいだかれた憤怒相です。
馬頭観世音菩薩は観世音菩薩にはめずらしい憤怒尊で、「馬頭明王」と呼ばれることもあります。
この立派な馬頭観世音菩薩は、上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所本尊なのかもしれません。
本堂裏には回遊式の庭園があり、庭内に諸仏が安置されています。
- むらすずめ さわくち声も もも声も つるの林の つるの一声 -
太田蜀山人 / 雀塚の石塔
こちらは江戸・東京四十四閻魔参り第35番の札所で、御縁日に参拝したところ閻魔大王の御朱印は授与されていないとのことで、御本尊の御朱印をいただきました。
閻魔大王は奪衣婆とともに、本堂内に御座されているそうです。
また、歴史ある谷中七福神の福禄寿尊天をお祀りされます。
この福禄寿尊天は、もとは通称「六角山」にあった六角堂(西行庵)に西行法師坐像とともに祀られていたもので、明治に入って当寺に遷座されました。
毎年正月には本堂で御開帳されています。
御朱印は、向かって左裏手の寺務所で拝受します。
複数の霊場札所を兼務されているので、希望の御朱印をはっきりと申告します。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊不動明王」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内第六拾六番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【上(左)】 閻魔様の御縁日に拝受した御本尊の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所第66番の御朱印
■ 滝野川寺院めぐり第2番の御朱印
※「滝野川寺院めぐり 第2番」の札所印はお持ちでないとのことでしたが、ご厚意で揮毫の札番をいただけました。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-22)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ ノーサイド - 松任谷由実
願い - 童子-T feat.YU-A
■ いつかまた咲く花へ - 西沢はぐみ
■ into the world - kalafina
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