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関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-22
Vol.-21からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第67番 摩尼珠山 宝光院 真福寺
(しんぷくじ)
公式Web
港区愛宕1-3-8
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第67番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所(第23番)、江戸地蔵菩薩霊場三十六ヶ所(第23番/一言地蔵尊)、江戸西方三十三観音霊場第4番(真福寺内長久寺)、弁財天百社参り第7番(真福寺本道)、弁財天百社参り第8番(真福寺弁天堂)、大東京百観音霊場 特番4
第67番は愛宕の真福寺です。
第67番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに真福寺となっており、第67番札所は御府内霊場開創当初から愛宕の真福寺であったとみられます。
公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
真福寺は、天正十九年(1591年)照海上人が鐵砲洲に小庵を営み、慶長十年(1605年)徳川家康公より愛宕下に土地を賜り開創されました。
新義真言宗江戸四箇寺のひとつで、智積院の触頭でした。
御本尊は弘法大師御作の薬師如来像で、浅野幸長は等身の薬師如来を造立し、弘法大師御作の薬師如来像をその胎内に安置したとも伝わります。
江戸時代は「愛宕のお薬師さん」として庶民に親しまれ、毎月8日のご縁日には門前市を成す賑わいをみせたそうです。
明治初頭の神仏分離の波は乗り越えたものの、大正の大震災で焼失。
昭和6年現堂宇を再建、平成7年に近代的な『真福寺・愛宕東洋ビル』として再生されています。
現在も、真言宗智山派総本山・智積院の東京別院として智山教化を担われています。
山内には勝軍地蔵尊銅像があります。
この勝軍地蔵尊は廃寺となった圓福寺ゆかりの尊像と伝わります。
圓福寺は江戸時代、御府内霊場第19番の札所であった可能性があります。
詳細は第19番青蓮寺で記していますが、圓福寺は真福寺同様、新義真言宗江戸四箇寺のひとつでもあるので、要旨を抜粋して再掲します。
江戸期の真言宗には「江戸四箇寺触頭」という制度があり、これにより本末関係が精緻に整えられていました。
『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏/PDF)によると、発足当初の「江戸四箇寺触頭」はつぎの4箇寺です。
・知足院(江戸白銀町)
→ 関連資料
・真福寺(愛宕下)
・円(圓)福寺(愛宕下)
・弥勒寺(本所)
智積院公式Webには「貞享4年(1687)七月に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、代わりに根生院が任じられます。以後、明治までは変化はありません(円福寺は明治二年に廃仏毀釈により廃寺)。」とあるので、貞享四年(1687年)以降は真福寺(67)、圓福寺(19)、弥勒寺(46)、根生院(35)の四箇寺体制となっています。
( )内は御府内霊場の札番で、これをみても御府内霊場が真言宗の名刹をおおむねカバーしていたことがわかります。
また、『宝瞳寺文書解題』(国文学研究資料館/PDF)にも「江戸四箇寺触頭」の役割が詳細に記されています。
圓福寺は「江戸四箇寺触頭」を勤められ、御府内にいくつもの末寺をもつ御府内有数の名刹でした。
これほどの名刹がどうして明治の廃仏毀釈でいともあっさり(?)と廃絶してしまったのでしょうか。
(実際、触頭4箇寺のうち他の3箇寺は現存しています。)
どうにも気になったので、まずはここから調べてみました。
真福寺の勝軍地蔵尊の説明書には以下のとおりあります。
「この勝軍地蔵菩薩は、天平十年(738年)行基が近江信楽遊行の砌、造顕したもので、同地に安置され、霊験あらたかなり。天正十年(1582年)徳川家康、本能寺の変の難を逃れんがため伊賀越に際し、信楽の土豪多羅尾氏、当勝軍地蔵を献上、沙門神証これを護持し、三河に帰還するをえたり。爾来、家康の帰依厚し。慶長八年(1603年)家康、征夷大将軍に栄進するにより、江戸に愛宕神社を創建し、同社の本地仏として勧請、神証を別当の円福寺第一世とせり。明治の廃仏毀釈で円福寺は廃寺、尊像は真福寺に移されたが、大正十二年 (1923年)関東大震災で焼失、昭和九年(1934年)弘法大師一千百年御遠忌記念として、霊験を不朽にせんがため、銅製で造顕せり。」
一方、愛宕神社の公式Webには配祀として将軍地蔵尊が明記され、愛宕権現(神社)にとって将軍(勝軍)地蔵尊がいかに重要な尊格であるかがわかります。
以上から、圓福寺は愛宕権現の別当の色彩がすこぶる濃厚だったとみられます。
この点は、全国の愛宕神社の総本社とされる愛宕神社(京都市右京区嵯峨愛宕町)と、その別当・白雲寺との関係とよく似ています。
中世~江戸期の愛宕権現社の多くは、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られたといいます。
神仏習合のもと修験道の道場として栄えたこともあり、別当の勢力はたいへん強かったとみられます。
この強大な立場が明治の廃仏毀釈で裏目に出て、愛宕権現の別当・圓福寺は存続の危機に見舞われたのでは。
実際、京都の愛宕神社総本社の別当・白雲寺は廃仏毀釈で廃絶となっています。
総本社の別当・白雲寺が廃絶となった以上、東都の愛宕権現の別当・圓福寺も、たとえ「江戸四箇寺触頭」の格式があったとしても廃絶を遁れられなかったのでは?
ちなみに『寺社書上』の圓福寺の項には「従是愛宕山上之分」として以下のとおりあります。
□「(圓福寺)従是愛宕山上之分」(諸佛のみ抜粋引用)
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【史料】
■ 『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上』(国立国会図書館)
愛宕大権現御神● 秘像
御前立 勝軍地蔵尊
脇立 不動明王 毘沙門天
本地堂 脇坊金剛院持
朝日愛染明王
太郎坊北之方
唐●地蔵尊 勝軍地蔵尊 地蔵尊 石地蔵尊
女坂
勝軍地蔵尊
男坂上り口
役行者堂
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これをみると江戸期の愛宕権現が諸佛に満ち、神仏習合していたことがよくわかります。
本地堂の別当は金剛院(圓福寺地内末寺)とあるので、愛宕権現全体の別当が圓福寺、本地堂の別当が金剛院という二重構造だったのかもしれません。
なお、『江戸名所図会』の愛宕社總門の絵図をみると、男坂の右手に本地堂、左手に別当(おそらく圓福寺)がみえ、本地・別当系の諸堂は坂下にあったことがわかります。
ここから「出世の石段」を登って参拝する愛宕権現は海抜26mという都内随一の高みにあり、ここからの見晴らしと桜花のすばらしさは御府内有数と称えられ、ほおずき市や羽子板市も賑わいをみせて江戸の図絵類に描かれています。
■『江戸名所図会』 7巻 (須原屋茂兵衛[ほか])/愛宕社總門
(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載 → 出所 )
~ 伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり ~ (愛宕神社御由緒書より)
【写真 上(左)】 愛宕神社社頭
【写真 下(右)】 出世の石段
【写真 上(左)】 愛宕神社拝殿
【写真 下(右)】 愛宕神社の御朱印
真福寺勝軍地蔵尊の説明文のとおり、圓福寺が廃寺となったとき、御本尊の(勝軍)地蔵菩薩は愛宕の真福寺に遷られました。
このとき真福寺はすでに御府内霊場第67番の札所だったので、重番を避けるため御府内霊場第19番は浅草の清光院に承継されたとみられます。
江戸時代の真福寺と圓福寺の関係はよくわかりませんが、真福寺は智積院の触頭としての性格、圓福寺は愛宕権現別当としての性格が強く、それぞれ棲み分けしていたのではないでしょうか。
いずれにしても、真言宗「江戸四箇寺触頭」のうち2箇寺までが愛宕に位置しており、この地が江戸の真言宗にとって特別な地であったことがうかがえます。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十七番
あたご下
摩尼珠山 宝持院 真福寺
院家智積院方
本尊:薬師如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.71』
愛宕下
山城国三寶院末 新義真言宗
摩尼珠山宝光院真福寺
天正十九年下総国匝瑳郡谷辺村真福寺住層照海上人開山 常陸●●と由緒(略)鉄砲洲に草庵を結び●● 慶長十年●付寺地拝領仕 同十五年●●●● 仰付候
開山 照海上人 元和二年卒
常憲院様御代●●朱印頂戴仕候 御文云写応之通
本堂
本尊 薬師如来木立像(縁起書あり)
前立薬師座像 日光月光木立像 四天王、十二神 大黒天
弘法大師木座像 興教大師木座像
不動明王 両童子
十一面観音 一言地蔵
聖天 辨財天 賓頭尊
稲荷社
地中 玉藏院
地中 長久院
本尊 観音木立像
真養院
本尊 庚申
■ 『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
摩尼珠山 真福寺
櫻川の西岸に傍びてあり 新義の真言宗にして江戸四個寺の一員 智積院の触頭なり 当寺本尊薬師如来の霊像ハ 弘法大師の作なり 慶長の頃甲州の領主浅野長政当寺中興照海上人をして自 らの等身に薬師佛の像を手刻せしめ 件の霊像をハ其胎中に籠●るといへり 毎月八日ハ縁日にして参詣多し
■ 『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
眞福寺 愛宕町一丁目八番地
新義眞言宗智山派に属し、摩尼珠山と号する。江戸時代には本宗派四役寺の随一であり、總本山智山派の觸頭として派内の公務を處辨する樞要な宗冶機関であった。今尚同本山の東京別院として同派の宗務所が置いてある。天正十九年僧照海鐵砲洲に一小庵を営み、慶長十年此地に本寺を建立した。本尊は浅野幸長等身の薬師如来である。大正大震火災の為め炎上したので、昭和六年現堂宇を再建した。境内には勝軍地蔵の銅像がある。御府内第六十七番の札所である。
「真福寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝愛宕下絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
「愛宕下 真福寺薬師堂」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[3],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836] .国立国会図書館DC(保護期間満了)
「名所江戸百景 愛宕下藪小路」/原典:江戸百景 絵師:広重出版者:魚栄 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【写真 上(左)】 愛宕神社車道(女坂)入口と真福寺
【写真 下(右)】 外観-1
最寄りはメトロ「虎ノ門ヒルズ」駅で徒歩約3分。
都営三田線「御成門」駅やメトロ銀座線「虎ノ門」駅からも歩けます。
周辺はハイグレードなオフィスやホテルが建ち並ぶ都心の一等地です。
【写真 上(左)】 外観-2
【写真 下(右)】 寺号標
すぐ右隣は愛宕神社の車道(女坂)入口で、真福寺が愛宕権現のすぐ隣にあったことがわかります。
7階建程度の瀟洒なビルですが、ビル前に寺号標があり、そこから登る階段のうえには向拝が見えるのですぐに寺院とわかります。
【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 向拝-1
【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額
向拝上に巡らされた紫色の向拝幕には真言宗智山派宗紋の「桔梗紋」が染め抜かれています。
【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 御真言
向拝正面に御本尊・薬師如来が御座される開放的な堂内です。
向拝幕の後ろに「醫王尊」の扁額が掲げられています。
御縁日には五色幕も掲げられ、より華々しい雰囲気となります。
【写真 上(左)】 寺号提灯
【写真 下(右)】 1階寺務所前
本堂下向かって左手に回り込むと、上記の旧・圓福寺から遷られた勝軍地蔵尊が御座します。
一帯は緑濃く、都心のオアシスとなっています。
【写真 上(左)】 真福寺外構と勝軍地蔵尊
【写真 下(右)】 勝軍地蔵尊
御朱印は1階の寺務所にて拝受しました。
寺務所はまさにオフィスですが、ご対応は事務的ではなくとてもご親切です。
なお、勝軍地蔵尊の御朱印は不授与とのことでした。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に薬師如来のお種子「バイ」「本尊薬師如来」「弘法大師」の揮毫と「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第六十七番」の札所印。
左に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
智山派総本山の東京別院だけあって、さすがに安定感のある御朱印です。
■ 第68番 大栄山 金剛神院 永代寺
(えいたいじ)
江東区富岡1-15-1
高野山真言宗
御本尊:歓喜天尊
札所本尊:歓喜天尊
司元別当:富岡八幡宮(永代島八幡社)
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第68番、江戸六地蔵6番目、大東京百観音霊場第37番
第68番は深川富岡の永代寺です。
第68番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに永代寺となっており、第68番札所は御府内霊場開創当初から深川富岡の永代寺であったとみられます。
下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
永代寺は、寛永四年(1627年)ないし同五年長盛上人によって永代島に遍照院と号して創建され、富岡八幡宮(永代島八幡社)の別当をつとめました。
永代島とは現在の門前仲町周辺で、中世以降の海退、埋め立てなどによって隅田川河口域に形成された六万坪強にもおよぶ砂州をいいます。
寛永四年(1627年)ないし同五年の夏、開山・長盛上人が弘法大師の夢告を受け、高野山の碩学等の僧が永代島に参集して一夏九旬の間法要を催し、弘法大師の御影堂を建立したといいます。
現地の略縁起によると長盛上人は菅原道真公の末裔で、夢のお告げにより八幡大菩薩を携えて江戸に下向とあるので、寛永四年(1627年)西国でお大師さまの夢告を受け、翌五年(1628年)東国・永代島に下向されて永代寺開山に至ったのかもしれません。
なお、夢告を受けたのは周光阿闍梨とする史料もあり、 『御府内八十八ケ所道しるべ』にも「開山 周光阿闍梨 寛文年中」とあります。
一方、富岡八幡宮公式Webの御由緒には「富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。」とあり、長盛上人が富岡八幡宮およびその別当・永代寺を開創されたとみるのが通説のようです。
※詳細は → こちら(永代寺略縁起(『寺社書上』))
ただし、『江戸名所図会』には富岡八幡宮の草祀はさらにふるく、源三位頼政公(1104-1180年)が当社八幡宮の神像を尊信し、千葉家および足利将軍尊氏公、鎌倉公方・足利基氏、関東管領・上杉家、太田道灌等の崇敬殊に厚かったとあります。
「今当社より十二町ばかり東の方 砂村の海浜に元八幡宮と称する宮居あり」とあるので、当初は砂村に御鎮座かもしれません。
「砂村の元八幡宮」とは、おそらく江東区南砂の富賀岡八幡宮をさすと思われます。
『新編武蔵風土記稿』の (砂村新田村)八幡社(富賀岡八幡宮)の項には「村ノ鎮守トス 土人云 当社地ハ富岡八幡宮ヲ始テ勧請セシ地ニテ 寛永(1624-1644年)ノ始今ノ深川ノ地ニ引移セシヨリ 彼舊地ナレハトテ 寛文五年(1665年)八幡ヲ勧請セシカハ元八幡ト唱ヘ 今ニ永代寺持ナリ サレト同寺ニテハ寛文ノ勧請ノコトノミニテ元地タリシコトハ傳ヘサレト イマ深川八幡ノ神体僧形八幡ハ弘法大師ノ作ニテ 寛永ノ始マテ郡中立石川端等ノ内ニ鎮座アリシヲ 同十年伊奈半十郎ノ臣興津角左衛門入道玄理寄附セシヨシ旧記アレハ 土人ノ説ノ如ク始此地ニ移シ祀リ 後ニ今ノ深川ノ社地草創シテ 再ヒ移セシ其舊地ナリヘシ」という意味深な記述があります。
これによると、富岡八幡宮がはじめて勧請されたのは砂村の元八幡宮(富賀岡八幡宮)で、寛永(1624-1644年)のはじめ頃にいまの深川の地に御遷座。
深川八幡の僧形の御神体は弘法大師の御作で、寛永のはじめ頃まで郡中立石川端(立石川端(いまの葛飾区東立石))等の内に御鎮座を、寛永十年(1633年)伊奈半十郎の臣・興津角左衛門入道玄理が寄附したとも。
このように富岡八幡宮の創祀沿革には諸説ありますが、ともかくも寛永五年(1628年)には深川の地に御鎮座され、別当に永代寺が就いたのは確かなようです。
『江戸名所図会』には、大和國生駒山の開基寶山師が正保三年(1646年)永代寺周光阿闍梨の法弟となり 寛文四年(1664年)の頃霊夢を感得し宮社を落成され、以降ますます栄えたとあります。
たしかに、生駒山寶山寺(生駒聖天)の公式Webには、「伊勢に生まれ、江戸永代寺に入った宝山湛海律師(一六二九~一七一六)は歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興では思わぬ所から金や資材が集まる祈祷の効験を発揮、人々を驚かせた。」とあり、永代寺との浅からぬ所縁を伝えています。
また、永代寺山内にはその旨を示す石碑も建っています。
※詳細は → こちら(寶山寺開祖行業記(『寺社書上』))
現在の永代寺の御本尊が歓喜天尊であるのも、このような所縁によるものかもしれません。
永代寺は関東五ヵ寺同等の寺格を賜り、有章院殿(徳川家継公)、有徳院殿(吉宗公)が参詣され、将軍家の祈祷も修されました。
『寺社書上』の永代寺の項には本坊のほか10院(多聞院、功徳院、吉祥院、般若院、明王院、長壽院、大勝院、海岸院、支王院、東光院)の支院が記載され、密教の一大拠点を形成していたことがわかります。
四隅の鎮守として蛭子宮(艮隅)、荒神宮(巽隅)、摩利支天宮(坤隅)、大勝金剛宮(乾隅)というすこぶる強力な尊格を奉安。
永代島はもともと低平な新開地。
河東屈指の勝地(神仏が御座されるにふさわしい霊地)と成すにはこのような強力な布陣による結界が必要だったのでしょうか。
このうち大勝金剛尊は金剛峯楼閣瑜伽瑜祇経(瑜祇経)を儀軌とする歴とした密教尊格ですが、大日如来、愛染明王、金剛菩薩などの特徴を備えられ、仏頂とも菩薩とも明王ともいわれるナゾの多い尊格で、東日本での奉安例は少ないとみられ、こちらに奉安されたのは何らかの意味合いがあったのかも。
永代寺は富岡八幡宮とともに多くの参詣者を集め、ことに毎年三月二十一日から二十八日までは弘法大師の御影供が催され、「山開き」と称して庭園も開放されてたいへんな賑わいをみせたそうです。
なお、『御府内八十八ケ所道しるべ』には以下のとおりあります。
「本尊阿弥陀如来 本社富ヶ岡八幡宮 弘法大師」
本地垂迹説では八幡神の本地佛として阿弥陀如来奉安の例が多く、八幡宮別当・永代寺の御本尊が阿弥陀如来であったのはこの例に沿ったものかもしれません。
(ただし『寺社書上』には永代寺御本尊の阿弥陀如来は夢告により感得との記載があるので、この例には当たらないかも。)
宝永三年(1706年)、深川の地蔵坊正元が発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した「江戸六地蔵」。
永代寺は第6番の札所で地蔵尊像は享保五年(1720年)に千葉街道(諸説あり)の守護佛として造立安置されました。
以降、江戸六地蔵の札所としても参詣者を集めましたが、明治初頭の廃仏毀釈の波を受けてかこちらの地蔵尊像は現存しません。
しかし、「江戸六地蔵」第6番のポジションはいまも保たれ、「江戸六地蔵」の巡拝では永代寺の参詣は欠かせないものとされて御朱印も授与されています。
永代寺、というか支院・吉祥院を語るとき外せないのが深川不動尊(成田山東京別院 深川不動堂)との関係です。
深川不動堂公式Webには、「元禄十六年(1703年)に(成田不動尊の)第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われました。(略)以来出開帳はたびたび行われ、大勢の江戸っ子が押し寄せ大いに賑わったと伝えられております。(略)明治元年(1868年)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで(略)旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されたのであります。『深川不動堂』の名のもとに堂宇が完成したのは、それから13年後の明治十四年(1881年)のことでした。」とあります。
「出開帳を行った特縁の地」は、永代寺支院の吉祥院とみられています。
広大な寺地を有した永代寺の旧地には、現在、吉祥院が継いだ永代寺(高野山真言宗)と深川不動堂(真言宗智山派)が存在しています。
富岡八幡宮の別当・永代寺は将軍家の尊崇も受けた名刹でしたが、明治初頭の神仏分離の際に一旦は廃寺となりました。
しかし支院・吉祥院の住僧覚阿坊は伽藍の取り壊し忍びがたく、永代寺法類の湯島円満寺の附属となし、これまで般若院付であった大師堂も吉祥院付とし、永代寺本坊代々の墓守と定めて存置を願い出てついに許可され、吉祥院が永代寺の名跡を継ぐこととなりました。
明治29年には吉祥院を改めて永代寺と号し、円満寺末から仁和寺直末となったといいます。(「猫のあしあと」様より)
八幡神との神仏習合色強い阿弥陀如来は御本尊として迎えにくいため、本坊および吉祥院で奉安され、従前から所縁のある歓喜天尊を御本尊とされたのでは。
永代寺再興にあたっては、当然御府内霊場札所の承継も意図されたはず。
再興時のうごきからみると、江戸時代の御府内霊場第68番札所(永代寺)の巡拝者は、すくなくとも本坊の阿弥陀如来、本社の富ヶ岡八幡宮、般若院の弘法大師堂を拝していたのではないでしょうか。
江戸時代の名刹が明治初頭の神仏分離で廃寺となり、支院・支坊がその名跡を継いだ例は永代寺のほかにもいくつかみられます。
たとえば王子神社および王子稲荷神社の別当を務め、徳川将軍家の御膳所にもなった名刹、禅夷山 金輪寺は神仏分離令もあって廃寺となりましたが、支坊(塔頭)の藤本坊が金輪寺の名跡を継いで再興しています。
富岡八幡宮別当としての永代寺の沿革は、下記の『寺社書上』を丹念に読み込んでいけば、新たなファクトも出てくるのかも知れませんが、筆者の拙い技量では到底かないません。
興味のある方はトライしてみてください↓(と、逃げる・・・(笑))
■ 『寺社書上 [96] 深川寺社書上 二 分冊ノ一/永代島八幡社』(国立国会図書館)
■ 『寺社書上 [96] 深川寺社書上 二 分冊ノ二/永代島八幡社』(国立国会図書館)
永代寺には複雑な縁起来歴が伝わり、深掘りすればまだまだ史料がみつかりそうですが、とりあえずこのくらいにしておきます。
それにしても、永代島八幡社(富岡八幡宮)と永代寺にかかわる『寺社書上』の書き様をみると、先人の記録に対する意思が伝わってきます。
どんな些末な事柄でも、書き逃すことなく何百年でも残そうという執念のようなものが感じられます。
このような貴重な史料がWebで閲覧できるとは、すごい時代になったものです。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十八番
深川仲町八幡社 門前町あり
大滎山 金剛神院 永代寺
御宝末 古義
本尊:阿弥陀如来 本社富ヶ岡八幡宮 弘法大師
開山 周光阿闍梨寛文年中
■ 『寺社書上 [98] 深川寺社書上 三 分冊ノ一』(国立国会図書館)
永代寺
別当大滎山金剛神院永代寺 称号開闢以来自坊建立将来
右別当称号之儀 寛永四年(1627年)開山以来遍照院と唱来●●
右開山長盛
本尊 阿弥陀如来木佛座像
脇士 大勢至菩薩 正観世音菩薩
八幡大菩薩 弘法大師 互相 影像
真言宗八大祖師像
大聖歓喜天 秘蔵 周光中興之弟子寶山持念し天像に●御座候
〔寺寶霊佛霊像書画幅物〕
阿彌陀三尊来迎之像
五輪種子塔●●金泥 弘法大師筆
蝋石大日如来座像
僧形八幡神影
■ 『寺社書上 [99] 深川寺社書上 三 分冊ノ二』(国立国会図書館)
【寺中幷境内に隅し鎮守堂守院号】
●多聞院
本尊 不動明王木佛座像 二童子木佛立像
金比羅権現神像
歓喜天 二軀 秘蔵ニ御座候
弘法大師木佛座像
●功徳院
本尊 不動明王木佛立像 顧行上人作
前立 同尊木佛立像 二童子木佛立像
弘法大師木佛座像
愛染明王木佛座像
稲魔法王
●吉祥院
本尊 毘沙門天木佛立像
脇士 吉祥天 善膩師童子木佛立像
大日如来木佛座像
歓喜天 秘蔵天像
十一面観音木佛立像
●般若院
右本尊次第之儀不●知
如意輪観音銅佛座像
地蔵菩薩木佛立像
弘法大師木佛座像
●明王院
本尊 千手観音木佛座像 千手観音木佛座像弘法大師作腹蔵ニ御座候
百観音 阿弥陀千躰佛 十一面観音木佛立像 阿弥陀如来木佛座像 不動明王木佛立像 地蔵大士石佛座像 焔魔法王木佛座像
●長壽院
本尊 辨財天女木佛立像 弘法大師作
脇士 毘沙門天木佛立像 運慶作 大黒天 伝教大師作 幷眷属十五童子
弘法大師木佛座像
●大勝院
本尊 大勝金剛木佛座像
●海岸院
本尊 大荒神木佛立像
●支王院
本尊 摩利支天木躰立像
●東光院
神躰 蛭子太神●木躰座像
同前立 木躰座像
同相殿 立像木躰
●正元稲荷社
本地佛 十一面観音木佛立像
■ 『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
富岡八幡宮
深川永代島にあり 別当は真言宗にして大栄山金剛神院永代寺と号す 江戸名所記に寛永五年の夏弘法大師の霊示あるにより 高野山の両門主碩学其外東国一●の●僧此永代嶋に集合し一夏九旬の間法彼あり 別に弘法大師の御影堂を建て真言三密の秘さくを講す(略)
本社 祭神 應神天皇(神影ハ菅神(菅原道真公)作) 相殿 右天照大神宮、左八幡大明神 三座
相傳 往古源三位頼政当社八幡宮の神像を尊信す 其後千葉家及び足利将軍尊氏公 鎌倉の公方基氏 又管領上杉等の家々に伝へ 太田道灌崇敬ことに厚かりしか 道灌没するののちハ 神像の所在も定かならさりしに 寛永年間(1624-1644年)長盛法印霊示によりて感得す 今当社より十二町ばかり東の方 砂村の海濱に元八幡宮と称する宮居あり 当社の旧地といふ 依此地に当社を創建すといへとも いまだ華構の飾におよハす 唯茅茨の営みをなすのみ 然るに大和国生駒山の開基宝山師 正保三年(1646年)永代寺周光阿闍梨の法弟となり 寛文四年(1664年)の頃霊夢を感じ宮社を経営す 日あらすして落成し結構備ハる 志しありしより以降 神光日々に新たにして河東第一の宮居となれり
当社四隅鎮守 艮隅 蛭子宮 巽隅 荒神宮 坤隅 摩利支天宮 乾隅 大勝金剛宮
■ 『新編武蔵風土記稿 巻之25』(国立国会図書館)
(砂村新田村)八幡社(富賀岡八幡宮)
村ノ鎮守トス 土人云 当社地ハ富岡八幡宮ヲ始テ勧請セシ地ニテ 寛永(1624-1644年)ノ始今ノ深川ノ地ニ引移セシヨリ 彼舊地ナレハトテ、寛文五年(1665年)八幡ヲ勧請セシカハ元八幡ト唱ヘ 今ニ永代寺持ナリ サレト同寺ニテハ寛文ノ勧請ノコトノミニテ元地タリシコトハ傳ヘサレト イマ深川八幡ノ神体僧形八幡ハ弘法大師ノ作ニテ 寛永ノ始マテ郡中立石川端等ノ内ニ鎮座アリシヲ 同十年伊奈半十郎ノ臣興津角左衛門入道玄理寄附セシヨシ旧記アレハ 土人ノ説ノ如ク始此地ニ移シ祀リ 後ニ今ノ深川ノ社地草創シテ 再ヒ移セシ其舊地ナリヘシ
「永代寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
「永代寺山開」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[18],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【写真 上(左)】 仲見世
【写真 下(右)】 仲見世の提灯
最寄りはメトロ東西線・都営大江戸線「門前仲町」駅。
東西線千葉寄りの1番出口が至近です。
駅を出るといきなり仲見世で、周囲はすでに門前町の趣。
【写真 上(左)】 永代寺門前から不動堂
【写真 下(右)】 外観-1
ここから右手おくの正面が深川不動尊で、そちら方向に歩いてすぐ右手。
間口はさほどではないもののさすがに名刹、本堂上に楼閣を設えて独特のオーラを放っています。
【写真 上(左)】 外観-2
【写真 下(右)】 門柱の寺号標
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 花手水
切妻屋根銅板葺の山門柱に寺号標。その手前に御府内霊場の札所標。
正面が本堂。
入母屋造桟瓦葺一部楼閣付きで、桁行三間の大がかりな向拝を配し、紫色の向拝幕が華やか。堂前は常に線香の煙がなびいています。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
向拝小壁中央に寺号扁額、向かって右手には奉納額が掲げられ、向拝柱には札所板も。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 奉納額
本堂向かって左手には子育・取持地蔵尊のお堂。こちらも広く信仰を集めているようです。
【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 地蔵堂扁額
参拝の折は堂内にあげていただけます。
ほの暗い堂内には歓喜天尊霊場特有の厳粛な空気が流れ、物見遊山で訪れる場ではないと思います。
御朱印は堂内にて拝受しました。
【写真 上(左)】 御府内霊場札所板
【写真 下(右)】 深川不動堂
現地掲示の旧配置図によると、永代寺本堂は現在の深川公園のグラウンドあたりで、永代寺跡の石碑が建っています。
■ 永代寺跡の石碑
■ 旧配置図
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「歓喜天尊」「弘法大師」の揮毫、歓喜天尊のお種子「ギャク」の御寶印(巾着)と弘法大師のお種子「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「御府内第六十八番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 江戸六地蔵の御朱印
■ 第69番 龍臥山 明王寺 宝生院
(ほうしょういん)
港区三田4-1-29
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第69番、江戸六地蔵6番目、御府内二十八不動霊場第22番
第69番はふたたび三田に戻って宝生院です。
第69番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに寶生院となっており、第69番札所は御府内霊場開創当初から三田寺町の宝生院であったとみられます。
下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
宝生院は慶長十六年(1611年)いまの八丁堀に創建し、寛永十二年(1635年)現在地(三田寺町)に移ったといいます。
中興開山は法印重昌(寶永四年(1707年)寂)。
御本尊は大日如来。
本堂内に弘法大師木座像、興教大師木座像、三尊阿弥陀如来木佛立像を奉安と伝わります。
不動堂には海中出現と伝わる(波切)不動尊を奉安。
御前立の不動尊木立像は興教大師の御作ともいいます。
相殿に奉安の地蔵尊石佛立像は弘法大師が伊豆にて彫刻された尊像といい、「伊豆石最初之尊像」とも伝わります。
辨財天像も弘法大師所縁の尊像と伝わります。
『ルートガイド』によると、明治8年境内に青山学院の前身となる寺子屋式の学校が開設されたそうです。
また、江戸末期から明治中期の名力士・陣幕久五郎の菩提寺とも伝わり、山内には大関昇進と横綱昇進の記念碑が建っています。
宝生院は史料が少なく、この程度しか掘り下げられませんでした。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十九番
芝三田寺町
龍臥山 明王寺 宝生院
愛宕圓福寺末 新義
本尊:金剛界大日如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.110』
三田寺町
愛宕圓福寺末 新義真言宗
龍臥山寶生院明王寺
開闢起立之年代 開山開基等●●分不申候
慶長十六年(1611年)八町堀に寺地拝領仕
寛永十二年(1635年)右寺召上げ当所(三田寺町)に替地拝領仕候
中興開山 法印重昌 寶永四年(1707年)寂
本堂
本尊 大日如来木座像
弘法大師木座像
興教大師同前(木座像)
三尊阿弥陀如来木佛立像
不動堂
不動尊金佛立像 海中出現 前立不動尊木立像 興教大師作ト云
相殿
地蔵尊石佛立像 宗祖弘法大師豆州住●之砌 ●●伊豆山石切開此尊像彫刻●●申仕候 右伊豆石最初之尊像也ト申傳
毘沙門天木立像 辨財天木座像
辨財天 宗祖弘法大師江ノ島ニ於テ護摩修行之砌 右護摩之灰ヲ以テ作之萩原伊左衛門ト申者夢想感得之尊像ト申傳
宇賀神木古像
■ 『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
寳生院 三田北寺町十三番地
新義眞言宗愛宕圓福寺派で、龍臥山明王寺と号する。慶長十六年(1611年)今の八丁堀に創建し、寛永十二年(1635年)此地に移った。開山不詳。寺内に波切不動がある。御府内第六十九番札所に該当する。
「宝生院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営三田線「三田」駅で徒歩約10分。
国道1号に面していますが、ビルではなく本堂は単層、庫裡は二層です。
街路からやや引き込んだ門柱に院号標。
山内は意外に広く、すっきりとしています。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標
山内向かって右に土蔵造りの建物、左手に院号扁額を掲げた建物があります。
扁額を掲げた建物が本堂、土蔵が収蔵庫のようにもみえますが、土蔵造りの建物が本堂です。
【写真 上(左)】 本堂と庫裡(手前)
【写真 下(右)】 本堂
本堂はおそらく寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に梵字付きの蟇股を置いています。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額
向拝扉がうすく開けられ、御本尊・大日如来の御像は確認できました。
『ルートガイド』によると本堂内には御本尊大日如来、弘法大師像、興教大師像を奉安されているようです。
【写真 上(左)】 弘法大師碑
【写真 下(右)】 陣幕の記念碑
上記の陣幕の記念碑は山内右手に、弘法大師碑とともにありました。
御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に金剛界大日如来のお種子「バン」「大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫、「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「第六十九番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-23)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ Miss You - 今井美樹
■ Roka - 遊佐未森
■ One Reason - milet
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第67番 摩尼珠山 宝光院 真福寺
(しんぷくじ)
公式Web
港区愛宕1-3-8
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第67番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所(第23番)、江戸地蔵菩薩霊場三十六ヶ所(第23番/一言地蔵尊)、江戸西方三十三観音霊場第4番(真福寺内長久寺)、弁財天百社参り第7番(真福寺本道)、弁財天百社参り第8番(真福寺弁天堂)、大東京百観音霊場 特番4
第67番は愛宕の真福寺です。
第67番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに真福寺となっており、第67番札所は御府内霊場開創当初から愛宕の真福寺であったとみられます。
公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
真福寺は、天正十九年(1591年)照海上人が鐵砲洲に小庵を営み、慶長十年(1605年)徳川家康公より愛宕下に土地を賜り開創されました。
新義真言宗江戸四箇寺のひとつで、智積院の触頭でした。
御本尊は弘法大師御作の薬師如来像で、浅野幸長は等身の薬師如来を造立し、弘法大師御作の薬師如来像をその胎内に安置したとも伝わります。
江戸時代は「愛宕のお薬師さん」として庶民に親しまれ、毎月8日のご縁日には門前市を成す賑わいをみせたそうです。
明治初頭の神仏分離の波は乗り越えたものの、大正の大震災で焼失。
昭和6年現堂宇を再建、平成7年に近代的な『真福寺・愛宕東洋ビル』として再生されています。
現在も、真言宗智山派総本山・智積院の東京別院として智山教化を担われています。
山内には勝軍地蔵尊銅像があります。
この勝軍地蔵尊は廃寺となった圓福寺ゆかりの尊像と伝わります。
圓福寺は江戸時代、御府内霊場第19番の札所であった可能性があります。
詳細は第19番青蓮寺で記していますが、圓福寺は真福寺同様、新義真言宗江戸四箇寺のひとつでもあるので、要旨を抜粋して再掲します。
江戸期の真言宗には「江戸四箇寺触頭」という制度があり、これにより本末関係が精緻に整えられていました。
『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏/PDF)によると、発足当初の「江戸四箇寺触頭」はつぎの4箇寺です。
・知足院(江戸白銀町)
→ 関連資料
・真福寺(愛宕下)
・円(圓)福寺(愛宕下)
・弥勒寺(本所)
智積院公式Webには「貞享4年(1687)七月に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、代わりに根生院が任じられます。以後、明治までは変化はありません(円福寺は明治二年に廃仏毀釈により廃寺)。」とあるので、貞享四年(1687年)以降は真福寺(67)、圓福寺(19)、弥勒寺(46)、根生院(35)の四箇寺体制となっています。
( )内は御府内霊場の札番で、これをみても御府内霊場が真言宗の名刹をおおむねカバーしていたことがわかります。
また、『宝瞳寺文書解題』(国文学研究資料館/PDF)にも「江戸四箇寺触頭」の役割が詳細に記されています。
圓福寺は「江戸四箇寺触頭」を勤められ、御府内にいくつもの末寺をもつ御府内有数の名刹でした。
これほどの名刹がどうして明治の廃仏毀釈でいともあっさり(?)と廃絶してしまったのでしょうか。
(実際、触頭4箇寺のうち他の3箇寺は現存しています。)
どうにも気になったので、まずはここから調べてみました。
真福寺の勝軍地蔵尊の説明書には以下のとおりあります。
「この勝軍地蔵菩薩は、天平十年(738年)行基が近江信楽遊行の砌、造顕したもので、同地に安置され、霊験あらたかなり。天正十年(1582年)徳川家康、本能寺の変の難を逃れんがため伊賀越に際し、信楽の土豪多羅尾氏、当勝軍地蔵を献上、沙門神証これを護持し、三河に帰還するをえたり。爾来、家康の帰依厚し。慶長八年(1603年)家康、征夷大将軍に栄進するにより、江戸に愛宕神社を創建し、同社の本地仏として勧請、神証を別当の円福寺第一世とせり。明治の廃仏毀釈で円福寺は廃寺、尊像は真福寺に移されたが、大正十二年 (1923年)関東大震災で焼失、昭和九年(1934年)弘法大師一千百年御遠忌記念として、霊験を不朽にせんがため、銅製で造顕せり。」
一方、愛宕神社の公式Webには配祀として将軍地蔵尊が明記され、愛宕権現(神社)にとって将軍(勝軍)地蔵尊がいかに重要な尊格であるかがわかります。
以上から、圓福寺は愛宕権現の別当の色彩がすこぶる濃厚だったとみられます。
この点は、全国の愛宕神社の総本社とされる愛宕神社(京都市右京区嵯峨愛宕町)と、その別当・白雲寺との関係とよく似ています。
中世~江戸期の愛宕権現社の多くは、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られたといいます。
神仏習合のもと修験道の道場として栄えたこともあり、別当の勢力はたいへん強かったとみられます。
この強大な立場が明治の廃仏毀釈で裏目に出て、愛宕権現の別当・圓福寺は存続の危機に見舞われたのでは。
実際、京都の愛宕神社総本社の別当・白雲寺は廃仏毀釈で廃絶となっています。
総本社の別当・白雲寺が廃絶となった以上、東都の愛宕権現の別当・圓福寺も、たとえ「江戸四箇寺触頭」の格式があったとしても廃絶を遁れられなかったのでは?
ちなみに『寺社書上』の圓福寺の項には「従是愛宕山上之分」として以下のとおりあります。
□「(圓福寺)従是愛宕山上之分」(諸佛のみ抜粋引用)
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【史料】
■ 『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上』(国立国会図書館)
愛宕大権現御神● 秘像
御前立 勝軍地蔵尊
脇立 不動明王 毘沙門天
本地堂 脇坊金剛院持
朝日愛染明王
太郎坊北之方
唐●地蔵尊 勝軍地蔵尊 地蔵尊 石地蔵尊
女坂
勝軍地蔵尊
男坂上り口
役行者堂
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これをみると江戸期の愛宕権現が諸佛に満ち、神仏習合していたことがよくわかります。
本地堂の別当は金剛院(圓福寺地内末寺)とあるので、愛宕権現全体の別当が圓福寺、本地堂の別当が金剛院という二重構造だったのかもしれません。
なお、『江戸名所図会』の愛宕社總門の絵図をみると、男坂の右手に本地堂、左手に別当(おそらく圓福寺)がみえ、本地・別当系の諸堂は坂下にあったことがわかります。
ここから「出世の石段」を登って参拝する愛宕権現は海抜26mという都内随一の高みにあり、ここからの見晴らしと桜花のすばらしさは御府内有数と称えられ、ほおずき市や羽子板市も賑わいをみせて江戸の図絵類に描かれています。
■『江戸名所図会』 7巻 (須原屋茂兵衛[ほか])/愛宕社總門
(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載 → 出所 )
~ 伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり ~ (愛宕神社御由緒書より)
【写真 上(左)】 愛宕神社社頭
【写真 下(右)】 出世の石段
【写真 上(左)】 愛宕神社拝殿
【写真 下(右)】 愛宕神社の御朱印
真福寺勝軍地蔵尊の説明文のとおり、圓福寺が廃寺となったとき、御本尊の(勝軍)地蔵菩薩は愛宕の真福寺に遷られました。
このとき真福寺はすでに御府内霊場第67番の札所だったので、重番を避けるため御府内霊場第19番は浅草の清光院に承継されたとみられます。
江戸時代の真福寺と圓福寺の関係はよくわかりませんが、真福寺は智積院の触頭としての性格、圓福寺は愛宕権現別当としての性格が強く、それぞれ棲み分けしていたのではないでしょうか。
いずれにしても、真言宗「江戸四箇寺触頭」のうち2箇寺までが愛宕に位置しており、この地が江戸の真言宗にとって特別な地であったことがうかがえます。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十七番
あたご下
摩尼珠山 宝持院 真福寺
院家智積院方
本尊:薬師如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.71』
愛宕下
山城国三寶院末 新義真言宗
摩尼珠山宝光院真福寺
天正十九年下総国匝瑳郡谷辺村真福寺住層照海上人開山 常陸●●と由緒(略)鉄砲洲に草庵を結び●● 慶長十年●付寺地拝領仕 同十五年●●●● 仰付候
開山 照海上人 元和二年卒
常憲院様御代●●朱印頂戴仕候 御文云写応之通
本堂
本尊 薬師如来木立像(縁起書あり)
前立薬師座像 日光月光木立像 四天王、十二神 大黒天
弘法大師木座像 興教大師木座像
不動明王 両童子
十一面観音 一言地蔵
聖天 辨財天 賓頭尊
稲荷社
地中 玉藏院
地中 長久院
本尊 観音木立像
真養院
本尊 庚申
■ 『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
摩尼珠山 真福寺
櫻川の西岸に傍びてあり 新義の真言宗にして江戸四個寺の一員 智積院の触頭なり 当寺本尊薬師如来の霊像ハ 弘法大師の作なり 慶長の頃甲州の領主浅野長政当寺中興照海上人をして自 らの等身に薬師佛の像を手刻せしめ 件の霊像をハ其胎中に籠●るといへり 毎月八日ハ縁日にして参詣多し
■ 『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
眞福寺 愛宕町一丁目八番地
新義眞言宗智山派に属し、摩尼珠山と号する。江戸時代には本宗派四役寺の随一であり、總本山智山派の觸頭として派内の公務を處辨する樞要な宗冶機関であった。今尚同本山の東京別院として同派の宗務所が置いてある。天正十九年僧照海鐵砲洲に一小庵を営み、慶長十年此地に本寺を建立した。本尊は浅野幸長等身の薬師如来である。大正大震火災の為め炎上したので、昭和六年現堂宇を再建した。境内には勝軍地蔵の銅像がある。御府内第六十七番の札所である。
「真福寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝愛宕下絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
「愛宕下 真福寺薬師堂」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[3],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836] .国立国会図書館DC(保護期間満了)
「名所江戸百景 愛宕下藪小路」/原典:江戸百景 絵師:広重出版者:魚栄 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【写真 上(左)】 愛宕神社車道(女坂)入口と真福寺
【写真 下(右)】 外観-1
最寄りはメトロ「虎ノ門ヒルズ」駅で徒歩約3分。
都営三田線「御成門」駅やメトロ銀座線「虎ノ門」駅からも歩けます。
周辺はハイグレードなオフィスやホテルが建ち並ぶ都心の一等地です。
【写真 上(左)】 外観-2
【写真 下(右)】 寺号標
すぐ右隣は愛宕神社の車道(女坂)入口で、真福寺が愛宕権現のすぐ隣にあったことがわかります。
7階建程度の瀟洒なビルですが、ビル前に寺号標があり、そこから登る階段のうえには向拝が見えるのですぐに寺院とわかります。
【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 向拝-1
【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額
向拝上に巡らされた紫色の向拝幕には真言宗智山派宗紋の「桔梗紋」が染め抜かれています。
【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 御真言
向拝正面に御本尊・薬師如来が御座される開放的な堂内です。
向拝幕の後ろに「醫王尊」の扁額が掲げられています。
御縁日には五色幕も掲げられ、より華々しい雰囲気となります。
【写真 上(左)】 寺号提灯
【写真 下(右)】 1階寺務所前
本堂下向かって左手に回り込むと、上記の旧・圓福寺から遷られた勝軍地蔵尊が御座します。
一帯は緑濃く、都心のオアシスとなっています。
【写真 上(左)】 真福寺外構と勝軍地蔵尊
【写真 下(右)】 勝軍地蔵尊
御朱印は1階の寺務所にて拝受しました。
寺務所はまさにオフィスですが、ご対応は事務的ではなくとてもご親切です。
なお、勝軍地蔵尊の御朱印は不授与とのことでした。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に薬師如来のお種子「バイ」「本尊薬師如来」「弘法大師」の揮毫と「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第六十七番」の札所印。
左に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
智山派総本山の東京別院だけあって、さすがに安定感のある御朱印です。
■ 第68番 大栄山 金剛神院 永代寺
(えいたいじ)
江東区富岡1-15-1
高野山真言宗
御本尊:歓喜天尊
札所本尊:歓喜天尊
司元別当:富岡八幡宮(永代島八幡社)
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第68番、江戸六地蔵6番目、大東京百観音霊場第37番
第68番は深川富岡の永代寺です。
第68番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに永代寺となっており、第68番札所は御府内霊場開創当初から深川富岡の永代寺であったとみられます。
下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
永代寺は、寛永四年(1627年)ないし同五年長盛上人によって永代島に遍照院と号して創建され、富岡八幡宮(永代島八幡社)の別当をつとめました。
永代島とは現在の門前仲町周辺で、中世以降の海退、埋め立てなどによって隅田川河口域に形成された六万坪強にもおよぶ砂州をいいます。
寛永四年(1627年)ないし同五年の夏、開山・長盛上人が弘法大師の夢告を受け、高野山の碩学等の僧が永代島に参集して一夏九旬の間法要を催し、弘法大師の御影堂を建立したといいます。
現地の略縁起によると長盛上人は菅原道真公の末裔で、夢のお告げにより八幡大菩薩を携えて江戸に下向とあるので、寛永四年(1627年)西国でお大師さまの夢告を受け、翌五年(1628年)東国・永代島に下向されて永代寺開山に至ったのかもしれません。
なお、夢告を受けたのは周光阿闍梨とする史料もあり、 『御府内八十八ケ所道しるべ』にも「開山 周光阿闍梨 寛文年中」とあります。
一方、富岡八幡宮公式Webの御由緒には「富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。」とあり、長盛上人が富岡八幡宮およびその別当・永代寺を開創されたとみるのが通説のようです。
※詳細は → こちら(永代寺略縁起(『寺社書上』))
ただし、『江戸名所図会』には富岡八幡宮の草祀はさらにふるく、源三位頼政公(1104-1180年)が当社八幡宮の神像を尊信し、千葉家および足利将軍尊氏公、鎌倉公方・足利基氏、関東管領・上杉家、太田道灌等の崇敬殊に厚かったとあります。
「今当社より十二町ばかり東の方 砂村の海浜に元八幡宮と称する宮居あり」とあるので、当初は砂村に御鎮座かもしれません。
「砂村の元八幡宮」とは、おそらく江東区南砂の富賀岡八幡宮をさすと思われます。
『新編武蔵風土記稿』の (砂村新田村)八幡社(富賀岡八幡宮)の項には「村ノ鎮守トス 土人云 当社地ハ富岡八幡宮ヲ始テ勧請セシ地ニテ 寛永(1624-1644年)ノ始今ノ深川ノ地ニ引移セシヨリ 彼舊地ナレハトテ 寛文五年(1665年)八幡ヲ勧請セシカハ元八幡ト唱ヘ 今ニ永代寺持ナリ サレト同寺ニテハ寛文ノ勧請ノコトノミニテ元地タリシコトハ傳ヘサレト イマ深川八幡ノ神体僧形八幡ハ弘法大師ノ作ニテ 寛永ノ始マテ郡中立石川端等ノ内ニ鎮座アリシヲ 同十年伊奈半十郎ノ臣興津角左衛門入道玄理寄附セシヨシ旧記アレハ 土人ノ説ノ如ク始此地ニ移シ祀リ 後ニ今ノ深川ノ社地草創シテ 再ヒ移セシ其舊地ナリヘシ」という意味深な記述があります。
これによると、富岡八幡宮がはじめて勧請されたのは砂村の元八幡宮(富賀岡八幡宮)で、寛永(1624-1644年)のはじめ頃にいまの深川の地に御遷座。
深川八幡の僧形の御神体は弘法大師の御作で、寛永のはじめ頃まで郡中立石川端(立石川端(いまの葛飾区東立石))等の内に御鎮座を、寛永十年(1633年)伊奈半十郎の臣・興津角左衛門入道玄理が寄附したとも。
このように富岡八幡宮の創祀沿革には諸説ありますが、ともかくも寛永五年(1628年)には深川の地に御鎮座され、別当に永代寺が就いたのは確かなようです。
『江戸名所図会』には、大和國生駒山の開基寶山師が正保三年(1646年)永代寺周光阿闍梨の法弟となり 寛文四年(1664年)の頃霊夢を感得し宮社を落成され、以降ますます栄えたとあります。
たしかに、生駒山寶山寺(生駒聖天)の公式Webには、「伊勢に生まれ、江戸永代寺に入った宝山湛海律師(一六二九~一七一六)は歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興では思わぬ所から金や資材が集まる祈祷の効験を発揮、人々を驚かせた。」とあり、永代寺との浅からぬ所縁を伝えています。
また、永代寺山内にはその旨を示す石碑も建っています。
※詳細は → こちら(寶山寺開祖行業記(『寺社書上』))
現在の永代寺の御本尊が歓喜天尊であるのも、このような所縁によるものかもしれません。
永代寺は関東五ヵ寺同等の寺格を賜り、有章院殿(徳川家継公)、有徳院殿(吉宗公)が参詣され、将軍家の祈祷も修されました。
『寺社書上』の永代寺の項には本坊のほか10院(多聞院、功徳院、吉祥院、般若院、明王院、長壽院、大勝院、海岸院、支王院、東光院)の支院が記載され、密教の一大拠点を形成していたことがわかります。
四隅の鎮守として蛭子宮(艮隅)、荒神宮(巽隅)、摩利支天宮(坤隅)、大勝金剛宮(乾隅)というすこぶる強力な尊格を奉安。
永代島はもともと低平な新開地。
河東屈指の勝地(神仏が御座されるにふさわしい霊地)と成すにはこのような強力な布陣による結界が必要だったのでしょうか。
このうち大勝金剛尊は金剛峯楼閣瑜伽瑜祇経(瑜祇経)を儀軌とする歴とした密教尊格ですが、大日如来、愛染明王、金剛菩薩などの特徴を備えられ、仏頂とも菩薩とも明王ともいわれるナゾの多い尊格で、東日本での奉安例は少ないとみられ、こちらに奉安されたのは何らかの意味合いがあったのかも。
永代寺は富岡八幡宮とともに多くの参詣者を集め、ことに毎年三月二十一日から二十八日までは弘法大師の御影供が催され、「山開き」と称して庭園も開放されてたいへんな賑わいをみせたそうです。
なお、『御府内八十八ケ所道しるべ』には以下のとおりあります。
「本尊阿弥陀如来 本社富ヶ岡八幡宮 弘法大師」
本地垂迹説では八幡神の本地佛として阿弥陀如来奉安の例が多く、八幡宮別当・永代寺の御本尊が阿弥陀如来であったのはこの例に沿ったものかもしれません。
(ただし『寺社書上』には永代寺御本尊の阿弥陀如来は夢告により感得との記載があるので、この例には当たらないかも。)
宝永三年(1706年)、深川の地蔵坊正元が発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した「江戸六地蔵」。
永代寺は第6番の札所で地蔵尊像は享保五年(1720年)に千葉街道(諸説あり)の守護佛として造立安置されました。
以降、江戸六地蔵の札所としても参詣者を集めましたが、明治初頭の廃仏毀釈の波を受けてかこちらの地蔵尊像は現存しません。
しかし、「江戸六地蔵」第6番のポジションはいまも保たれ、「江戸六地蔵」の巡拝では永代寺の参詣は欠かせないものとされて御朱印も授与されています。
永代寺、というか支院・吉祥院を語るとき外せないのが深川不動尊(成田山東京別院 深川不動堂)との関係です。
深川不動堂公式Webには、「元禄十六年(1703年)に(成田不動尊の)第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われました。(略)以来出開帳はたびたび行われ、大勢の江戸っ子が押し寄せ大いに賑わったと伝えられております。(略)明治元年(1868年)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで(略)旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されたのであります。『深川不動堂』の名のもとに堂宇が完成したのは、それから13年後の明治十四年(1881年)のことでした。」とあります。
「出開帳を行った特縁の地」は、永代寺支院の吉祥院とみられています。
広大な寺地を有した永代寺の旧地には、現在、吉祥院が継いだ永代寺(高野山真言宗)と深川不動堂(真言宗智山派)が存在しています。
富岡八幡宮の別当・永代寺は将軍家の尊崇も受けた名刹でしたが、明治初頭の神仏分離の際に一旦は廃寺となりました。
しかし支院・吉祥院の住僧覚阿坊は伽藍の取り壊し忍びがたく、永代寺法類の湯島円満寺の附属となし、これまで般若院付であった大師堂も吉祥院付とし、永代寺本坊代々の墓守と定めて存置を願い出てついに許可され、吉祥院が永代寺の名跡を継ぐこととなりました。
明治29年には吉祥院を改めて永代寺と号し、円満寺末から仁和寺直末となったといいます。(「猫のあしあと」様より)
八幡神との神仏習合色強い阿弥陀如来は御本尊として迎えにくいため、本坊および吉祥院で奉安され、従前から所縁のある歓喜天尊を御本尊とされたのでは。
永代寺再興にあたっては、当然御府内霊場札所の承継も意図されたはず。
再興時のうごきからみると、江戸時代の御府内霊場第68番札所(永代寺)の巡拝者は、すくなくとも本坊の阿弥陀如来、本社の富ヶ岡八幡宮、般若院の弘法大師堂を拝していたのではないでしょうか。
江戸時代の名刹が明治初頭の神仏分離で廃寺となり、支院・支坊がその名跡を継いだ例は永代寺のほかにもいくつかみられます。
たとえば王子神社および王子稲荷神社の別当を務め、徳川将軍家の御膳所にもなった名刹、禅夷山 金輪寺は神仏分離令もあって廃寺となりましたが、支坊(塔頭)の藤本坊が金輪寺の名跡を継いで再興しています。
富岡八幡宮別当としての永代寺の沿革は、下記の『寺社書上』を丹念に読み込んでいけば、新たなファクトも出てくるのかも知れませんが、筆者の拙い技量では到底かないません。
興味のある方はトライしてみてください↓(と、逃げる・・・(笑))
■ 『寺社書上 [96] 深川寺社書上 二 分冊ノ一/永代島八幡社』(国立国会図書館)
■ 『寺社書上 [96] 深川寺社書上 二 分冊ノ二/永代島八幡社』(国立国会図書館)
永代寺には複雑な縁起来歴が伝わり、深掘りすればまだまだ史料がみつかりそうですが、とりあえずこのくらいにしておきます。
それにしても、永代島八幡社(富岡八幡宮)と永代寺にかかわる『寺社書上』の書き様をみると、先人の記録に対する意思が伝わってきます。
どんな些末な事柄でも、書き逃すことなく何百年でも残そうという執念のようなものが感じられます。
このような貴重な史料がWebで閲覧できるとは、すごい時代になったものです。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十八番
深川仲町八幡社 門前町あり
大滎山 金剛神院 永代寺
御宝末 古義
本尊:阿弥陀如来 本社富ヶ岡八幡宮 弘法大師
開山 周光阿闍梨寛文年中
■ 『寺社書上 [98] 深川寺社書上 三 分冊ノ一』(国立国会図書館)
永代寺
別当大滎山金剛神院永代寺 称号開闢以来自坊建立将来
右別当称号之儀 寛永四年(1627年)開山以来遍照院と唱来●●
右開山長盛
本尊 阿弥陀如来木佛座像
脇士 大勢至菩薩 正観世音菩薩
八幡大菩薩 弘法大師 互相 影像
真言宗八大祖師像
大聖歓喜天 秘蔵 周光中興之弟子寶山持念し天像に●御座候
〔寺寶霊佛霊像書画幅物〕
阿彌陀三尊来迎之像
五輪種子塔●●金泥 弘法大師筆
蝋石大日如来座像
僧形八幡神影
■ 『寺社書上 [99] 深川寺社書上 三 分冊ノ二』(国立国会図書館)
【寺中幷境内に隅し鎮守堂守院号】
●多聞院
本尊 不動明王木佛座像 二童子木佛立像
金比羅権現神像
歓喜天 二軀 秘蔵ニ御座候
弘法大師木佛座像
●功徳院
本尊 不動明王木佛立像 顧行上人作
前立 同尊木佛立像 二童子木佛立像
弘法大師木佛座像
愛染明王木佛座像
稲魔法王
●吉祥院
本尊 毘沙門天木佛立像
脇士 吉祥天 善膩師童子木佛立像
大日如来木佛座像
歓喜天 秘蔵天像
十一面観音木佛立像
●般若院
右本尊次第之儀不●知
如意輪観音銅佛座像
地蔵菩薩木佛立像
弘法大師木佛座像
●明王院
本尊 千手観音木佛座像 千手観音木佛座像弘法大師作腹蔵ニ御座候
百観音 阿弥陀千躰佛 十一面観音木佛立像 阿弥陀如来木佛座像 不動明王木佛立像 地蔵大士石佛座像 焔魔法王木佛座像
●長壽院
本尊 辨財天女木佛立像 弘法大師作
脇士 毘沙門天木佛立像 運慶作 大黒天 伝教大師作 幷眷属十五童子
弘法大師木佛座像
●大勝院
本尊 大勝金剛木佛座像
●海岸院
本尊 大荒神木佛立像
●支王院
本尊 摩利支天木躰立像
●東光院
神躰 蛭子太神●木躰座像
同前立 木躰座像
同相殿 立像木躰
●正元稲荷社
本地佛 十一面観音木佛立像
■ 『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
富岡八幡宮
深川永代島にあり 別当は真言宗にして大栄山金剛神院永代寺と号す 江戸名所記に寛永五年の夏弘法大師の霊示あるにより 高野山の両門主碩学其外東国一●の●僧此永代嶋に集合し一夏九旬の間法彼あり 別に弘法大師の御影堂を建て真言三密の秘さくを講す(略)
本社 祭神 應神天皇(神影ハ菅神(菅原道真公)作) 相殿 右天照大神宮、左八幡大明神 三座
相傳 往古源三位頼政当社八幡宮の神像を尊信す 其後千葉家及び足利将軍尊氏公 鎌倉の公方基氏 又管領上杉等の家々に伝へ 太田道灌崇敬ことに厚かりしか 道灌没するののちハ 神像の所在も定かならさりしに 寛永年間(1624-1644年)長盛法印霊示によりて感得す 今当社より十二町ばかり東の方 砂村の海濱に元八幡宮と称する宮居あり 当社の旧地といふ 依此地に当社を創建すといへとも いまだ華構の飾におよハす 唯茅茨の営みをなすのみ 然るに大和国生駒山の開基宝山師 正保三年(1646年)永代寺周光阿闍梨の法弟となり 寛文四年(1664年)の頃霊夢を感じ宮社を経営す 日あらすして落成し結構備ハる 志しありしより以降 神光日々に新たにして河東第一の宮居となれり
当社四隅鎮守 艮隅 蛭子宮 巽隅 荒神宮 坤隅 摩利支天宮 乾隅 大勝金剛宮
■ 『新編武蔵風土記稿 巻之25』(国立国会図書館)
(砂村新田村)八幡社(富賀岡八幡宮)
村ノ鎮守トス 土人云 当社地ハ富岡八幡宮ヲ始テ勧請セシ地ニテ 寛永(1624-1644年)ノ始今ノ深川ノ地ニ引移セシヨリ 彼舊地ナレハトテ、寛文五年(1665年)八幡ヲ勧請セシカハ元八幡ト唱ヘ 今ニ永代寺持ナリ サレト同寺ニテハ寛文ノ勧請ノコトノミニテ元地タリシコトハ傳ヘサレト イマ深川八幡ノ神体僧形八幡ハ弘法大師ノ作ニテ 寛永ノ始マテ郡中立石川端等ノ内ニ鎮座アリシヲ 同十年伊奈半十郎ノ臣興津角左衛門入道玄理寄附セシヨシ旧記アレハ 土人ノ説ノ如ク始此地ニ移シ祀リ 後ニ今ノ深川ノ社地草創シテ 再ヒ移セシ其舊地ナリヘシ
「永代寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
「永代寺山開」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[18],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【写真 上(左)】 仲見世
【写真 下(右)】 仲見世の提灯
最寄りはメトロ東西線・都営大江戸線「門前仲町」駅。
東西線千葉寄りの1番出口が至近です。
駅を出るといきなり仲見世で、周囲はすでに門前町の趣。
【写真 上(左)】 永代寺門前から不動堂
【写真 下(右)】 外観-1
ここから右手おくの正面が深川不動尊で、そちら方向に歩いてすぐ右手。
間口はさほどではないもののさすがに名刹、本堂上に楼閣を設えて独特のオーラを放っています。
【写真 上(左)】 外観-2
【写真 下(右)】 門柱の寺号標
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 花手水
切妻屋根銅板葺の山門柱に寺号標。その手前に御府内霊場の札所標。
正面が本堂。
入母屋造桟瓦葺一部楼閣付きで、桁行三間の大がかりな向拝を配し、紫色の向拝幕が華やか。堂前は常に線香の煙がなびいています。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
向拝小壁中央に寺号扁額、向かって右手には奉納額が掲げられ、向拝柱には札所板も。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 奉納額
本堂向かって左手には子育・取持地蔵尊のお堂。こちらも広く信仰を集めているようです。
【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 地蔵堂扁額
参拝の折は堂内にあげていただけます。
ほの暗い堂内には歓喜天尊霊場特有の厳粛な空気が流れ、物見遊山で訪れる場ではないと思います。
御朱印は堂内にて拝受しました。
【写真 上(左)】 御府内霊場札所板
【写真 下(右)】 深川不動堂
現地掲示の旧配置図によると、永代寺本堂は現在の深川公園のグラウンドあたりで、永代寺跡の石碑が建っています。
■ 永代寺跡の石碑
■ 旧配置図
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「歓喜天尊」「弘法大師」の揮毫、歓喜天尊のお種子「ギャク」の御寶印(巾着)と弘法大師のお種子「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「御府内第六十八番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 江戸六地蔵の御朱印
■ 第69番 龍臥山 明王寺 宝生院
(ほうしょういん)
港区三田4-1-29
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第69番、江戸六地蔵6番目、御府内二十八不動霊場第22番
第69番はふたたび三田に戻って宝生院です。
第69番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに寶生院となっており、第69番札所は御府内霊場開創当初から三田寺町の宝生院であったとみられます。
下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
宝生院は慶長十六年(1611年)いまの八丁堀に創建し、寛永十二年(1635年)現在地(三田寺町)に移ったといいます。
中興開山は法印重昌(寶永四年(1707年)寂)。
御本尊は大日如来。
本堂内に弘法大師木座像、興教大師木座像、三尊阿弥陀如来木佛立像を奉安と伝わります。
不動堂には海中出現と伝わる(波切)不動尊を奉安。
御前立の不動尊木立像は興教大師の御作ともいいます。
相殿に奉安の地蔵尊石佛立像は弘法大師が伊豆にて彫刻された尊像といい、「伊豆石最初之尊像」とも伝わります。
辨財天像も弘法大師所縁の尊像と伝わります。
『ルートガイド』によると、明治8年境内に青山学院の前身となる寺子屋式の学校が開設されたそうです。
また、江戸末期から明治中期の名力士・陣幕久五郎の菩提寺とも伝わり、山内には大関昇進と横綱昇進の記念碑が建っています。
宝生院は史料が少なく、この程度しか掘り下げられませんでした。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十九番
芝三田寺町
龍臥山 明王寺 宝生院
愛宕圓福寺末 新義
本尊:金剛界大日如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.110』
三田寺町
愛宕圓福寺末 新義真言宗
龍臥山寶生院明王寺
開闢起立之年代 開山開基等●●分不申候
慶長十六年(1611年)八町堀に寺地拝領仕
寛永十二年(1635年)右寺召上げ当所(三田寺町)に替地拝領仕候
中興開山 法印重昌 寶永四年(1707年)寂
本堂
本尊 大日如来木座像
弘法大師木座像
興教大師同前(木座像)
三尊阿弥陀如来木佛立像
不動堂
不動尊金佛立像 海中出現 前立不動尊木立像 興教大師作ト云
相殿
地蔵尊石佛立像 宗祖弘法大師豆州住●之砌 ●●伊豆山石切開此尊像彫刻●●申仕候 右伊豆石最初之尊像也ト申傳
毘沙門天木立像 辨財天木座像
辨財天 宗祖弘法大師江ノ島ニ於テ護摩修行之砌 右護摩之灰ヲ以テ作之萩原伊左衛門ト申者夢想感得之尊像ト申傳
宇賀神木古像
■ 『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
寳生院 三田北寺町十三番地
新義眞言宗愛宕圓福寺派で、龍臥山明王寺と号する。慶長十六年(1611年)今の八丁堀に創建し、寛永十二年(1635年)此地に移った。開山不詳。寺内に波切不動がある。御府内第六十九番札所に該当する。
「宝生院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営三田線「三田」駅で徒歩約10分。
国道1号に面していますが、ビルではなく本堂は単層、庫裡は二層です。
街路からやや引き込んだ門柱に院号標。
山内は意外に広く、すっきりとしています。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標
山内向かって右に土蔵造りの建物、左手に院号扁額を掲げた建物があります。
扁額を掲げた建物が本堂、土蔵が収蔵庫のようにもみえますが、土蔵造りの建物が本堂です。
【写真 上(左)】 本堂と庫裡(手前)
【写真 下(右)】 本堂
本堂はおそらく寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に梵字付きの蟇股を置いています。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額
向拝扉がうすく開けられ、御本尊・大日如来の御像は確認できました。
『ルートガイド』によると本堂内には御本尊大日如来、弘法大師像、興教大師像を奉安されているようです。
【写真 上(左)】 弘法大師碑
【写真 下(右)】 陣幕の記念碑
上記の陣幕の記念碑は山内右手に、弘法大師碑とともにありました。
御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に金剛界大日如来のお種子「バン」「大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫、「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「第六十九番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-23)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ Miss You - 今井美樹
■ Roka - 遊佐未森
■ One Reason - milet
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