関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1B
※ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1から分離。
Vol.-1Aからのつづきです。
■ 第1番 高野山東京別院(こうやさんとうきょうべついん)
公式Web
港区高輪3-15-18
高野山真言宗
御本尊:弘法大師
札所本尊:弘法大師
他札所:関東八十八箇所特別札所、江戸三十三観音札所第29番
授与所:本堂左手の納経所
御府内八十八ヶ所霊場の初番発願所は、高野山真言宗の高野山東京別院です。
正式名称は、高野山真言宗総本山金剛峯寺 高野山東京別院。
ご住職は総本山金剛峯寺座主が兼摂され、「高輪結び大師」の通称をもち、首都圏における「大師信仰」の教化の拠点として広く親しまれています。
東都の弘法大師霊場の発願所として、誠にふさわしい名刹といえましょう。
慶長年間(1596-1615年)、高野山学侶方の江戸在番所として浅草日輪寺に寄留して開創。明暦元年(1655年)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元年(1673年)高野山江戸在番所高野寺として建立されました。
以降、幕府方との宗務にかかる交渉、幕府諸通達を全国の古義真言宗寺院に通達する「触頭」(ふれがしら)を務められ、江戸における古義真言宗の中核としての役割を果たされました。
明治に入って在番所が廃止され、葛飾牛島の長壽寺の名蹟を移して継承し、昭和2年現号に改号しています。
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【写真 上(左)】 二本榎通りからの山門
【写真 下(右)】 修行大師像と山門
高野山東京別院は、高輪の海辺から桂坂を登ったところ、門前の二本榎通りは古代東海道ともいわれる主要道で要衝の地にあることがわかります。
このあたりの寺院は武蔵野台地の突端に置かれていることが多いですが、当山もその好例かと思います。
二本榎通り沿いに山門。
切妻屋根本瓦葺。門後に控柱を立てその上に小屋根を置いているのでおそらく高麗門。
門の左右に脇門付きの築地、さらにそのよこになまこ壁を配して変化をもたせた意匠です。
【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 院号板
山門向かって左手には、修行大師像が門外までお出ましになられています。
さすがに「首都圏における『大師信仰』の教化の拠点」です。
【写真 上(左)】 札所碑(表面)
【写真 下(右)】 札所碑(側面)
【写真 上(左)】 別の札所碑
【写真 下(右)】 弘法大師碑
そのよこの石碑は正面に「第壱番」、側面に「御府内八十八●●」とあるので御府内霊場の札所碑です。
そばには別の札所碑もあります。
山門向かって右には「弘法大師」の石碑。
山門幕には高野山真言宗の宗紋、「五三の桐」と「三頭右巴(さんとうみぎどもえ)」が染め抜かれています。
こうやさん便りWebによると、
五三桐 - 豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋。
三つ巴 - 鎮守・丹生都比売神社(通称・天野神社)の定紋。
ということで、通常このふたつの紋をセットで使用されます。
すでに山門前からして「お大師さまのお寺」のイメージ炸裂です。
また、札所碑の位置からして、御府内八十八ヶ所が弘法大師信仰のうえから重要な霊場であることがわかります。
【写真 上(左)】 参道とお砂踏み霊場
【写真 下(右)】 以前のお砂踏み霊場
【写真 上(左)】 幟旗
【写真 下(右)】 六地蔵
山門をくぐると都心らしからぬ広々とした空間が広がります。
最近山門周辺の四国八十八箇所お砂踏み霊場が参道沿いに移設され、以前よりもひろびろ感が増しています。
日当たりのよい台地にあるためか、山内は明るい雰囲気です。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 明神社参道
【写真 上(左)】 明神社鳥居扁額
【写真 下(右)】 明神社
参道右手に明神社が御鎮座です。
第一殿は、丹生明神(丹生都比売大神)・気比明神(大食津比売大神)
第二殿は、高野明神(高野御子大神)・厳島明神(市杵島比売大神)
第三殿は、十二王子・百二十番神(高野山の周囲を守る神々)
第四殿は、高輪神社の御祭神(東京別院の氏神社)
うち、第一殿、第二殿の御祭神を高野山の(天野)四社明神といい、高野山と関係のふかい丹生都比売神社(和歌山県かつらぎ町、紀伊国一宮、旧官幣大社)の御祭神です。
丹生明神は、高野山の鎮守神とされ、高野明神は丹生明神の子で弘法大師を高野山上に案内されたと伝わります。
弘法大師は高野山を開かれるに当たり、まず明神社を祀られ、その後山内伽藍の建築に着手されたといいます。
高野山には明神社が祀られ、山内諸行事はすべて明神社参拝からはじまるとされます。
神仏習合の江戸期には当山山内に明神社が祭祀されていましたが、明治の神仏分離で廃され、平成27年の高野山開創千二百年の記念事業により再建されました。
10月16日の明神社の鎮座祭は丹生都比売神社の宮司様により執行され、翌日の萬燈萬華大法会では宮司様と管長猊下により、奉祝祭と開眼法要が神仏混淆で奉修されたとのことです。(山内掲示より)
【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 元旦の本堂
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝前
その先右手には宝形造の不動堂。ここまでくると本堂は目の前です。
昭和63年落慶の本堂は二層建築で、おそらく入母屋造本瓦葺の妻入かと思います。
上層に千鳥破風、下層向拝上に唐破風を興してスケール感があります。
行事日には向拝まわりに五色の幔幕が廻らされ、ひときわ華やいだ雰囲気になります。
向拝の「遍照殿」の扁額が、当山御本尊が弘法大師であることを示しています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額
天井高く奥行き深く、荘厳な堂内。
タイミングにより、御内陣まで上げていただけることもあります。(新型コロナ禍以降のご対応は不明)
密寺らしく、堂内には多くの尊像が奉安されています。
【写真 上(左)】 聖観世音菩薩
【写真 下(右)】 一願大師
本堂向かって右手には端正な聖観世音菩薩立像、そして一願大師も御座されています。
御朱印は本堂向かって左手の納経所で授与されています。
複数の札所を兼任されているので、御府内霊場の申告は必須。ご対応はたいへんに親切です。
なお、御府内霊場専用集印帳の頒布は、おそらくこちらのみとみられます。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳-1
主印は弘法大師のお種子「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
汎用御朱印帳-2
御府内八十八ヶ所、江戸三十三観音札所、関東八十八箇所の3札所兼印が捺されることもあります。
※霊場無申告の場合は、こちらの御朱印になる模様です。
御府内霊場の掛け持ち参拝はおすすめしませんが、いちおう他の御朱印もご紹介します。
〔 関東八十八箇所特別霊場の御朱印 〕
「遍照金剛」の御朱印をいただきたい場合は、こちらで申告します。
原則として日付は入らないようです。
〔 江戸三十三観音札所第29番の御朱印 〕
札所本尊の聖観世音菩薩は、当山四世増舜大阿闍梨が高野山青巌寺より奉持・安置された尊像です。
■ 第2番 金峰山 世尊院 東福寺(とうふくじ)
中野区江古田3-9-15
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:豊島八十八ヶ所第2番
授与所:授与所
中野区江古田にある真言宗豊山派寺院です。
オフィシャルな由緒沿革資料がみつからなかったので、「中野区史 下巻』を当たってみました。P.497に以下の記載があります。
「金峯山世尊院と号する。本尊不動明王。立像長一尺二寸。舊(旧)は字御嶽山にあつたのを、某年現在の地に移した。開山は未詳、開基は村民次郎右衛門の先祖某で、天正年中(1573-1592年)の起立と傳へるけれども未だ詳でない。法流の祖は法運といひ、享保七年(1722年)十一月五日示寂した。(略)本堂の左に大師堂があり、府内八十八箇所の第二番に当る。もと大久保の二尊院に在つたのを明治の初年当寺に遷したのである。(略)当寺は、舊と氷川神社(現在村社、江古田三丁目一一五九鎮座)の別当であり、又江戸時代には将軍放鷹の際の御膳所であつた。」
また、『新編武蔵風土記稿』には以下のとおりあります。
「除地五段 村ノ南ノ方上鷺ノ宮村堺ニアリ 金峯山世尊院ト号ス 新義真言宗ニテ中野村寶仙寺ノ末 此寺元ハ村内御嶽山ノ邊ニアリシヲ 年月詳ナラス此処ヘ移シタリト云 本堂ハ八間半ニ七間 本尊不動ノ立像長一尺二寸 開山詳ナラス 法流ノ祖ヲ法運ト云 享保七年(1722年)十一月五日示寂 開基ハ村民次郎右衛門カ先祖ニテ 天正年中(1573-1592年)ニ起立トイヘト 其詳ナルコトヲ傳ヘス」
さらに「中野区公式観光サイト『まるっと中野』」(PDF)には、「旧江古田村には正保年間(1644-1648年)の鷹狩の折に東福寺で江古田獅子舞を上覧したという言い伝えがあります。江古田獅子舞の上覧は、8代将軍吉宗の時、享保十三年(1728年)2月12日にこのときに御膳所に指定された東福寺で行われています。」「東福寺には『御成の間』が造られ将軍来訪に備えました」とありました。
上記と『中野区寺院・仏事ガイド』および山内掲示の内容をあわせ、由緒沿革をまとめてみます。
中世、江古田本村に御鎮座の御嶽神社の氏子・二郎左衛門(堀野氏)が、武州御獄神社の社僧源教の教化を受けて神社の南麓に堂宇を建立、弘法大師の御作と伝わる一本彫の不動明王立像を御本尊として奉安し、金峰山世尊院東福寺の号を贈られたといいます。
開山は未詳、開基は村民次郎右衛門の先祖某(江古田御嶽神社の氏子・二郎左衛門(堀野氏)か)。
天正年中(1573-1592年)に堂宇が焼失、寛永年間(1624-1644年)?に当地に遷して再建(起立)。
法流の祖は法運(享保七年(1722年)寂)とあるので、法運による中興があったのかもしれません。
当山は江戸時代にしばしば将軍の鷹狩の御膳所となりました。
記録の残る正保年間(1644-1648年)の鷹狩御座と江古田獅子舞上覧は、三代将軍徳川家光公(在職:1623-1651年)とみられます。
この江古田獅子舞(祈祷獅子)は御嶽神社の社憎から伝授と伝わり、当山梵鐘の四面には獅子舞ゆかりの四神を模写した彫刻があります。
八代将軍・吉宗公は享保十三年(1728年)2月に来臨、すでに承応年間(1652-1655年に『御成りの間』として改築されていた客殿で休息したといい、跡地には「徳川将軍御膳所跡」の石碑が建てられています。
「中野区史 下巻』によると、弘法大師霊場としての系譜は新宿・余丁町の厳島神社の元別当・二尊院からで、明治の神仏分離により廃寺となったため東福寺に遷されたとのこと。
余丁町の厳島神社とは抜弁天(ぬけべんてん)のことで、新宿山ノ手七福神の弁財天となられて、本務社(?)の西向天神社で御朱印を授与されています。
『新編武蔵風土記稿 巻之11』の東大久保村の項に以下のとおりあります。
「辨天社 意形ノ像ナリ 弘法大師ノ作(以下略)」
「別当二尊院 新義真言宗 愛宕圓福寺地中金剛院ノ末 雨寶山ト号ス 本尊大日ヲ置」
↑によると、厳島神社(抜弁天)の御神体は弘法大師の御作とされ、別当二尊院は新義真言宗。
いずれもお大師さまゆかりの寺社です。
抜弁天の御朱印
『札所めぐり』によると、二尊院は弘安三年(1280年)の創建で、御本尊の不動明王は弘法大師の御作と伝わります。
二尊院の御本尊は弘法大師御作の不動明王というWeb記事もいくつかみつかりましたが出典は不明。
『新編武蔵風土記稿』には二尊院の御本尊は大日如来とありますが、弘法大師御作の不動明王奉安となると、こちらが御本尊になるとも思われよくわかりません。
ともあれ、御府内八十八箇所第2番は明治に二尊院から東福寺に遷ったという複数の資料があるのでこれは事実かと。
『新編武蔵風土記稿』には東福寺の御本尊は不動明王とあるので、こちらの(伝・弘法大師作の)お不動様が札所異動後の札所本尊となられたとみるのが自然かもしれません。
旧第2番が新宿余丁町だったとしても、初番の高輪から新宿余丁町の間には御府内霊場の札所がいくつもあるので、どうも御府内霊場の札番は単純にルート的な廻りやすさから振ったものではないような気もします。
(札所位置図→第76番蓮華山金剛院様公式Webで新宿余丁町は四ッ谷の上あたり。)
そんなこともあって、この霊場の順打ち(逆打ち)はすこぶる時間がかかるものとなります。
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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 札所碑
沼袋周辺は細い路地が多いですが、その北の新青梅街道から江古田の森公園にかけては比較的ゆったりとした街区となります。
東福寺は江古田の森公園の南側に、広めの山内を構えています。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 参道
山門は切妻屋根銅板葺で寺号扁額を掲げ、左右に築地をまわしています。
山門右手には御府内霊場の札所碑。
山門をくぐった右手は幼稚園で、平日は園児の声で賑やかです。
参道左手の山手は墓地で、その山裾に手前から庚申塔、大蔵院不動尊、徳川将軍御膳所跡の碑、鐘楼と並びます。
【写真 上(左)】 大蔵院不動尊と鐘楼
【写真 下(右)】 興教大師像と御膳所跡碑
大蔵院不動尊は青山鳳閣寺配下大蔵院ゆかりの尊像で、もとは現・江古田二丁目に御座し耳や眼の病に霊験あらたかな不動尊として多数の信者を集めたといいます。
大蔵院不動尊の上方に鐘楼、その手前には新義真言宗寺院らしく興教大師のお像が御座します。
そのよこの徳川将軍御膳所跡碑の前から本堂に向かって階段をのぼります。
間口の広い堂々たる参道階段で、その途中右手に大師堂があります。
【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 大師堂
大師堂は宝形造銅板葺きの整った堂容で向拝には弘法大師の扁額が掲げられ、さすがに札所第2番、弘法大師霊場の趣きゆたかです。
弘法大師霊場の巡拝では当然こちらも参拝することになります。
【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 本堂
のぼり切った正面が本堂で、向かって右手前には修行大師像が御座します。。
入母屋造本瓦葺流れ向拝のスケール感あふれるつくりで、向拝見上げに山号扁額を置いています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額
山内掲示には不動堂は「成田不動尊写」とあり、境外佛堂として江原町観音堂が記されていますが、不動堂の所在はわかりませんでした。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「不動明王」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
〔 豊島八十八ヶ所第2番の御朱印 〕
豊島八十八ヶ所も第2番です。主印、揮毫はおなじですが札所印が異なります。
■ 第3番 金剛山 悲願寺 多聞院(たもんいん)
世田谷区北烏山4-10-1
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第44番、江戸八十八ヶ所霊場第3番
授与所:庫裡
御府内八十八ヶ所の札所のうちには、府内(都心部)から郊外に移転したケースがいくつかあって、こちらものひとつです。
場所は世田谷区北烏山。
ここは都心部から移転した二十六もの寺院が集中し「烏山寺町」という大規模な寺町を形成しています。
手元にさるお寺様からいただいた『烏山寺町』という冊子があるので、こちらを参考に沿革を辿ってみます。
『烏山北町』
烏山寺町のおいたちは大正12年の関東大震災を直接の契機としますが、すでに明治21年には「東京市区改正条例」により都心部寺院・墓地等の共葬墓地・郊外への移転方針が決定していました。
共葬墓地への移転は順調に進み青山、雑司ヶ谷、染井、谷中、亀戸などは早い時期にすでに飽和状態になりました。
このため郊外の多摩共葬墓地の整備が進められ、大正12年春より共用開始しています。
同年9月の関東大震災は、この都心から郊外への寺院・墓地移転の流れを一気に加速しました。
練馬の寺町には浅草田島町から11箇寺、足立区伊興には元浅草・下谷・本所から、築地の西本願寺別院および塔頭55箇寺は杉並区和泉、仙川、調布そして烏山に移転しました。
烏山へは築地・浅草をはじめ、下谷、麻布、三田、品川などから寺院が移転しています。
当時の烏山は民家はほとんどなく、畑や桑圓が広がる農村地帯だったといいます。
移転した26箇寺は、真宗13、日蓮宗4、法華宗3、浄土宗4、真言宗1、臨済宗1と、真宗・日蓮宗・法華宗寺院が過半を占め、御朱印エリアのイメージはあまり強くはないものの、複数の寺院で御朱印・御首題を授与され、なかでももっとも御朱印がいただきやすいのが御府内八十八箇所の札所である多聞院です。
(→ 東京都世田谷区の札所と御朱印 (前編)をご参照。)
「烏山寺町」によると、多聞院は元和元年(1615年)新宿角筈村に創建。
開山は述譽法印、開基は角筈村名主・渡邉與(小)兵衛(法名天雪舊満)と伝わり、大塚(音羽)護国寺の末でした。
昭和20年5月の戦火で堂宇を焼失して現在地に移転、昭和29年末には本堂・庫裡が完成しています。
『新編武蔵風土記稿』には「新義真言宗、江戸大塚護國寺末金剛山慈願寺ト号ス 開山述誉ハ寛永元年(1624年)五月五日寂ス 開基ハ村内名主傳右衛門先祖與兵衛ニテ 法名天雪舊満ト云 明暦四年(1658年)六月十日死ス 本尊地蔵ヲ安ス」とあります。
御府内八十八ヶ所霊場3番札所、玉川八十八ヶ所霊場44番札所となっています。
玉川八十八ヶ所霊場の前身である四郡多摩川八十八所は江戸期の開創と伝わりますが、昭和48年に玉川八十八ヶ所として再編しているので、そのときに札所となったとみられます。
世田谷区内の弘法大師霊場は玉川八十八ヶ所がメインで、多聞寺は世田谷区内唯一の御府内霊場札所です。
山内に「天竺渡来石彫涅槃図」があり、これは奈良・壺坂寺(南法華寺)よりの寄贈。
説明碑によると多聞院先々代中興教荘和尚は壺坂寺住職として在職時の昭和36年に日本で最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を開設されました。
(壺坂寺は眼病に霊験で有名)
壺坂寺は長年の救ライ活動に対して、インド政府より大観音石像の寄贈を受け、これが発展して昭和61年壺坂寺に大仏伝図(涅槃図)レリーフが建立され、そのゆかりの図が多聞院に寄贈されたのでは。
壺坂寺(南法華寺)は大宝三年(703年)創建の真言宗系の古刹で、元正天皇の祈願寺となっています。
承和十四年(847年)には長谷寺とともに定額寺に列せらたという名刹で、多聞院先々代教荘和尚が壺坂寺住職として在職されていたとなると、多聞院はかなりの寺格ではないでしょうか。
また、ふるくから壺坂寺と関係をもっていた事も想像されます。
壺坂寺は西国三十三所第6番札所ですから、そのゆかりで御府内霊場札所に列したのかもしれません。
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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道
烏山寺町は一部路地的な街区もありますが、たいていは広い道路に面して車でのアクセスは楽です。
当山も広めの駐車場がありますが、お盆やお彼岸などの参拝はさけた方がベターかと思います。
【写真 上(左)】 観世音菩薩
【写真 下(右)】 延命地蔵尊
【写真 上(左)】 観世音菩薩
【写真 下(右)】 不動明王
山門入口は門柱。ここから正面の本堂に向かって参道が伸びています。
木々は少なめで開放的な山内。
参道まわりには、不動明王、地蔵尊、観世音菩薩などが御座します。
【写真 上(左)】 仏足石
【写真 下(右)】 レリーフ
精緻な仕上がりの仏足石と、上記の「天竺渡来石彫涅槃図」レリーフが見どころです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
向拝上に山号扁額を置いています。
堂前に修行大師像は御座されず、弘法大師は本堂内御座と思われます。
墓域には天保八年(1837年)の大飢饉の犠牲者を供養する「五百六十八人無縁墓」、明治詩壇の重鎮・本田種竹の墓、館林藩の尊皇攘夷の士・大久保鼎の墓があります。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
ふたつのメジャー霊場を兼務され、手なれたご対応です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は地蔵菩薩のお種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「本尊 地蔵菩薩」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
〔 玉川八十八ヶ所霊場第44番の御朱印 〕
主印、揮毫はおなじですが札所印が異なります。
以下、Vol.-2へつづきます。
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ 桜 - 中村舞子
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
Vol.-1Aからのつづきです。
■ 第1番 高野山東京別院(こうやさんとうきょうべついん)
公式Web
港区高輪3-15-18
高野山真言宗
御本尊:弘法大師
札所本尊:弘法大師
他札所:関東八十八箇所特別札所、江戸三十三観音札所第29番
授与所:本堂左手の納経所
御府内八十八ヶ所霊場の初番発願所は、高野山真言宗の高野山東京別院です。
正式名称は、高野山真言宗総本山金剛峯寺 高野山東京別院。
ご住職は総本山金剛峯寺座主が兼摂され、「高輪結び大師」の通称をもち、首都圏における「大師信仰」の教化の拠点として広く親しまれています。
東都の弘法大師霊場の発願所として、誠にふさわしい名刹といえましょう。
慶長年間(1596-1615年)、高野山学侶方の江戸在番所として浅草日輪寺に寄留して開創。明暦元年(1655年)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元年(1673年)高野山江戸在番所高野寺として建立されました。
以降、幕府方との宗務にかかる交渉、幕府諸通達を全国の古義真言宗寺院に通達する「触頭」(ふれがしら)を務められ、江戸における古義真言宗の中核としての役割を果たされました。
明治に入って在番所が廃止され、葛飾牛島の長壽寺の名蹟を移して継承し、昭和2年現号に改号しています。
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【写真 上(左)】 二本榎通りからの山門
【写真 下(右)】 修行大師像と山門
高野山東京別院は、高輪の海辺から桂坂を登ったところ、門前の二本榎通りは古代東海道ともいわれる主要道で要衝の地にあることがわかります。
このあたりの寺院は武蔵野台地の突端に置かれていることが多いですが、当山もその好例かと思います。
二本榎通り沿いに山門。
切妻屋根本瓦葺。門後に控柱を立てその上に小屋根を置いているのでおそらく高麗門。
門の左右に脇門付きの築地、さらにそのよこになまこ壁を配して変化をもたせた意匠です。
【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 院号板
山門向かって左手には、修行大師像が門外までお出ましになられています。
さすがに「首都圏における『大師信仰』の教化の拠点」です。
【写真 上(左)】 札所碑(表面)
【写真 下(右)】 札所碑(側面)
【写真 上(左)】 別の札所碑
【写真 下(右)】 弘法大師碑
そのよこの石碑は正面に「第壱番」、側面に「御府内八十八●●」とあるので御府内霊場の札所碑です。
そばには別の札所碑もあります。
山門向かって右には「弘法大師」の石碑。
山門幕には高野山真言宗の宗紋、「五三の桐」と「三頭右巴(さんとうみぎどもえ)」が染め抜かれています。
こうやさん便りWebによると、
五三桐 - 豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋。
三つ巴 - 鎮守・丹生都比売神社(通称・天野神社)の定紋。
ということで、通常このふたつの紋をセットで使用されます。
すでに山門前からして「お大師さまのお寺」のイメージ炸裂です。
また、札所碑の位置からして、御府内八十八ヶ所が弘法大師信仰のうえから重要な霊場であることがわかります。
【写真 上(左)】 参道とお砂踏み霊場
【写真 下(右)】 以前のお砂踏み霊場
【写真 上(左)】 幟旗
【写真 下(右)】 六地蔵
山門をくぐると都心らしからぬ広々とした空間が広がります。
最近山門周辺の四国八十八箇所お砂踏み霊場が参道沿いに移設され、以前よりもひろびろ感が増しています。
日当たりのよい台地にあるためか、山内は明るい雰囲気です。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 明神社参道
【写真 上(左)】 明神社鳥居扁額
【写真 下(右)】 明神社
参道右手に明神社が御鎮座です。
第一殿は、丹生明神(丹生都比売大神)・気比明神(大食津比売大神)
第二殿は、高野明神(高野御子大神)・厳島明神(市杵島比売大神)
第三殿は、十二王子・百二十番神(高野山の周囲を守る神々)
第四殿は、高輪神社の御祭神(東京別院の氏神社)
うち、第一殿、第二殿の御祭神を高野山の(天野)四社明神といい、高野山と関係のふかい丹生都比売神社(和歌山県かつらぎ町、紀伊国一宮、旧官幣大社)の御祭神です。
丹生明神は、高野山の鎮守神とされ、高野明神は丹生明神の子で弘法大師を高野山上に案内されたと伝わります。
弘法大師は高野山を開かれるに当たり、まず明神社を祀られ、その後山内伽藍の建築に着手されたといいます。
高野山には明神社が祀られ、山内諸行事はすべて明神社参拝からはじまるとされます。
神仏習合の江戸期には当山山内に明神社が祭祀されていましたが、明治の神仏分離で廃され、平成27年の高野山開創千二百年の記念事業により再建されました。
10月16日の明神社の鎮座祭は丹生都比売神社の宮司様により執行され、翌日の萬燈萬華大法会では宮司様と管長猊下により、奉祝祭と開眼法要が神仏混淆で奉修されたとのことです。(山内掲示より)
【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 元旦の本堂
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝前
その先右手には宝形造の不動堂。ここまでくると本堂は目の前です。
昭和63年落慶の本堂は二層建築で、おそらく入母屋造本瓦葺の妻入かと思います。
上層に千鳥破風、下層向拝上に唐破風を興してスケール感があります。
行事日には向拝まわりに五色の幔幕が廻らされ、ひときわ華やいだ雰囲気になります。
向拝の「遍照殿」の扁額が、当山御本尊が弘法大師であることを示しています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額
天井高く奥行き深く、荘厳な堂内。
タイミングにより、御内陣まで上げていただけることもあります。(新型コロナ禍以降のご対応は不明)
密寺らしく、堂内には多くの尊像が奉安されています。
【写真 上(左)】 聖観世音菩薩
【写真 下(右)】 一願大師
本堂向かって右手には端正な聖観世音菩薩立像、そして一願大師も御座されています。
御朱印は本堂向かって左手の納経所で授与されています。
複数の札所を兼任されているので、御府内霊場の申告は必須。ご対応はたいへんに親切です。
なお、御府内霊場専用集印帳の頒布は、おそらくこちらのみとみられます。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳-1
主印は弘法大師のお種子「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
汎用御朱印帳-2
御府内八十八ヶ所、江戸三十三観音札所、関東八十八箇所の3札所兼印が捺されることもあります。
※霊場無申告の場合は、こちらの御朱印になる模様です。
御府内霊場の掛け持ち参拝はおすすめしませんが、いちおう他の御朱印もご紹介します。
〔 関東八十八箇所特別霊場の御朱印 〕
「遍照金剛」の御朱印をいただきたい場合は、こちらで申告します。
原則として日付は入らないようです。
〔 江戸三十三観音札所第29番の御朱印 〕
札所本尊の聖観世音菩薩は、当山四世増舜大阿闍梨が高野山青巌寺より奉持・安置された尊像です。
■ 第2番 金峰山 世尊院 東福寺(とうふくじ)
中野区江古田3-9-15
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:豊島八十八ヶ所第2番
授与所:授与所
中野区江古田にある真言宗豊山派寺院です。
オフィシャルな由緒沿革資料がみつからなかったので、「中野区史 下巻』を当たってみました。P.497に以下の記載があります。
「金峯山世尊院と号する。本尊不動明王。立像長一尺二寸。舊(旧)は字御嶽山にあつたのを、某年現在の地に移した。開山は未詳、開基は村民次郎右衛門の先祖某で、天正年中(1573-1592年)の起立と傳へるけれども未だ詳でない。法流の祖は法運といひ、享保七年(1722年)十一月五日示寂した。(略)本堂の左に大師堂があり、府内八十八箇所の第二番に当る。もと大久保の二尊院に在つたのを明治の初年当寺に遷したのである。(略)当寺は、舊と氷川神社(現在村社、江古田三丁目一一五九鎮座)の別当であり、又江戸時代には将軍放鷹の際の御膳所であつた。」
また、『新編武蔵風土記稿』には以下のとおりあります。
「除地五段 村ノ南ノ方上鷺ノ宮村堺ニアリ 金峯山世尊院ト号ス 新義真言宗ニテ中野村寶仙寺ノ末 此寺元ハ村内御嶽山ノ邊ニアリシヲ 年月詳ナラス此処ヘ移シタリト云 本堂ハ八間半ニ七間 本尊不動ノ立像長一尺二寸 開山詳ナラス 法流ノ祖ヲ法運ト云 享保七年(1722年)十一月五日示寂 開基ハ村民次郎右衛門カ先祖ニテ 天正年中(1573-1592年)ニ起立トイヘト 其詳ナルコトヲ傳ヘス」
さらに「中野区公式観光サイト『まるっと中野』」(PDF)には、「旧江古田村には正保年間(1644-1648年)の鷹狩の折に東福寺で江古田獅子舞を上覧したという言い伝えがあります。江古田獅子舞の上覧は、8代将軍吉宗の時、享保十三年(1728年)2月12日にこのときに御膳所に指定された東福寺で行われています。」「東福寺には『御成の間』が造られ将軍来訪に備えました」とありました。
上記と『中野区寺院・仏事ガイド』および山内掲示の内容をあわせ、由緒沿革をまとめてみます。
中世、江古田本村に御鎮座の御嶽神社の氏子・二郎左衛門(堀野氏)が、武州御獄神社の社僧源教の教化を受けて神社の南麓に堂宇を建立、弘法大師の御作と伝わる一本彫の不動明王立像を御本尊として奉安し、金峰山世尊院東福寺の号を贈られたといいます。
開山は未詳、開基は村民次郎右衛門の先祖某(江古田御嶽神社の氏子・二郎左衛門(堀野氏)か)。
天正年中(1573-1592年)に堂宇が焼失、寛永年間(1624-1644年)?に当地に遷して再建(起立)。
法流の祖は法運(享保七年(1722年)寂)とあるので、法運による中興があったのかもしれません。
当山は江戸時代にしばしば将軍の鷹狩の御膳所となりました。
記録の残る正保年間(1644-1648年)の鷹狩御座と江古田獅子舞上覧は、三代将軍徳川家光公(在職:1623-1651年)とみられます。
この江古田獅子舞(祈祷獅子)は御嶽神社の社憎から伝授と伝わり、当山梵鐘の四面には獅子舞ゆかりの四神を模写した彫刻があります。
八代将軍・吉宗公は享保十三年(1728年)2月に来臨、すでに承応年間(1652-1655年に『御成りの間』として改築されていた客殿で休息したといい、跡地には「徳川将軍御膳所跡」の石碑が建てられています。
「中野区史 下巻』によると、弘法大師霊場としての系譜は新宿・余丁町の厳島神社の元別当・二尊院からで、明治の神仏分離により廃寺となったため東福寺に遷されたとのこと。
余丁町の厳島神社とは抜弁天(ぬけべんてん)のことで、新宿山ノ手七福神の弁財天となられて、本務社(?)の西向天神社で御朱印を授与されています。
『新編武蔵風土記稿 巻之11』の東大久保村の項に以下のとおりあります。
「辨天社 意形ノ像ナリ 弘法大師ノ作(以下略)」
「別当二尊院 新義真言宗 愛宕圓福寺地中金剛院ノ末 雨寶山ト号ス 本尊大日ヲ置」
↑によると、厳島神社(抜弁天)の御神体は弘法大師の御作とされ、別当二尊院は新義真言宗。
いずれもお大師さまゆかりの寺社です。
抜弁天の御朱印
『札所めぐり』によると、二尊院は弘安三年(1280年)の創建で、御本尊の不動明王は弘法大師の御作と伝わります。
二尊院の御本尊は弘法大師御作の不動明王というWeb記事もいくつかみつかりましたが出典は不明。
『新編武蔵風土記稿』には二尊院の御本尊は大日如来とありますが、弘法大師御作の不動明王奉安となると、こちらが御本尊になるとも思われよくわかりません。
ともあれ、御府内八十八箇所第2番は明治に二尊院から東福寺に遷ったという複数の資料があるのでこれは事実かと。
『新編武蔵風土記稿』には東福寺の御本尊は不動明王とあるので、こちらの(伝・弘法大師作の)お不動様が札所異動後の札所本尊となられたとみるのが自然かもしれません。
旧第2番が新宿余丁町だったとしても、初番の高輪から新宿余丁町の間には御府内霊場の札所がいくつもあるので、どうも御府内霊場の札番は単純にルート的な廻りやすさから振ったものではないような気もします。
(札所位置図→第76番蓮華山金剛院様公式Webで新宿余丁町は四ッ谷の上あたり。)
そんなこともあって、この霊場の順打ち(逆打ち)はすこぶる時間がかかるものとなります。
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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 札所碑
沼袋周辺は細い路地が多いですが、その北の新青梅街道から江古田の森公園にかけては比較的ゆったりとした街区となります。
東福寺は江古田の森公園の南側に、広めの山内を構えています。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 参道
山門は切妻屋根銅板葺で寺号扁額を掲げ、左右に築地をまわしています。
山門右手には御府内霊場の札所碑。
山門をくぐった右手は幼稚園で、平日は園児の声で賑やかです。
参道左手の山手は墓地で、その山裾に手前から庚申塔、大蔵院不動尊、徳川将軍御膳所跡の碑、鐘楼と並びます。
【写真 上(左)】 大蔵院不動尊と鐘楼
【写真 下(右)】 興教大師像と御膳所跡碑
大蔵院不動尊は青山鳳閣寺配下大蔵院ゆかりの尊像で、もとは現・江古田二丁目に御座し耳や眼の病に霊験あらたかな不動尊として多数の信者を集めたといいます。
大蔵院不動尊の上方に鐘楼、その手前には新義真言宗寺院らしく興教大師のお像が御座します。
そのよこの徳川将軍御膳所跡碑の前から本堂に向かって階段をのぼります。
間口の広い堂々たる参道階段で、その途中右手に大師堂があります。
【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 大師堂
大師堂は宝形造銅板葺きの整った堂容で向拝には弘法大師の扁額が掲げられ、さすがに札所第2番、弘法大師霊場の趣きゆたかです。
弘法大師霊場の巡拝では当然こちらも参拝することになります。
【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 本堂
のぼり切った正面が本堂で、向かって右手前には修行大師像が御座します。。
入母屋造本瓦葺流れ向拝のスケール感あふれるつくりで、向拝見上げに山号扁額を置いています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額
山内掲示には不動堂は「成田不動尊写」とあり、境外佛堂として江原町観音堂が記されていますが、不動堂の所在はわかりませんでした。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「不動明王」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
〔 豊島八十八ヶ所第2番の御朱印 〕
豊島八十八ヶ所も第2番です。主印、揮毫はおなじですが札所印が異なります。
■ 第3番 金剛山 悲願寺 多聞院(たもんいん)
世田谷区北烏山4-10-1
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第44番、江戸八十八ヶ所霊場第3番
授与所:庫裡
御府内八十八ヶ所の札所のうちには、府内(都心部)から郊外に移転したケースがいくつかあって、こちらものひとつです。
場所は世田谷区北烏山。
ここは都心部から移転した二十六もの寺院が集中し「烏山寺町」という大規模な寺町を形成しています。
手元にさるお寺様からいただいた『烏山寺町』という冊子があるので、こちらを参考に沿革を辿ってみます。
『烏山北町』
烏山寺町のおいたちは大正12年の関東大震災を直接の契機としますが、すでに明治21年には「東京市区改正条例」により都心部寺院・墓地等の共葬墓地・郊外への移転方針が決定していました。
共葬墓地への移転は順調に進み青山、雑司ヶ谷、染井、谷中、亀戸などは早い時期にすでに飽和状態になりました。
このため郊外の多摩共葬墓地の整備が進められ、大正12年春より共用開始しています。
同年9月の関東大震災は、この都心から郊外への寺院・墓地移転の流れを一気に加速しました。
練馬の寺町には浅草田島町から11箇寺、足立区伊興には元浅草・下谷・本所から、築地の西本願寺別院および塔頭55箇寺は杉並区和泉、仙川、調布そして烏山に移転しました。
烏山へは築地・浅草をはじめ、下谷、麻布、三田、品川などから寺院が移転しています。
当時の烏山は民家はほとんどなく、畑や桑圓が広がる農村地帯だったといいます。
移転した26箇寺は、真宗13、日蓮宗4、法華宗3、浄土宗4、真言宗1、臨済宗1と、真宗・日蓮宗・法華宗寺院が過半を占め、御朱印エリアのイメージはあまり強くはないものの、複数の寺院で御朱印・御首題を授与され、なかでももっとも御朱印がいただきやすいのが御府内八十八箇所の札所である多聞院です。
(→ 東京都世田谷区の札所と御朱印 (前編)をご参照。)
「烏山寺町」によると、多聞院は元和元年(1615年)新宿角筈村に創建。
開山は述譽法印、開基は角筈村名主・渡邉與(小)兵衛(法名天雪舊満)と伝わり、大塚(音羽)護国寺の末でした。
昭和20年5月の戦火で堂宇を焼失して現在地に移転、昭和29年末には本堂・庫裡が完成しています。
『新編武蔵風土記稿』には「新義真言宗、江戸大塚護國寺末金剛山慈願寺ト号ス 開山述誉ハ寛永元年(1624年)五月五日寂ス 開基ハ村内名主傳右衛門先祖與兵衛ニテ 法名天雪舊満ト云 明暦四年(1658年)六月十日死ス 本尊地蔵ヲ安ス」とあります。
御府内八十八ヶ所霊場3番札所、玉川八十八ヶ所霊場44番札所となっています。
玉川八十八ヶ所霊場の前身である四郡多摩川八十八所は江戸期の開創と伝わりますが、昭和48年に玉川八十八ヶ所として再編しているので、そのときに札所となったとみられます。
世田谷区内の弘法大師霊場は玉川八十八ヶ所がメインで、多聞寺は世田谷区内唯一の御府内霊場札所です。
山内に「天竺渡来石彫涅槃図」があり、これは奈良・壺坂寺(南法華寺)よりの寄贈。
説明碑によると多聞院先々代中興教荘和尚は壺坂寺住職として在職時の昭和36年に日本で最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を開設されました。
(壺坂寺は眼病に霊験で有名)
壺坂寺は長年の救ライ活動に対して、インド政府より大観音石像の寄贈を受け、これが発展して昭和61年壺坂寺に大仏伝図(涅槃図)レリーフが建立され、そのゆかりの図が多聞院に寄贈されたのでは。
壺坂寺(南法華寺)は大宝三年(703年)創建の真言宗系の古刹で、元正天皇の祈願寺となっています。
承和十四年(847年)には長谷寺とともに定額寺に列せらたという名刹で、多聞院先々代教荘和尚が壺坂寺住職として在職されていたとなると、多聞院はかなりの寺格ではないでしょうか。
また、ふるくから壺坂寺と関係をもっていた事も想像されます。
壺坂寺は西国三十三所第6番札所ですから、そのゆかりで御府内霊場札所に列したのかもしれません。
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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道
烏山寺町は一部路地的な街区もありますが、たいていは広い道路に面して車でのアクセスは楽です。
当山も広めの駐車場がありますが、お盆やお彼岸などの参拝はさけた方がベターかと思います。
【写真 上(左)】 観世音菩薩
【写真 下(右)】 延命地蔵尊
【写真 上(左)】 観世音菩薩
【写真 下(右)】 不動明王
山門入口は門柱。ここから正面の本堂に向かって参道が伸びています。
木々は少なめで開放的な山内。
参道まわりには、不動明王、地蔵尊、観世音菩薩などが御座します。
【写真 上(左)】 仏足石
【写真 下(右)】 レリーフ
精緻な仕上がりの仏足石と、上記の「天竺渡来石彫涅槃図」レリーフが見どころです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
向拝上に山号扁額を置いています。
堂前に修行大師像は御座されず、弘法大師は本堂内御座と思われます。
墓域には天保八年(1837年)の大飢饉の犠牲者を供養する「五百六十八人無縁墓」、明治詩壇の重鎮・本田種竹の墓、館林藩の尊皇攘夷の士・大久保鼎の墓があります。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
ふたつのメジャー霊場を兼務され、手なれたご対応です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は地蔵菩薩のお種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「本尊 地蔵菩薩」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
〔 玉川八十八ヶ所霊場第44番の御朱印 〕
主印、揮毫はおなじですが札所印が異なります。
以下、Vol.-2へつづきます。
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ 桜 - 中村舞子
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
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