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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-25

Vol.-24からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第75番 智劔山 遮那院 威徳寺(赤坂不動尊)
(いとくじ)
公式Web

港区赤坂4-1-10
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第75番、御府内二十八不動霊場第23番、大東京百観音霊場第12番

第75番は「赤坂不動尊」として知られる威徳寺です。

第75番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに威徳寺で、第75番札所は開創当初から赤坂の威徳寺であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』、『赤坂不動尊栞』などから縁起・沿革を追ってみます。

延暦二十四年(805年)伝教大師最澄が唐より帰国の途上、嵐に遭い船が沈みそうになったとき、御自作の不動明王を海に沈めて祈願され難破をのがれたといいます。

天安二年(858年)、越後國三島郡出雲崎の漁師が毎夜海辺に不思議な光を見るので探索したところ、海中から大師がお沈めになった不動明王が現れたため茅屋を結んで尊像を安置、お祀りしたのが創始と伝わります。

永承六年(1063年)、源頼義公が当山に戦勝祈願したところ、霊験を感じて下総國香取郡米澤村(現・千葉県香取郡神崎町)にお遷ししたといいます。

寶冶年中(1247-1249年)、鎌倉幕府5代執権・北條時頼公が米澤村の不動堂へ願書を奉ったと伝わるのは、こちらの不動尊とみられています。
文永十一年(1274年)には8代執権北條時宗公が文永の役で戦勝祈願・成就して北條執権家の尊崇を高め、寺勢いよいよ興隆したといいます。

慶長五年(1600年)、住僧良臺が当尊より夢告をうけて赤坂人継(一ツ木)の地へ移転し、赤坂の威徳寺として開山。
眼下に溜池、遠くに愛宕の高塔を望む風光絶佳の地であったため池見山遮那院と号しました。

霊験あらたかな不動尊にあやかってか、当山は紀州徳川家の祈願寺となりました。
五大明王をはじめ多彩な祈祷佛を安したのは、紀州徳川家の祈願寺という背景があったためとみられます。

江戸期には御府内霊場の札所にもなって人々の尊崇を集めました。
不動明王の利生の劔に因んで智劔山、また不動尊の威徳を尊んで威徳寺と号したといいます。

赤坂不動尊威徳寺の法統は現在に至るまで赤坂の地で受け継がれ、平成29年には大規模なビルに改築、都心・赤坂のお不動様として人々の信仰を集めています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
七十五番
赤坂一ツ木町
愛宕山真福寺末 新義真言宗
智劔山 遮那院 威徳寺
本尊:大日如来 海中出現不動明王 勝軍十一面観世音 弘法大師

『寺社書上 [39] 赤坂寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.88』
深川七軒寺町
愛宕下真福寺末 新義真言宗
智劔山遮那院威徳寺
起立年代相不知申候
開山 良臺 元和三年(1617年)卒(元和八年(1622年)遷化とも)
本堂
 本尊 不動明王木立像 伝教大師作海中出現 秘仏(略縁起)
 前立 不動明王座像 願行上人作
 両童子 
本堂中安置
 大威徳明王木立像
 降三世明王木立像
 軍荼利明王木立像
 金剛夜叉明王木立像
 愛染明王木座像
 辨財天 弘法大師作灰佛
 薬師如来木座像 脇士 日光菩薩木立像 月光菩薩木立像
 金剛界大日如来木座像 胎蔵界大日如来銅座像
 妙見尊木立像
 賓頭盧尊者木座像
位牌安置土蔵内
 大日如来木座像 阿弥陀如来木座像
 地蔵菩薩木座像 弘法大師木座像 興教大師木座像
焔魔堂聖天相殿
 聖天尊 秘佛 本地十一面観音木立像
 焔魔大王木座像
 大黒天木立像
 大黒天木立像
 毘沙門天王木座像
子安地蔵尊石座像 上屋有り

『赤坂区史』/東京市赤坂区 昭和17年(国立国会図書館/保護期間満了)
眞言宗威徳寺 山号及別号智劔山阿遮院 愛宕下真福寺末
一ツ木町十三番地
寺門は市廛の間にあつて、本堂は一ツ木町十三番地の丘上に位置してゐる。門前に建てた大石柱には、「智劔山威徳寺、現在茲海代」「八十八ヶ所七十五番弘法大師」「傳教大師御眞作海中出現不動明王」「将軍十一面観世音」-天保八丁酉五月-の文字が刻まれてゐる。
当寺の起立された年代は詳かでないが、開山は良臺是年(元和八年(1622年)寂)である。
本堂の傍にある大師堂は寶形造で讃岐善通寺の写しである。此處は昔は星が岡の鬱陵に対し、溜池の池塘を下瞰し、又遠く愛宕の高塔を望むことが出来て、風光絶佳の地であつた。山號の智劔山は、續江戸砂子に「池見山威徳寺」と記されてゐるやうに、以前は溜池に臨むといふ意味から池見山と書いたのだが、後に至つて不動明王の利生の劔に因んで智劔と改めたのであらう。
境内に弘法大師千五百回忌塔がある。また不動尊に就いては、寺傳によれば、文徳天皇の天安二年(858年)越後國出雲崎の海濵に毎夜光明赫々たるものを認め海底を探つて此像を得たので、茅屋を結んで之を安置し、後に下総國米澤村に移した。寶冶年中(1247-1249年)に北條時頼が米澤村の不動堂へ願書を奉つたと傳へられるのは、即ちこの不動に祈願したもので、其後米澤村から武蔵國貝塚領人繼村へ遷座したのがこの像であると云ふ。



「威徳寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』赤坂絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※一ツ木丁に「寍徳寺」という寺院がみえます。位置関係からするとこちらが「威徳寺」のようにも思われますが、どうでしょうか。

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メトロ「赤坂見附」駅は「永田町」駅と接続し、銀座線・丸ノ内線(赤坂見附)、半蔵門線・有楽町線・南北線(永田町)の5路線が利用できる交通の要衝です。
「赤坂見附」駅から徒歩約5分の一ツ木通りに面しています。

もともと一ツ木通りにはTBS本館ビルがあり、メディア、芸能関係など時代の先端を行く人々の街でした。
TBSが赤坂に移転したあともその遺伝子は遺り、いまでも界隈は華やいだ雰囲気です。

不動尊は繁華街に祀られる例も多く、赤坂不動尊も違和感なく人々の尊崇を集めていると思われます。


【写真 上(左)】 工事中の山内
【写真 下(右)】 工事中の参拝所

はじめて参拝したときは工事中でプレハブの参拝所での奉拝でしたが、古色を帯びた不動尊を間近で拝せてかなりの迫力でした。
平成29年の新ビル竣工後は、立派なビル内の本堂で参拝できます。


【写真 上(左)】 工事中の参拝案内
【写真 下(右)】 一ツ木通りからの参道


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内入口

一ツ木通りに接して参道。
「南無不動明王」の幟がはためき、附設の「赤坂浄苑」のサイン、その奥には山門も見えて寺院めぐりに不慣れな人にはかなりのインパクトがあるかも。

参道入口に寺号標。その先に「赤坂不動尊」の石標と御府内霊場の札所碑。
その先のアーチ状の山門には「赤坂不動尊」の扁額が掲げられ、門柱にはさらに寺号標。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の寺号標


【写真 上(左)】 不動尊碑と札所碑
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 寺号標とエントランス
【写真 下(右)】 紀州徳川家御祈願所

重厚なブラックフェースのエントランスと、たたみかけるように寺号標。
その前庭には石像の不動尊像と修行大師像。
どちらも古色を帯びているので、改修前から御座される濡佛では。


【写真 上(左)】 不動尊像
【写真 下(右)】 修行大師像修行大師像

エントランス手前には「紀州徳川家御祈祷所」の石碑と子授子育地蔵尊。

山号扁額が掲げられたエントランスを入ると受付で、こちらで拝観と御朱印のお願いをします。
ご対応はたいへんにご親切で、たしかエレベーターで上層階の本堂に昇ったと思います。
(あるいは1階奥かもしれぬ。記憶があいまいですみません。)


【写真 上(左)】 エントランスの扁額
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 「赤坂不動尊」の提灯
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂前には「赤坂不動尊」の提灯とそのおくに真言宗智山派の宗紋「桔梗紋」が染められた紫の向拝幕。
上部左右に欄間彫刻、中央に山号扁額で、ビル内ながら仏堂の趣きゆたかです。

都内有数の繁華街立地、瀟洒なビル内本堂と、まさに都会の霊場・御府内霊場ならではの札所といえましょう。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳


【写真 上(左)】■ 専用集印帳(平成28年拝受)

中央に不動明王のお種子「カン/カーン」「不動明王」の揮毫と「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内札所第七十五番」の札所印。
左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
なお、平成28年に拝受した御朱印の寺院印は「赤坂不動尊印」でした。


■ 第76番 蓮華山 佛性寺 金剛院
(こんごういん)
公式Web
豊島区長崎1-9-2
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:長崎神社(豊島区長崎)
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第76番

第76番は豊島区長崎の金剛院です。

第76番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに西蔵院で、第76番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで音羽の西蔵院で、『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所変更資料には西蔵院から金剛院への変更が記され、第76番札所は幕末から明治初頭にかけて長崎の金剛院に変更とみられます。

公式Web豊島区資料、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから両山の縁起・沿革を追ってみます。

【金剛院】

金剛院は、大永二年(1522年)聖弁和尚が新義真言宗寺院として”観音堂”の地(現・長崎3-28-1)に開創といいます。
当初の御本尊は阿弥陀三尊ないし五智如来(『新編武蔵風土記稿』)。
開創の地(長崎3-28-1)は現在当山の境外仏堂となっています。

元和七年(1621年)幕府の「諸宗諸本山諸法度」を受けて中野村宝仙寺の末寺となりました。
延宝年中(1673-1681年)ないし元禄年中(1688-1704年)、火災により仏像や古文書を焼失し宝永六年(1709年)頃に現在地へ移転しました。

正徳五年(1715年)聖誉和尚が再建。この頃、長崎神社の別当になったといいます。


【写真 上(左)】 長崎神社
【写真 下(右)】 長崎神社の御朱印

天明年中(1781-1788年)の大火の折、19世・宥憲和尚は多くの罹災者を金剛院に収容して命を助け、その功績により10代将軍家治公から山門(安永九年(1780年)建立)を朱塗りとする許可を受けました。
朱塗りの門の許可は名誉あることで、金剛院は以降「赤門寺」とも尊称されました。
この赤門は、豊島区の有形文化財に指定されています。

安政年中(1845-1849年)、本寺の中野宝仙寺から智観比丘尼が入山。
比丘尼は金剛院へ村の子供たちを集めて寺子屋をはじめ、礼儀作法や読み書きを教えました。

当地の庶民教育の創始者とも云える智観比丘尼の功績を称える碑が山内に建立されています。
明治34年には山内に長崎村役場がおかれ、長崎村の中心的な存在であったことがわかります。

明治初頭の神仏分離の波を乗り越え、御府内霊場第76番札所を承継、明治40年開創とされる豊島八十八ヶ所霊場の札所にもなっています。

小日向の西蔵院からの御府内霊場札所承継については、いずれも中野村宝仙寺末であった所縁によるものと思われます。

江戸期以降の御府内の寺院や札所はおおむね西遷傾向。
廃寺等を受けた札所承継で、同宗派の西側の郊外寺院に遷る例は他にもいくつかみられます。

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【西蔵院】

西蔵院は小日向にあった新義真言宗寺院。
『寺社書上 (小日向寺社書上)』に「小日向別当 小日向村田地●●●出現ニ付田中八幡●神宮●唱」とあり、小日向の田中八幡宮の別当であったことがわかります。

『小石川区史』の小日向神社の項にも「田中八幡社は、社伝に依ればその神體を小日向村の田地より感得したので田中八幡宮と唱へ、始めは八幡坂町に奉祀したが、明暦元年其地が久世大和守の抱屋敷となつた為め、音羽裏の地に引移り、明治に至つて氷川社と合し、今日の地に移つたのである。」とあります。

同書によると、氷川社の別当は慈照山日輪寺で小日向の總鎮守。
また、音羽町九丁目の今宮神社の項には「創建は社伝に依れば、元禄年中(1688-1704年)五代将軍綱吉の生母桂昌院が、護國寺建立と共にその境内に奉祀したと言ふ。明治初年、神佛混淆禁止に依り、同六年元田中八幡宮の跡なる現地へ遷座した。」とあります。

整理すると、現在の今宮神社の場所に御鎮座の田中八幡宮(別当:西蔵院)は明治の神佛分離の際に西蔵院が廃寺となり、田中八幡宮は氷川社(別当:日輪寺)と合祀されて、現在の小日向神社の地に御遷座、小日向神社と号されました。


【写真 上(左)】 小日向神社
【写真 下(右)】 小日向神社の御朱印

一方、音羽裏の田中八幡宮の跡地には元禄年中(1688-1704年)徳川5代将軍綱吉公の生母桂昌院が、護國寺建立とともに境内に奉祀したという今宮神社が明治6年に御遷座されいまに至るようです。

以上から、田中八幡宮の別当・西蔵院は、現在の今宮神社の地にあったとみられます。
『江戸切絵図』をみても『田中八幡 別当西蔵院』は還国寺の北西、大泉寺の北東にあって、ちょうどいまの今宮神社辺に当たっています。


【写真 上(左)】 今宮神社
【写真 下(右)】 今宮神社の掲示(御朱印不授与)

また、 『江戸名所図会 7巻 [12]』の神齢山護国寺の項には「今宮五社 当所鎮守と云 天照太神宮 八幡大神 春日大明神 今宮大明神 三部大権現五社を祭る 音羽町青柳町桜木町の鎮守なりと云伝ふ」とあり、今宮五社が護国寺鎮守であったことがわかります。

田中八幡宮別当の性格が強かった西蔵院は明治初頭の神仏分離で廃され、御府内霊場札所は上記のとおり同宗派の長崎・金剛院に承継されました。

なので、田中八幡宮の系譜は小日向神社、別当・西蔵院の系譜は金剛院で、それぞれいまも辿ることができます。

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【史料】

【金剛院】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(長崎村)金剛院
新義真言宗 多磨郡中野村寶仙寺末 蓮華山佛性寺ト号ス 本尊五智如来中興僧ハ貞享五年(1688年)寂ス

『北豊島郡誌』(国立国会図書館)
(長崎村)金剛院
千四百三十六番地に在り、新義真言宗豊山派、中野寶泉寺末、蓮華山佛性寺と号す。本尊五智如来を安置す。当寺往年火災に罹り寺伝を失ふて開創詳ならざるも、約四百年前の剏建にして開山を聖辨和尚と云ふよし、新編武蔵風土記稿に『中興の僧は貞享五年(1688年)寂す』とあるに見ても其の古き寺なることを知るべし。境内は長崎神社の東に続き小丘の上にあり、本堂は萱葺にして堂前東に大師堂あり、豊島八十八ヶ所の札所にあり、鐘樓ありて寛文年中(1661-1673年)の梵鐘を吊れり。

『北豊島郡誌』(国立国会図書館)
長崎神社
祭神素盒嗚尊、舊来長崎村の鎮守なり。当社舊別当は金剛院なり、現今神域は寺地と相続けり。

【西蔵院】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十六番
●●町八丁目
田中山 西蔵院
中野村宝仙寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 本社田中八幡宮 弘法大師

『寺社書上 [27] 小日向寺社書上 参止』(国立国会図書館)
小日向別当
新義真言宗中野村宝仙寺末
田中山西蔵院
八幡宮●●
但本像馬上にあり御丈八寸
右●像之儀ハ当代ふ知 小日向村田地●●●出現ニ付田中八幡●神宮●唱 八幡坂町(不詳)明暦元年(1655年)久世大和守殿御抱屋敷(不詳)当地之場所に引移候
相殿
 弘法大師
  但御府内八拾八ヶ所第七十六番札所
相殿
 八幡宮本地佛●阿弥陀如来木佛立像
末社
 庚申堂 稲荷社 三峯山 地蔵堂

八幡宮拝殿 本社
別当 内佛不動木座像
別当起立之年月不相知
開山●年月世代の儀相知不申候
開基無●●候

『小石川区史』(国立国会図書館)
小日向神社
小日向水道町服部坂の中腹に鎮座し、素戔嗚尊、譽田別尊、櫛稲田姫命、大巳貴命を祀る。其創建は明治二年で、水道町日輪寺境内の氷川社と音羽裏の田中八幡とを今の場所に移し、合祀して地名を取り社号としたものである。

氷川社は『新編江戸志』に依れば、『小日向の總鎮守にして、勸請の年歴詳かならず、四五百年の鎮座と言へり』。といひ、又『太田道灌再興す』と記してゐる。『江戸名所図會』には其図が載つてゐる。

田中八幡社は、社伝に依ればその神體を小日向村の田地より感得したので田中八幡宮と唱へ、始めは八幡坂町に奉祀したが、明暦元年(1655年)其地が久世大和守の抱屋敷となつた為め、音羽裏の地に引移り、明治に至つて氷川社と合し、今日の地に移つたのである。

明治五年村社に列し、祭日は九月十五日である。
現在の氏子町は小日向臺町一・二・三丁目、同三軒町、清水谷町、茗荷谷町、第六天町、水道端一・二丁目、武島町、小日向水道町、東・西古川町、松ヶ枝町、小日向町、西江戸川町等、小日向の全部である。

『小石川区史』(国立国会図書館)
今宮神社
音羽町九丁目に在る。祭神は天照大神、素戔嗚尊、伊弉册尊、譽田別尊、天兒屋根命、大國主命、少彦名命、大宮乃賣命である。
その創建は社伝に依れば、元禄年中(1688-1704年)五代将軍綱吉の生母桂昌院が、護國寺建立と共にその境内に奉祀したと言ふ。
明治初年、神佛混淆禁止に依り、同六年元田中八幡宮の跡なる現地へ遷座した。明治五年村社に列せられ、現在境内は三百餘坪、祭日は九月七日で、東・西青柳町、音羽一丁目乃至九丁目、櫻木町を氏子としてゐる。

『江戸名所図会 7巻 [12]』(国立国会図書館)
神齢山護国寺
 今宮五社
 当所鎮守と云 天照太神宮 八幡大神 春日大明神 今宮大明神 三部大権現五社を祭る 音羽町青柳町桜木町の鎮守なりと云伝ふ

『小石川区史』(国立国会図書館)
日輪寺
慈照山日輪寺。曹洞宗大本山総持寺、本山駒込吉祥寺末。本尊釋迦如来。
当地は元小日向の鎮守と伝へられる氷川明神の社地で、慶長十三年(1608年)吉祥寺第八世松栖用鶴大和尚が、明神別当として一寺を開いたのが当寺の基となつた。尤も氷川明神の縁起については、『新編江戸志』に『氷川神社、上水の上、別当慈照山日輪寺、神主宮崎伊勢守。社伝に小日向總鎮守にして、勧請の年歴詳かならず、四五百年の鎮座といへり。社伝に太田道灌再興すといふなり』とあり、『江戸名所図會』にも『氷川明神祠上水堀の端慈照山日蓮寺といへる禅林にあり。祭神は当國一宮に同じ。勧請の始久しうして知るべからずといへり。中古太田道灌の再興にして、小日向の鎮守なり。祭禮は正五九月の十七日なり。當社に元亀の年號ある庚申待供養の古碑あり』とあり(略)明治に至り神佛分離の際、氷川社の神體は小日向神社に奉遷し、社殿は観音堂となり、爾後寺院として今日に伝へた。



「西蔵院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』音羽絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは西武新宿線「椎名町」駅で徒歩1分と至近。
元別当をつとめた長崎神社ととなりあっています。

都内には駅前に寺社がある駅はけっこうありますが、神社・元別当ともに並んでいる例はなかなか貴重です。


【写真 上(左)】 院号標と長崎不動尊
【写真 下(右)】 長崎不動尊の扁額

山門手前、駅側にせり出すように堂宇を構えられる「長崎不動尊」は、昭和24年に地域の守護仏として造立奉安された比較的あたらしい尊像ながら、不動尊ならではの力づよいオーラを放たれています。
堂内には平成8年造立の聖観世音菩薩像も奉安されています。


【写真 上(左)】 舟型道標地蔵尊
【写真 下(右)】 地蔵尊の御真言

「長崎不動尊」のさらに手前には「舟型道標地蔵尊」。
寛政八年(1796年)造立、中山道板橋仲宿、厄除け祖師・妙法寺方面への道標となっていて、御仏体は江戸城築城時につかわれた石の一部と云われています。


【写真 上(左)】 寺カフェ『なゆた』
【写真 下(右)】 山門

右手には寺カフェ・赤門テラス『なゆた』

正面の参道を進むと山門(赤門)です。
由来は上記のとおりで、切妻屋根銅板葺の薬医門で左右の袖塀を脇塀に当て付けています。
屋根の銅板はえんじ色ながら門柱・門扉は鮮やかな朱で、「赤門」のイメージを伝えています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 修行大師像

山門をくぐると左手に修行大師像と四国八十八ヶ所お砂踏み霊場。
修行大師像の本堂寄りには「弘法大師・興教大師碑」、御朱印霊場札所標、マンガ地蔵尊などが並びます。

椎名町五丁目にあった「トキワ荘」は、手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら著名な漫画家が居住していた「漫画の聖地」です。
豊島区立トキワ荘マンガミュージアム公式Web


【写真 上(左)】 マンガ地蔵尊
【写真 下(右)】 マンガ地蔵尊の台座銘

金剛院山内にはこれを記念して平成27年に「マンガ地蔵尊」が造立奉安されています。
錫杖の代わりにペンを持たれ、法衣の柄は漫画のコマ、光背がGペンという特徴あるおすがたです。
マンガ地蔵尊の御朱印も授与されています。



【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 修行大師像、大師堂と本堂

その先の大師堂は宝形造桟瓦葺で頂部に宝珠を置いています。
向かって左の柱に御寶号、右には御府内霊場札所板。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 御寶号板


【写真 上(左)】 御府内霊場札所板
【写真 下(右)】 霊場札所板

向拝上部には御府内・豊島両霊場の札所板と和讃(御詠歌)板が掲げられ、弘法大師霊場札所の趣きゆたか。

当山公式Webの御府内霊場の手引きページは懇切丁寧にまとめられ、Web検索でも上位ヒットします。
御府内霊場の巡拝者迎え入れに積極的なお寺さまかと思われます。

参道右手に建つ二基の板碑と庚申塔は区登録文化財。


【写真 上(左)】 板碑と仏塔
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝の伽藍(外陣)とその後ろに宝形造二重屋根の伽藍(内陣)を隣接し、入母屋造平入りの後ろに相輪をみせる面白い意匠となっています。

昭和29年落慶の本堂は、コンクリ造ながら古典建築の造形を単純化してまとめた寺院建築として国の登録有形文化財に指定。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 客殿と庫裡

本堂向かって右手前の客殿は千鳥破風と起り屋根が印象的な瀟洒な建物で、こちらも国の登録有形文化財に指定されています。

御朱印は客殿よこの庫裡にて拝受しました。
こちらでは豊島八十八ヶ所霊場とマンガ地蔵尊の御朱印も授与されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に阿弥陀如来のお種子「キリーク」「無量壽」「弘法大師」の揮毫と宝珠の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内八十八所第七十六番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
※「無量壽」は、阿弥陀如来の別号です。

 
【写真 上(左)】 豊島霊場の御朱印
【写真 下(右)】 マンガ地蔵尊の御朱印


■ 第77番 高嶋山 歓喜寺 佛乗院
(ぶつじょういん)
神奈川県秦野市蓑毛957-13
真言宗智山派
御本尊:千手観世音菩薩
札所本尊:千手観世音菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第77番、御府内二十八不動霊場第17番、弁財天百社参り第17番

第77番は神奈川県秦野市の佛乗院です。
御府内霊場唯一の東京都外の札所です。
神奈川県といっても川崎や横浜ではありません。遠く丹沢山中の札所で、参拝は1日がかりとなります。

第77番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに佛乗院で、第77番札所は開創当初から芝三田の佛乗院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

佛乗院の開山開基は不明ですが、当所は八丁堀にあり、寛永十二年(1635年)三田ないし日本橋に引移り、延宝年間(1763-1780年)に芝三田寺町に移転といいます。
中興開基は法印宥補(宝)と伝わります。

芝三田寺町の在所は大聖院と幸福寺の間、蛇坂の登り口付近でしたから、現在のケーヨーデイツー三田店あたりとみられます。

昭和62年、三田寺町から神奈川県秦野市の丹沢山中へ移転し、同時に御府内霊場第77番札所も移転して、最も遠方の札所となりました。

当初の御本尊は弘法大師の御作と伝わる旭辨財天木立像。
弘法大師御作とされる大聖歓喜天尊も奉安されていました。

『御府内八十八ケ所道しるべ 』には「本尊:弁財天 歓喜天 弘法大師」とあり、すくなくとも幕末までは弁財天、大聖歓喜天尊、弘法大師の三尊が御府内霊場の拝尊であったことがわかります。

弁財天百社参り第17番の札所であり、御府内でも著名な辨財天霊場であったとみられます。

また、御府内二十八不動霊場第17番の札所本尊は、おそらく智證大師御作と伝わる不動明王とみられます。

現在の御本尊・札所本尊は千手観世音菩薩。
御本尊・札所本尊が替わられた経緯は不明です。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十七番
芝三田寺町
愛宕山真福寺末 新義真言宗
高嶋山 歓喜寺 佛乗院
本尊:弁財天 歓喜天 弘法大師

『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.94』
三田寺町
愛宕前真福寺末 新義真言宗
高嶋山佛乗院歓喜寺
開闢起立之年代不分明
開山中興開山共ニ不分明
八丁(町)堀から当地に替地拝領仕 寛永十二年(1635年)当所(三田寺町)ニ引移●●
中興開基 法印宥補(宝)寛文六年(1666年)遷化
本堂
 本尊 旭辨財天木立像 弘法大師作ト云 十五童子
 大黒天 四天王 前立辨財天木座像
 大聖歓喜天木立像 弘法大師作
 大聖歓喜天真鍮立像
 十一面観音木立像
 不動明王木立像 智證大師作ト云
 弘法大師
 千躰地蔵尊木座像
 阿弥陀如来木座像
鎮守八幡稲荷合社 但し御幣勧請

旭弁天社●-● 弘法大師近江國竹生島に三七日来●あり ●-● 手つから彫刻の尊像なり 元禄の頃吉水●●といふ医師弁天を伝●る事あり 当寺の住良運法印に●し弁天の●●



「佛乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2.国立国会図書館DC(保護期間満了)

■ 現在の三田寺町(蛇坂登り口付近)周辺の地図 ↓


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小田急線「秦野」駅から神奈中バス蓑毛行きに乗り終点で下車。
バス停からさらに500mほど歩いたところです。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 御府内霊場札所標-1


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 千元院の院号標

林道的なロケーションに突然参道入口があらわれます。
右手おくの切妻屋根の建物には「相生山 千元院」とあり??マークがつきますが、参道入口には「札所七拾七番 佛乗院」とあります。
その先の山門には「相生山 千元院」とあり、どうやらふたつの号を号されているようです。

参道沿いに「南無相生大権現」の登りが並び、神仏習合の趣きがあります。
丹沢周辺には山気横溢するパワスポ的な寺院が多いですが、こちらもそのようなイメージがあります。

山門は簡素な二脚門で、門柱に札所板を掲げています。


【写真 上(左)】 御寶号碑
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 御府内霊場札所標-2
【写真 下(右)】 相生大明神と本堂

石段を登ると右手に相生大明神。
『寺社書上』にある「鎮守八幡稲荷合社」と系譜がつながるかは不明です。

その先右奥の木立の下には水垢離場や小祠、お不動様の石像などが建ち並び、修験道場的なオーラを発しています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 本堂

本堂はその先階段の上で、手前に観世音菩薩立像(平和観音)が御座します。
本堂は入母屋造妻入りかと思いますが、全貌がつかめないので断言できません。

手前に大きく張り出した向拝屋根。
雨の多い丹沢では、しっかり雨粒を防げるこのくらいの屋根が必要なのでしょう。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に本蟇股を置き、向拝見上げには山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 御朱印案内
【写真 下(右)】 簑庵

御朱印は本堂向かって左手奥の庫裡にて拝受しました。
なお、山内掲示の 御朱印案内によると、ご不在の場合御朱印は郵送可能なようですが、やはり事前にTEL問いしてからお伺いするのがベターかと思います。

なお、以前は山内に割烹料理「蓑庵」がありましたが、現況の営業状況は不明です。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に千手観世音菩薩のお種子「キリク」「千住観音」「弘法大師」の揮毫と札番付の「キリク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「七十七番」の札所印。
左下に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-26


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ Airport - 今井優子


■ 泣きたかった - 今井美樹


■Just Be Yourself - 杏里
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