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関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 鎌倉市の御朱印-22 (C.極楽寺口-5)
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)から。
60.霊鷲山 感応院 極楽律寺(ごくらくりつじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
鎌倉市極楽寺3-6-7
真言律宗西大寺派
御本尊:釈迦如来
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第22番、相州二十一ヶ所霊場第14番、鎌倉十三仏霊場第12番(大日如来)、東国花の寺百ヶ寺霊場鎌倉第1番
※鎌倉二十四地蔵霊場第20番導地蔵尊、同第21番月影地蔵尊を護持
極楽律寺は真言律宗の名刹で極楽寺とも呼ばれます。
鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。
極楽寺の開基は北条重時、開山は忍性菩薩(良觀上人)とされますが、草創はそれ以前に遡るとみられています。
Wikipedia等によると『極楽寺縁起』には「深沢(現・鎌倉市西部)に創建された念仏系の寺院(開山正永和尚)」が草創とあるようです。
(『極楽寺由緒沿革書』には永久年間(1113-1118年)、僧勝覚の創建とあるとも。)
また、『元亨釋書』には正嘉(1257-1259年)の頃に一沙門が一宇を建て、丈六の彌陀像を安して極楽寺を号したとあり、極楽寺の草創については諸説あります。
鎌倉幕府2代執権・北条義時の三男で幕府連署であった重時(極楽寺殿)は、この極楽寺が寺域が狭く整備も足りないことから、正元元年(1259年)忍性菩薩(良観上人・良観房)に諮ったところ、西南の「地獄谷」と呼ばれる霊場こそ招提すべき地であるとの教示を得ました。
重時は早速地獄谷の地に極楽寺を遷し、自身が開基となりました。
重時は建長八年(1256年)に出家し、(今の)極楽寺の山庄に隠居しているので、隠居後に極楽寺を開基していることになります。
『吾妻鏡』には、重時は弘長元年(1261年)6月病に倒れるも、鶴岡八幡宮別当隆弁の加持により回復したとあります。
『新編鎌倉志』には「発病の始より、萬事を擲ち、一心念佛正念にして終る」とあり、重時は往生まで極楽寺にて念佛三昧で過ごしたことになります。
弘長元年(1261年)11月3日逝去。
重時の子長時(鎌倉幕府6代執権)・業時兄弟は極楽寺を修営したとあり、子院四十九院を擁して伽藍は壮麗をきわめたといいます。
(雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系』第40巻,雄山閣,昭7-8. 国立国会図書館デジタルコレクションより転載/インターネット公開(保護期間満了))
『新編相模國風土記稿』収録の「極楽寺古繪図」には伽藍が立ち並ぶ山内が描かれ、一大霊地を構成していたことがわかります。
最盛期には現在の極楽寺のみならず、稲村ヶ崎小学校の建つ谷一帯が極楽寺の山内で、現在江ノ電が走る極楽寺川沿いの谷には病者・貧者救済の施設があったとみられます。
(現・立稲村ケ崎小学校が最盛期の中心伽藍の地とみられています。)
『吾妻鏡』には、重時の三回忌法要は弘長三年(1263年)極楽寺で西山浄土宗の宗観房を導師として催行とあり、この時点では極楽寺は浄土教系寺院との見方があります。
しかし文永四年(1267年)8月に忍性菩薩を請して開山とし、当寺に移住した時点では「真言律(宗)」に改めていたとみられます。
忍性(にんしょう、忍性菩薩、1217-1303年)は、通称良観とも呼ばれます。
大和国の生まれで、幼くして文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊から真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いだといいます。
聖徳太子の「四箇院の制」に感銘を受け、とくに病者に薬を施す施薬院、病者を収容治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院を重んじ、社会的弱者の救済に尽力したことで知られています。
弘長二年(1262年)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、文永四年(1267年)8月には極楽寺を開山しています。
師の叡尊は、忍性の生来の慈悲心が弱者救済に適していると見抜き、この役割を忍性に託したという見方があります。
実際、忍性が開山した極楽寺山内にも療病院、悲田院、癩宿などが設けられています。
忍性は道路の改修や橋梁の架設などを行い、極楽寺坂切通を拓いたのも忍性と伝わることから、忍性は優れた土木技術を持つ人々を抱えていたとみられています。
忍性の多岐にわたる功績は広く称えられ、嘉元元年(1303年)87歳で示寂の後、後醍醐帝より菩薩号を贈られています。
忍性菩薩、そして極楽寺を語るとき、「真言律(宗)」は外せないのでこれについてまとめてみます。
「真言律(宗)」については、■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9の第28番霊雲寺で整理しているので、ほぼそこからの再掲となります。
真言律(宗)とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。
弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。
→ ■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)
真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。
以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。
叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。
叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。
『新編相模國風土記稿』には「弘安四年(1281年)勅に拠て蒙古降伏の御教書を下されしかば性(忍性)護国の法を修し蒙古退散す、時宗是功を奏聞して当寺(極楽寺)を御願場とす」とあります。
江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。
明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。
真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。
元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。
この点からしても、中世の極楽寺は勅願祈願寺としての性格も強かったとみられます。
なお、鎌倉と律宗との関係をみるとき、願行上人憲静(1215-1295年)の存在は欠かせません。
願行上人は北京律(ほっきょうりつ)の法統とされますが、真言律宗の名刹、金沢の称名寺とも関係があったとみられており、極楽寺ともなんらかの関係があったのかもしれませんが、調べた限りでは詳細不明です。
→ 関係記事(■ 鎌倉市の御朱印-7)
極楽寺に戻ります。
元弘三年(1333年)には後醍醐帝の綸旨を賜り寺領を安堵され後醍醐帝の勅願所となりましたが、その後度重なる戦乱や火災により寺勢は衰微しました。
天正十九年(1591年)、徳川家康公より九貫五百文の朱印地を得たものの、再び荒廃し、一時無住の時期もあったといいます。
天保十二年(1841年)成立の『新編相模国風土記稿』には「塔頭 吉祥院 古昔は四十九院あり、今当院のみ現在す」とあり、最盛期には49を数えた子院が、天保にはわずか1院となったことがわかります。
そのなかには他地へ移った寺院もあるとみられます。
たとえば、横浜市港北区新羽の西方寺の公式Webには「極楽寺の一院として存在した西方寺は、極楽寺坂切り通しの北側崖上にあり、その付近が古図に示す西方寺の所在と一致し、歴代住侶の墓石十基ほどを残し今も存在し、西方寺跡とされています。」「極楽寺より西方寺が移転されたのは、明応年間(1492)で今から五百年ほど前のこと」とあり、極楽寺の一院であったことを明記しています。
【写真 上(左)】 西方寺
【写真 下(右)】 西方寺の御朱印
栄枯盛衰の歴史を辿った極楽寺ですが近世に復興し、複数の霊場の札所も兼ねて、いまは多くの拝観客が訪れています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
極楽寺
極楽寺、霊山山と号す。眞言律にて、南都西大寺の末寺なり。開山は、忍性菩薩、良觀上人と号す。
当寺は、陸奧守平重時が建立なり。重時を極楽寺と号し、法名觀覺と云。【東鑑】に、弘長元年(1261年)十一月三日、平重時卒す。年六十四、時に極楽寺の別業に住す。発病の始より、萬事を擲ち、一心念佛正念にして終るとあり。按ずるに、【元亨釋書】に、初め正嘉(1257-1259年)中に沙門あり。一宇を営で、丈六の彌陀の像を安ず。名て極楽寺と云。未落せずして亡す。平重時、其宇を今の地に遷して齋場とす。重時の子長時・同弟業時、力を戮て修營すとあり【帝王編年記】に、永仁六年(1298年)四月十日、関東の将軍家久明親王、御祈祷の為に、十三箇寺の寺領の違亂を停止、殺生禁断の事あり。相州鎌倉郡の極楽寺、其一つなり。
此寺、昔は四十九院ありしとなり。今吉祥院と云のみあり。寺領九貫五百文あり。又千服茶磨とて、大なる石磨、門を入右の方にあり。昔此寺繁昌なりしを、知らしめんが為なりといふ。
本堂
本尊は釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸したりといふ。十大弟子の像もあり。作者不知。
左に興正菩薩の木像、自作といふ。
右に忍性菩薩の木像、是も自作と云。
又文殊の坐像あり。古への文殊堂の本尊なりと云ふ。(略)
寺寶
九條袈裟 壹頂 乾陀穀子袈裟、東寺第三傳と書付あり。今按ずるに、乾陀穀子袈裟は、弘法大師の伝来にて、八祖相承とて、東寺の寶物なり。今此寺に所有は、其袈裟を摸したる、第三伝と見へたり。(中略)
二十五條袈裟 壹頂 紗なり。八幡大神の所持と云ふ。按ずるに八幡へ調進の物なり。(中略)
千體地藏 弘法作。本尊は、長一寸餘。千體は長五六分ばかり也。今皆紛失して纔に二三百ばかり残れり。
■ 『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
極楽寺
霊山山と号す。眞言・律、南都西大寺末なり。
開山は忍性菩薩良觀上人、開基は陸奧守重時が、法号をば極楽寺觀覺と称す。(中略)
古は谷々に四十九院ありしといふ。今は吉祥院といふ一院ばかり。
本堂
本尊釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸せしといふ。十大弟子の像もあり。作不知。
左に興正菩薩の自作の木像、右に忍性菩薩の是も自作の木像といふ。
文殊の坐像もあり。古への文殊堂の本尊なりといふ。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(山之内庄極楽寺村)極楽寺
霊鷲山感應院と号す。眞言律宗南都西大寺末。
北條陸奧守重時が草創なり、始正嘉(1257-1259年)中に一老衲ありて一宇を営み丈六の彌陀像を安じ、名づけて極楽寺と云ふ。然るに経営の功未だ完かずして老衲尋て寂しぬ
正元(1259-1260年)の初重時寺域の狭小なるを見て地を卜して新に創立せんと欲し僧忍性に議しけるに、性答て是より西南に当り地獄谷と云へる霊場あり、此地こそ招提の境なれと云て即性彼地に到り念誦す、須㬰にして感應あり、重時就て一宇を遷して斎場とす、地獄谷は今の境内なりと云ふ
重時の子武蔵守長時其弟業時等力を戮て修飾し、子院四十九院を構造す、堂宇壮麗に一刹となる
時に性(忍性)を請して開山始祖とす、文永四年(1267年)八月性(忍性)当寺に移住せり
弘安四年(1281年)勅に拠て蒙古降伏の御教書を下されしかば性(忍性)護国の法を修し蒙古退散す、時宗是功を奏聞して当寺を御願場とす
性(忍性)嘉元元年(1303年)七月十二日寂す 嘉暦三年(1328年)後醍醐帝性(忍性)の行徳を追崇ありて菩薩の号を賜ふ
元弘二年(1332年)六月勅願寺幷寺領安堵の事
其後堂宇漸く衰廃し、今は仏殿一宇塔頭一院のみ残れり
本尊釋迦 大像長六尺余、興正作、十大弟子の像を置く 毘首羯磨作、脇に興正菩薩 坐像自作長三尺及び聖徳太子の像 立像長二尺三寸余、運慶作、又文殊の像あり、古昔域内別堂に安ぜし本尊なりと云ふ
寺寶
乾陀穀子袈裟 一領 東寺第三傳とあり、元は京都東寺にありしに、永仁元年(1293年)十二月八日、当寺に贈りしとなり、今按ずるに、この袈裟は、東寺の寶物にて【元亨釋書】空海の伝に、弘安十四年正月勅以東寺賜空海乃置惠果所付、健陀國袈裟及念珠為寺鎮と載す、文字違へり健陀●は西域の國名なり(中略)
二十五條袈裟 一領 八幡太神の御袈裟と云へど、是は八幡宮へ調進せし物ならんと
北條陸奧守重時墓
寺後の山にあり、重時は左京太夫義時の三男なり、弘長元年(1263年)十一月三日当所別業に在て卒す、法名を觀覺極楽寺と称す
塔頭
吉祥院 古昔は四十九院あり、今当院のみ現在す、本尊不動を置く 座像二尺五寸智證作
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 真言律宗
山号寺号 霊鷲山感応院極楽律寺
建立 正元元年(1259年)
開山 忍性菩薩
開基 北条重時
開山は良観房忍性。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長二年(一二六二)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、その後文永四年(一二六七)に極楽寺に開山として迎えられました。
極楽寺は正元元年(一二五九)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。
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【写真 上(左)】 極楽寺駅
【写真 下(右)】 極楽寺駅ホームから
江ノ電「極楽寺」駅至近でホームから見えます。
駅の出口は反対側なので、桜橋で江ノ電の線路を渡って「導地蔵尊」の前を左に折れるとすぐです。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標と墓標
少しく引きこんで山門。
手入れの行き届いた植栽、落ち着いたただずまいは鎌倉の名刹ならではのもの。
こちらは以前は境内撮影禁止でしたが、現在は解除されている模様です。
解除後参拝しておらず、山内の写真がまったくないので、↓の動画を参考にご案内します。
■ 極楽寺駅周辺と極楽寺 (鎌倉市極楽寺)
山門手前左に、開山忍性菩薩・開基北条重時の墓標と寺号標。
山門は趣ある茅葺屋根。左右に脇塀を備えた四脚門で、見上げに山号扁額を掲げています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を置く堂々たる山門です。
主門は柵で閉ざされているので脇門の木戸から入内します。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
山門から真っ直ぐに桜並木の石畳参道が伸び、正面が本堂。
参道右手に大師堂と転法輪殿(収納庫)。
参道左手には客殿、納経所と本堂よこに資料館があります。
【写真 上(左)】 冬の山内
【写真 下(右)】 山門から本堂
度重なる天災や兵火のため当初の伽藍は失われ、現在は文久三年(1863年)再建の山門、本堂、大師堂、客殿がメインです。
西側山手には忍性塔があり、こちらは奥の院となっています。
忍性塔は高さ3.57メートルの大型の石造五輪塔で、納置品から嘉元三年(1303年)頃の建塔とみられ、国の重要文化財に指定されています。
通常は非公開で、毎年4月8日のみ公開の模様。
塔内納置品は良観房忍性和尚と同二世賢明房慈済和尚の舎利容器であることから、忍性の墓塔ともいわれます。こちらも国の重要文化財に指定されています。
五輪塔(伝・忍公塔、非公開)は忍性塔の右方にある石造五輪塔で、かつては北条重時の墓塔とされ、昭和2年国の史跡に指定されました。
しかし、昭和36年の豪雨で塔が倒れた際、塔内から発見された納置品より当山3世善願坊順忍と比丘尼禅忍の供養塔であることが判明しています。
忍性塔の周囲にある宝篋印塔が北条重時の墓塔とみる説もあります。
大師堂は宝形造銅板瓦棒葺で向拝柱はありません。
鎌倉二十四地蔵霊場第22番、相州二十一ヶ所霊場第14番の札所板が掲げられ、霊場拝所となっています。
【写真 上(左)】 鎌倉観音霊場札所板
【写真 下(右)】 同 札所標
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場札所板-1
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所板-2
鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印には「常磐御前念持佛」の印判がありますが、これを裏付ける史料はみつかりませんでした。
転法輪殿(収納庫)はがっしりとした近代建築で、御本尊である秘仏「清凉寺式釈迦如来」、伝来の木造十大弟子像、木造釈迦如来坐像などが収納されています。
本堂はおそらく宝形造銅板葺流れ向拝で四周に高欄をまわし、屋根勾配が急な特徴ある意匠です。
頂部露盤には北条氏の家紋「三つ鱗紋」とおぼしき紋が刻まれています。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。
Wikipediaによると、
本堂の須弥壇中央に不動明王坐像、向かって右に薬師如来坐像、左に文殊菩薩坐像を安置。右奥には忍性像、左奥には興正菩薩(叡尊)像を安置するとのこと。
文殊菩薩坐像はかつてあった文殊堂の御本尊ゆかりの像とみられ、忍性像、興正菩薩(叡尊)像も史料にあらわれています。
不動明王坐像は平安時代末期の作といい、島根県の勝達寺から大正5年に移されたとの由。
向拝に地蔵尊のご縁日が張り出されているので、地蔵尊も奉安とみられます。
通常本堂内は非公開で、4月7日-9日のみ入堂できるようです。
なお、史料に見える聖徳太子像(伝運慶作)、弘法大師が師の惠果阿闍梨から贈られた乾陀穀子袈裟(東寺蔵)の写し(?)などについては所在の調べがつきませんでした。
あるいは、転法輪殿(収納庫)か資料館に収蔵されているのかもしれません。
本堂前には「不許葷酒肉入山門」と刻した戒壇石。戒律の厳しい真言律宗らしい標石です。
本堂向かって右前には「千眼茶臼」「製茶鉢」。
開山の忍性菩薩が悲田院、施益院などを設置されたときに使用されたものと伝わります。
参道右手、授与所前には子育地蔵尊の露仏が御座、参道山門寄り左手には忍性菩薩が粥を施すために使用したという「極楽寺の井」もあります。
御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受できます。
複数の霊場札所を兼務されているので、霊場申告は必須です。
また、鎌倉二十四地蔵霊場第20番の導地蔵尊、同第21番の月影地蔵尊の御朱印もこちらで拝受できますが、当然先にお参りしてからの申告となります。
〔 極楽律寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 東国花の寺霊場の御朱印(御本尊)
【写真 下(右)】 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印(専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳)
鎌倉十三仏霊場の御朱印
61.導地蔵堂(みちびきじぞうどう)
鎌倉市極楽寺2-2-2
真言律宗西大寺派?
御本尊:地蔵菩薩
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第20番
※御朱印は極楽律寺にて授与。
導地蔵堂は導地蔵尊を安する鎌倉二十四地蔵霊場第20番の札所で、極楽寺地蔵尊とも呼ばれます。
『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)、下記の史料などを参考に縁起沿革を追ってみます。
導地蔵堂は文永四年(1267年)、極楽寺の忍性が運慶作の地蔵像を安置したのが創始といわれています。
『新編相模國風土記稿』には「(山之内庄極楽寺村)地蔵堂二 一は運慶の作佛を安ず、極楽寺持、一は行基の作像を置く、極楽寺・成就院両寺持」とあり、おそらく前者の「運慶の作佛」が導地蔵尊とみられます。
子育てに霊験あらたかで、この地蔵尊の視野の中にいる子どもたちを災難から守るとされることから「導(き)地蔵」と呼ばれます。
幼い子の宮参りの帰りにはこの地蔵尊に赤飯を供え、子の安全成長を祈るのがこのあたりの風習といいます。
鎌倉時代~室町にかけて戦火に遭うも、室町時代に地蔵尊を新たに造立、堂宇に安置されたといいます。
なお、極楽寺の忍性については、60.極楽律寺の記事をご覧ください。
当尊については史料・資料がすこぶる少なく、この程度しかご紹介できません。
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【史料・資料】
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(山之内庄極楽寺村)地蔵堂二
一は運慶の作佛を安ず、極楽寺持、一は行基の作像を置く、極楽寺・成就院両寺持。
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江ノ電「極楽寺」駅至近です。
駅の出口は反対側、桜橋で江ノ電の線路を渡るとすぐに「導地蔵堂」があります。
山肌を背に、寄棟造で朱色の銅板本瓦棒葺の大ぶりな堂宇です。
【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2
屋根は二重で、下の屋根は雨よけになっており、縁側には観光客が座って休んでいました。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝
身舎に「導地蔵」の板がかかり、地蔵堂であることがわかります。
扉は開いている場合があり、そのときはお厨子のなかに御座す木立像の導地蔵尊を拝せます。
大きな瞳で前方を見つめられ、子供の安全を見守られているかのようです。
【写真 上(左)】 尊格板
【写真 下(右)】 導地蔵尊
御朱印は極楽寺でいただけますが、当然先にお参りしてからの拝受となります。
〔 導地蔵堂(鎌倉二十四地蔵霊場)の御朱印 〕
→ ■ 鎌倉市の御朱印-23 (C.極楽寺口-6)へつづく。
【 BGM 】
■ Bobby Caldwell - What You Won't Do For Love
〔 From 『Bobby Caldwell』(1978)〕
■ Natalie Cole - Split Decision
〔 From 『Everlasting』(1987)〕
■ King Of Hearts - Don't Call My Name
〔 From 『King Of Hearts』(1994)〕
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)から。
60.霊鷲山 感応院 極楽律寺(ごくらくりつじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
鎌倉市極楽寺3-6-7
真言律宗西大寺派
御本尊:釈迦如来
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第22番、相州二十一ヶ所霊場第14番、鎌倉十三仏霊場第12番(大日如来)、東国花の寺百ヶ寺霊場鎌倉第1番
※鎌倉二十四地蔵霊場第20番導地蔵尊、同第21番月影地蔵尊を護持
極楽律寺は真言律宗の名刹で極楽寺とも呼ばれます。
鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。
極楽寺の開基は北条重時、開山は忍性菩薩(良觀上人)とされますが、草創はそれ以前に遡るとみられています。
Wikipedia等によると『極楽寺縁起』には「深沢(現・鎌倉市西部)に創建された念仏系の寺院(開山正永和尚)」が草創とあるようです。
(『極楽寺由緒沿革書』には永久年間(1113-1118年)、僧勝覚の創建とあるとも。)
また、『元亨釋書』には正嘉(1257-1259年)の頃に一沙門が一宇を建て、丈六の彌陀像を安して極楽寺を号したとあり、極楽寺の草創については諸説あります。
鎌倉幕府2代執権・北条義時の三男で幕府連署であった重時(極楽寺殿)は、この極楽寺が寺域が狭く整備も足りないことから、正元元年(1259年)忍性菩薩(良観上人・良観房)に諮ったところ、西南の「地獄谷」と呼ばれる霊場こそ招提すべき地であるとの教示を得ました。
重時は早速地獄谷の地に極楽寺を遷し、自身が開基となりました。
重時は建長八年(1256年)に出家し、(今の)極楽寺の山庄に隠居しているので、隠居後に極楽寺を開基していることになります。
『吾妻鏡』には、重時は弘長元年(1261年)6月病に倒れるも、鶴岡八幡宮別当隆弁の加持により回復したとあります。
『新編鎌倉志』には「発病の始より、萬事を擲ち、一心念佛正念にして終る」とあり、重時は往生まで極楽寺にて念佛三昧で過ごしたことになります。
弘長元年(1261年)11月3日逝去。
重時の子長時(鎌倉幕府6代執権)・業時兄弟は極楽寺を修営したとあり、子院四十九院を擁して伽藍は壮麗をきわめたといいます。
(雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系』第40巻,雄山閣,昭7-8. 国立国会図書館デジタルコレクションより転載/インターネット公開(保護期間満了))
『新編相模國風土記稿』収録の「極楽寺古繪図」には伽藍が立ち並ぶ山内が描かれ、一大霊地を構成していたことがわかります。
最盛期には現在の極楽寺のみならず、稲村ヶ崎小学校の建つ谷一帯が極楽寺の山内で、現在江ノ電が走る極楽寺川沿いの谷には病者・貧者救済の施設があったとみられます。
(現・立稲村ケ崎小学校が最盛期の中心伽藍の地とみられています。)
『吾妻鏡』には、重時の三回忌法要は弘長三年(1263年)極楽寺で西山浄土宗の宗観房を導師として催行とあり、この時点では極楽寺は浄土教系寺院との見方があります。
しかし文永四年(1267年)8月に忍性菩薩を請して開山とし、当寺に移住した時点では「真言律(宗)」に改めていたとみられます。
忍性(にんしょう、忍性菩薩、1217-1303年)は、通称良観とも呼ばれます。
大和国の生まれで、幼くして文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊から真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いだといいます。
聖徳太子の「四箇院の制」に感銘を受け、とくに病者に薬を施す施薬院、病者を収容治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院を重んじ、社会的弱者の救済に尽力したことで知られています。
弘長二年(1262年)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、文永四年(1267年)8月には極楽寺を開山しています。
師の叡尊は、忍性の生来の慈悲心が弱者救済に適していると見抜き、この役割を忍性に託したという見方があります。
実際、忍性が開山した極楽寺山内にも療病院、悲田院、癩宿などが設けられています。
忍性は道路の改修や橋梁の架設などを行い、極楽寺坂切通を拓いたのも忍性と伝わることから、忍性は優れた土木技術を持つ人々を抱えていたとみられています。
忍性の多岐にわたる功績は広く称えられ、嘉元元年(1303年)87歳で示寂の後、後醍醐帝より菩薩号を贈られています。
忍性菩薩、そして極楽寺を語るとき、「真言律(宗)」は外せないのでこれについてまとめてみます。
「真言律(宗)」については、■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9の第28番霊雲寺で整理しているので、ほぼそこからの再掲となります。
真言律(宗)とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。
弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。
→ ■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)
真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。
以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。
叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。
叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。
『新編相模國風土記稿』には「弘安四年(1281年)勅に拠て蒙古降伏の御教書を下されしかば性(忍性)護国の法を修し蒙古退散す、時宗是功を奏聞して当寺(極楽寺)を御願場とす」とあります。
江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。
明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。
真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。
元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。
この点からしても、中世の極楽寺は勅願祈願寺としての性格も強かったとみられます。
なお、鎌倉と律宗との関係をみるとき、願行上人憲静(1215-1295年)の存在は欠かせません。
願行上人は北京律(ほっきょうりつ)の法統とされますが、真言律宗の名刹、金沢の称名寺とも関係があったとみられており、極楽寺ともなんらかの関係があったのかもしれませんが、調べた限りでは詳細不明です。
→ 関係記事(■ 鎌倉市の御朱印-7)
極楽寺に戻ります。
元弘三年(1333年)には後醍醐帝の綸旨を賜り寺領を安堵され後醍醐帝の勅願所となりましたが、その後度重なる戦乱や火災により寺勢は衰微しました。
天正十九年(1591年)、徳川家康公より九貫五百文の朱印地を得たものの、再び荒廃し、一時無住の時期もあったといいます。
天保十二年(1841年)成立の『新編相模国風土記稿』には「塔頭 吉祥院 古昔は四十九院あり、今当院のみ現在す」とあり、最盛期には49を数えた子院が、天保にはわずか1院となったことがわかります。
そのなかには他地へ移った寺院もあるとみられます。
たとえば、横浜市港北区新羽の西方寺の公式Webには「極楽寺の一院として存在した西方寺は、極楽寺坂切り通しの北側崖上にあり、その付近が古図に示す西方寺の所在と一致し、歴代住侶の墓石十基ほどを残し今も存在し、西方寺跡とされています。」「極楽寺より西方寺が移転されたのは、明応年間(1492)で今から五百年ほど前のこと」とあり、極楽寺の一院であったことを明記しています。
【写真 上(左)】 西方寺
【写真 下(右)】 西方寺の御朱印
栄枯盛衰の歴史を辿った極楽寺ですが近世に復興し、複数の霊場の札所も兼ねて、いまは多くの拝観客が訪れています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
極楽寺
極楽寺、霊山山と号す。眞言律にて、南都西大寺の末寺なり。開山は、忍性菩薩、良觀上人と号す。
当寺は、陸奧守平重時が建立なり。重時を極楽寺と号し、法名觀覺と云。【東鑑】に、弘長元年(1261年)十一月三日、平重時卒す。年六十四、時に極楽寺の別業に住す。発病の始より、萬事を擲ち、一心念佛正念にして終るとあり。按ずるに、【元亨釋書】に、初め正嘉(1257-1259年)中に沙門あり。一宇を営で、丈六の彌陀の像を安ず。名て極楽寺と云。未落せずして亡す。平重時、其宇を今の地に遷して齋場とす。重時の子長時・同弟業時、力を戮て修營すとあり【帝王編年記】に、永仁六年(1298年)四月十日、関東の将軍家久明親王、御祈祷の為に、十三箇寺の寺領の違亂を停止、殺生禁断の事あり。相州鎌倉郡の極楽寺、其一つなり。
此寺、昔は四十九院ありしとなり。今吉祥院と云のみあり。寺領九貫五百文あり。又千服茶磨とて、大なる石磨、門を入右の方にあり。昔此寺繁昌なりしを、知らしめんが為なりといふ。
本堂
本尊は釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸したりといふ。十大弟子の像もあり。作者不知。
左に興正菩薩の木像、自作といふ。
右に忍性菩薩の木像、是も自作と云。
又文殊の坐像あり。古への文殊堂の本尊なりと云ふ。(略)
寺寶
九條袈裟 壹頂 乾陀穀子袈裟、東寺第三傳と書付あり。今按ずるに、乾陀穀子袈裟は、弘法大師の伝来にて、八祖相承とて、東寺の寶物なり。今此寺に所有は、其袈裟を摸したる、第三伝と見へたり。(中略)
二十五條袈裟 壹頂 紗なり。八幡大神の所持と云ふ。按ずるに八幡へ調進の物なり。(中略)
千體地藏 弘法作。本尊は、長一寸餘。千體は長五六分ばかり也。今皆紛失して纔に二三百ばかり残れり。
■ 『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
極楽寺
霊山山と号す。眞言・律、南都西大寺末なり。
開山は忍性菩薩良觀上人、開基は陸奧守重時が、法号をば極楽寺觀覺と称す。(中略)
古は谷々に四十九院ありしといふ。今は吉祥院といふ一院ばかり。
本堂
本尊釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸せしといふ。十大弟子の像もあり。作不知。
左に興正菩薩の自作の木像、右に忍性菩薩の是も自作の木像といふ。
文殊の坐像もあり。古への文殊堂の本尊なりといふ。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(山之内庄極楽寺村)極楽寺
霊鷲山感應院と号す。眞言律宗南都西大寺末。
北條陸奧守重時が草創なり、始正嘉(1257-1259年)中に一老衲ありて一宇を営み丈六の彌陀像を安じ、名づけて極楽寺と云ふ。然るに経営の功未だ完かずして老衲尋て寂しぬ
正元(1259-1260年)の初重時寺域の狭小なるを見て地を卜して新に創立せんと欲し僧忍性に議しけるに、性答て是より西南に当り地獄谷と云へる霊場あり、此地こそ招提の境なれと云て即性彼地に到り念誦す、須㬰にして感應あり、重時就て一宇を遷して斎場とす、地獄谷は今の境内なりと云ふ
重時の子武蔵守長時其弟業時等力を戮て修飾し、子院四十九院を構造す、堂宇壮麗に一刹となる
時に性(忍性)を請して開山始祖とす、文永四年(1267年)八月性(忍性)当寺に移住せり
弘安四年(1281年)勅に拠て蒙古降伏の御教書を下されしかば性(忍性)護国の法を修し蒙古退散す、時宗是功を奏聞して当寺を御願場とす
性(忍性)嘉元元年(1303年)七月十二日寂す 嘉暦三年(1328年)後醍醐帝性(忍性)の行徳を追崇ありて菩薩の号を賜ふ
元弘二年(1332年)六月勅願寺幷寺領安堵の事
其後堂宇漸く衰廃し、今は仏殿一宇塔頭一院のみ残れり
本尊釋迦 大像長六尺余、興正作、十大弟子の像を置く 毘首羯磨作、脇に興正菩薩 坐像自作長三尺及び聖徳太子の像 立像長二尺三寸余、運慶作、又文殊の像あり、古昔域内別堂に安ぜし本尊なりと云ふ
寺寶
乾陀穀子袈裟 一領 東寺第三傳とあり、元は京都東寺にありしに、永仁元年(1293年)十二月八日、当寺に贈りしとなり、今按ずるに、この袈裟は、東寺の寶物にて【元亨釋書】空海の伝に、弘安十四年正月勅以東寺賜空海乃置惠果所付、健陀國袈裟及念珠為寺鎮と載す、文字違へり健陀●は西域の國名なり(中略)
二十五條袈裟 一領 八幡太神の御袈裟と云へど、是は八幡宮へ調進せし物ならんと
北條陸奧守重時墓
寺後の山にあり、重時は左京太夫義時の三男なり、弘長元年(1263年)十一月三日当所別業に在て卒す、法名を觀覺極楽寺と称す
塔頭
吉祥院 古昔は四十九院あり、今当院のみ現在す、本尊不動を置く 座像二尺五寸智證作
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 真言律宗
山号寺号 霊鷲山感応院極楽律寺
建立 正元元年(1259年)
開山 忍性菩薩
開基 北条重時
開山は良観房忍性。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長二年(一二六二)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、その後文永四年(一二六七)に極楽寺に開山として迎えられました。
極楽寺は正元元年(一二五九)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。
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【写真 上(左)】 極楽寺駅
【写真 下(右)】 極楽寺駅ホームから
江ノ電「極楽寺」駅至近でホームから見えます。
駅の出口は反対側なので、桜橋で江ノ電の線路を渡って「導地蔵尊」の前を左に折れるとすぐです。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標と墓標
少しく引きこんで山門。
手入れの行き届いた植栽、落ち着いたただずまいは鎌倉の名刹ならではのもの。
こちらは以前は境内撮影禁止でしたが、現在は解除されている模様です。
解除後参拝しておらず、山内の写真がまったくないので、↓の動画を参考にご案内します。
■ 極楽寺駅周辺と極楽寺 (鎌倉市極楽寺)
山門手前左に、開山忍性菩薩・開基北条重時の墓標と寺号標。
山門は趣ある茅葺屋根。左右に脇塀を備えた四脚門で、見上げに山号扁額を掲げています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を置く堂々たる山門です。
主門は柵で閉ざされているので脇門の木戸から入内します。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
山門から真っ直ぐに桜並木の石畳参道が伸び、正面が本堂。
参道右手に大師堂と転法輪殿(収納庫)。
参道左手には客殿、納経所と本堂よこに資料館があります。
【写真 上(左)】 冬の山内
【写真 下(右)】 山門から本堂
度重なる天災や兵火のため当初の伽藍は失われ、現在は文久三年(1863年)再建の山門、本堂、大師堂、客殿がメインです。
西側山手には忍性塔があり、こちらは奥の院となっています。
忍性塔は高さ3.57メートルの大型の石造五輪塔で、納置品から嘉元三年(1303年)頃の建塔とみられ、国の重要文化財に指定されています。
通常は非公開で、毎年4月8日のみ公開の模様。
塔内納置品は良観房忍性和尚と同二世賢明房慈済和尚の舎利容器であることから、忍性の墓塔ともいわれます。こちらも国の重要文化財に指定されています。
五輪塔(伝・忍公塔、非公開)は忍性塔の右方にある石造五輪塔で、かつては北条重時の墓塔とされ、昭和2年国の史跡に指定されました。
しかし、昭和36年の豪雨で塔が倒れた際、塔内から発見された納置品より当山3世善願坊順忍と比丘尼禅忍の供養塔であることが判明しています。
忍性塔の周囲にある宝篋印塔が北条重時の墓塔とみる説もあります。
大師堂は宝形造銅板瓦棒葺で向拝柱はありません。
鎌倉二十四地蔵霊場第22番、相州二十一ヶ所霊場第14番の札所板が掲げられ、霊場拝所となっています。
【写真 上(左)】 鎌倉観音霊場札所板
【写真 下(右)】 同 札所標
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場札所板-1
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所板-2
鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印には「常磐御前念持佛」の印判がありますが、これを裏付ける史料はみつかりませんでした。
転法輪殿(収納庫)はがっしりとした近代建築で、御本尊である秘仏「清凉寺式釈迦如来」、伝来の木造十大弟子像、木造釈迦如来坐像などが収納されています。
本堂はおそらく宝形造銅板葺流れ向拝で四周に高欄をまわし、屋根勾配が急な特徴ある意匠です。
頂部露盤には北条氏の家紋「三つ鱗紋」とおぼしき紋が刻まれています。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。
Wikipediaによると、
本堂の須弥壇中央に不動明王坐像、向かって右に薬師如来坐像、左に文殊菩薩坐像を安置。右奥には忍性像、左奥には興正菩薩(叡尊)像を安置するとのこと。
文殊菩薩坐像はかつてあった文殊堂の御本尊ゆかりの像とみられ、忍性像、興正菩薩(叡尊)像も史料にあらわれています。
不動明王坐像は平安時代末期の作といい、島根県の勝達寺から大正5年に移されたとの由。
向拝に地蔵尊のご縁日が張り出されているので、地蔵尊も奉安とみられます。
通常本堂内は非公開で、4月7日-9日のみ入堂できるようです。
なお、史料に見える聖徳太子像(伝運慶作)、弘法大師が師の惠果阿闍梨から贈られた乾陀穀子袈裟(東寺蔵)の写し(?)などについては所在の調べがつきませんでした。
あるいは、転法輪殿(収納庫)か資料館に収蔵されているのかもしれません。
本堂前には「不許葷酒肉入山門」と刻した戒壇石。戒律の厳しい真言律宗らしい標石です。
本堂向かって右前には「千眼茶臼」「製茶鉢」。
開山の忍性菩薩が悲田院、施益院などを設置されたときに使用されたものと伝わります。
参道右手、授与所前には子育地蔵尊の露仏が御座、参道山門寄り左手には忍性菩薩が粥を施すために使用したという「極楽寺の井」もあります。
御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受できます。
複数の霊場札所を兼務されているので、霊場申告は必須です。
また、鎌倉二十四地蔵霊場第20番の導地蔵尊、同第21番の月影地蔵尊の御朱印もこちらで拝受できますが、当然先にお参りしてからの申告となります。
〔 極楽律寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 東国花の寺霊場の御朱印(御本尊)
【写真 下(右)】 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印(専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳)
鎌倉十三仏霊場の御朱印
61.導地蔵堂(みちびきじぞうどう)
鎌倉市極楽寺2-2-2
真言律宗西大寺派?
御本尊:地蔵菩薩
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第20番
※御朱印は極楽律寺にて授与。
導地蔵堂は導地蔵尊を安する鎌倉二十四地蔵霊場第20番の札所で、極楽寺地蔵尊とも呼ばれます。
『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)、下記の史料などを参考に縁起沿革を追ってみます。
導地蔵堂は文永四年(1267年)、極楽寺の忍性が運慶作の地蔵像を安置したのが創始といわれています。
『新編相模國風土記稿』には「(山之内庄極楽寺村)地蔵堂二 一は運慶の作佛を安ず、極楽寺持、一は行基の作像を置く、極楽寺・成就院両寺持」とあり、おそらく前者の「運慶の作佛」が導地蔵尊とみられます。
子育てに霊験あらたかで、この地蔵尊の視野の中にいる子どもたちを災難から守るとされることから「導(き)地蔵」と呼ばれます。
幼い子の宮参りの帰りにはこの地蔵尊に赤飯を供え、子の安全成長を祈るのがこのあたりの風習といいます。
鎌倉時代~室町にかけて戦火に遭うも、室町時代に地蔵尊を新たに造立、堂宇に安置されたといいます。
なお、極楽寺の忍性については、60.極楽律寺の記事をご覧ください。
当尊については史料・資料がすこぶる少なく、この程度しかご紹介できません。
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【史料・資料】
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(山之内庄極楽寺村)地蔵堂二
一は運慶の作佛を安ず、極楽寺持、一は行基の作像を置く、極楽寺・成就院両寺持。
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江ノ電「極楽寺」駅至近です。
駅の出口は反対側、桜橋で江ノ電の線路を渡るとすぐに「導地蔵堂」があります。
山肌を背に、寄棟造で朱色の銅板本瓦棒葺の大ぶりな堂宇です。
【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2
屋根は二重で、下の屋根は雨よけになっており、縁側には観光客が座って休んでいました。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝
身舎に「導地蔵」の板がかかり、地蔵堂であることがわかります。
扉は開いている場合があり、そのときはお厨子のなかに御座す木立像の導地蔵尊を拝せます。
大きな瞳で前方を見つめられ、子供の安全を見守られているかのようです。
【写真 上(左)】 尊格板
【写真 下(右)】 導地蔵尊
御朱印は極楽寺でいただけますが、当然先にお参りしてからの拝受となります。
〔 導地蔵堂(鎌倉二十四地蔵霊場)の御朱印 〕
→ ■ 鎌倉市の御朱印-23 (C.極楽寺口-6)へつづく。
【 BGM 】
■ Bobby Caldwell - What You Won't Do For Love
〔 From 『Bobby Caldwell』(1978)〕
■ Natalie Cole - Split Decision
〔 From 『Everlasting』(1987)〕
■ King Of Hearts - Don't Call My Name
〔 From 『King Of Hearts』(1994)〕
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