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■ 鎌倉市の御朱印-23 (C.極楽寺口-6)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)
■ 同-22 (C.極楽寺口-5)から。


62.龍護山 満福寺(まんぷくじ)
公式Web

鎌倉市腰越2-4-8
真言宗大覚寺派
御本尊:薬師如来
司元別当:
札所:新四国東国八十八ヶ所霊場第84番、相州二十一ヶ所霊場第15番、相模国準四国八十八ヶ所霊場第50番、小田急武相三十三観音霊場第33番

稲村ヶ崎~七里ヶ浜周辺に寺社は少なく、霊光寺(日蓮宗)は参拝していますが御首題はいただけず、顕証寺(本門佛立宗)の御首題はWeb検索でヒットしません。
よって腰越にエリアを進めます。

満福寺は源義経公・辨慶ゆかりの寺院です。

公式Web、下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

天平十六年(744年)行基の開山と伝わる古刹で、古義真言宗手広村青蓮寺末といいます。
御本尊は行基御作の薬師如来、弘法大師御作の不動尊を安ずるとあります。

史料の多くは義経公とのゆかりに紙面をさいています。

源義経公(1159-1189年)は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の異母弟で、日本史上もっとも有名ともみられるその生涯については、ここではふかくなぞりません。

当山に関連ある事柄のみ、簡単に追ってみます。

治承八年2月(1184年)摂津一ノ谷で平氏を破った義経公は京に凱旋すると後白河法皇から厚遇を受け、頼朝公の許可なく法皇から検非違使・左衛門少尉の任官を受けました。
頼朝公はこれを怒り、義経公の平氏追討の任を解きました。

しかし、義経公解任後の戦況は思わしくなく、元暦二年(1185年)再び義経公を平氏追討に起用するや、義経公は讃岐屋島で見事な勝ち戦をおさめ、同年3月、長門壇ノ浦で平氏を滅ぼしました。

しかし同年4月、頼朝公は朝廷から勝手に任官を受けた義経公麾下の関東武者らを罵り、東国への帰還を禁じました。
平氏追討で義経公を補佐した梶原景時からは、義経公が平家追討の功を誇るあり様が書状で頼朝公に伝えられました。
軍監・景時の意見を聞かず独断専行で軍を進めたこと、兄の範頼公の所轄である九州へ無断で進出したことなども伝えられ、頼朝公の不興を買ったともいわれます。

同年5月、義経公は壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して京を立ち、鎌倉に凱旋しようとしました。
しかし義経公のあり様に不審を抱く頼朝公は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れ、義経公は腰越の満福寺に留め置かれました。

5月24日、義経公は満福寺で頼朝公に対し叛意のないことを切々と示す書状をしたため、頼朝公の側近大江広元に託しました。
これが有名な「腰越状」で、義経公の側近・辨慶が書いたという説もあります。

頼朝公は義経公を弟として正当に処遇し、その実力も認めていましたが、義経公の神がかった武略と声望の高まり、そして法皇との個人的な結びつきは、東国での武家政権樹立をめざす頼朝公にとって脅威となったことは想像に難くありません。

また、義経公が京で平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶ったことも、頼朝公の疑念を深めたという見方もあります。

6月9日、頼朝公が義経公に宗盛父子と平重衡を伴わせて帰京を命じると、鎌倉入りを果たせなかった義経公はこれを恨み、「関東に怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放ち、これを聞いた頼朝公は義経公の所領を没収したと伝わります。

なお、『愚管抄』、延慶本『平家物語』などは、義経公はじつは鎌倉入りを果たし頼朝公と対面している旨記しているようで、「腰越状」も後世の偽作との見方があります。

8月16日の除目で義経公は頼朝公の推挙により伊予守を拝任したといい、この時点では頼朝公と義経公の決裂は決定的ではなかったという見方があります。
しかし、義経公は伊予守拝任後も朝廷から頼朝公に無断で受けた検非違使・左衛門少尉を離任せず、これにより頼朝公との関係はついに破綻したという説もあります。

頼朝公は義経公の動向を監視すべく梶原景時の嫡男・景季を京に遣わすと同時に、木曽義仲に与力した叔父・源行家の追討を要請しました。

10月、義経公の行家同心を断じた頼朝公は義経公討伐を決意し、刺客として京へ送られた土佐坊昌俊らは堀川の義経邸を襲いました。(堀川夜討)
しかし義経公に行家勢が加勢して襲撃は失敗。
義経公は捕らえた土佐坊から頼朝公の命による襲撃と聞き及ぶと、行家と謀って頼朝公打倒の兵を挙げ、後白河法皇より頼朝公追討の院宣を得ています。
しかし、義経公への与力は思うように集まらず勢いなしとみるや、今度は法皇は義経公追討の院宣を出しています。

このあたりの前後関係や頼朝公の関与については諸説ありますが、義経公が政治に長けた法皇の動きに翻弄されている姿がうかがわれます。

11月1日、頼朝公率いる義経公追討軍が駿河国黄瀬川に達すると、義経公らは京を落ち船で九州へと向うも、暴風で難破して摂津に押し戻されました。
7日には伊予守、検非違使・左衛門尉などの官職を解任され、義経公と行家捕縛の院宣が下されました。

義経公は郎党や愛妾の静御前を連れて吉野に身を隠しましたが、ここでも追討を受け京に潜伏。
文治二年(1186年)になると叔父・行家、佐藤忠信、伊勢義盛などの郎党もつぎつぎと討ち取られました。

義経公の関東での後見人として義父の河越重頼がいましたが、重頼と嫡男重房も殺害され関東での後ろ盾も失いました。
文治三年(1187年)京に潜み切れなくなった義経公は、藤原秀衡を頼り奥州・平泉へと赴きました。

藤原秀衡は義経公を盛り立てる意思をもっていましたが文治三年(1187年)10月に病没。後継の泰衡は義経公を守り抜くことができず、文治五年(1189年)閏4月ついに義経公が拠る衣川館を襲撃、義経公や武蔵坊弁慶などの郎党は奮戦しましたがことごとく討死し、義経公はここに自害しました。(衣川の戦い)
享年31と伝わります。

義経公の首は鎌倉に送られ、和田義盛、梶原景時らによって首実検が腰越の浦で行われたといいます。
このことからも、腰越は義経公とゆかりをもつ地といえます。

満福寺には辨慶が書いたという「腰越状」の下書きとされる書状が所蔵され、山内には辨慶の腰掛石や手玉石など、義経公・辨慶ゆかりの品が遺ります。

寺前の池は、辨慶が「腰越状」を書く時に墨摺りの水を汲んだことから「硯池」と呼ばれ現存しています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
満福寺
満福寺は、腰越村の中にあり、龍護山と号す。眞言宗なり。
開山行基、本尊薬師 行基作・不動 弘法作
此寺地は、昔源義経、宿せられし所なりと云ふ。【東鑑】に、元暦二年(1185年)五月二十四日、源延尉義経、如思に朝敵を平げ訖ぬ。剰へ前内府平宗盛を相具して参上す。其賞兼て不疑處に、日来不儀の聞へ有るに依て、忽御気色を蒙り、鎌倉中に入られず。腰越の驛に於て、徒に日を捗るの間、愁鬱の余に、因幡前司廣元に付して、一通の疑状を頼朝へ奉つるとあり。其状の下書也とて、今寺にあり。辨慶が筆跡と云。状中の文字、【東鑑】に載たるとは所々異なり。或人云、新筆なり。辨慶が筆には非ずと。
硯池
寺の前にあり。相伝ふ義経の命にて、辨慶疑状を書し時、硯水を汲たる池なりと。池の端に辨慶が腰懸石とてあり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
萬福寺
腰越村の内なり。龍護山と号す。古義眞言宗、同國手廣青蓮寺末なり。
開山行基、本尊薬師如来 行基作。弘法大師作の不動尊を安ず。
此寺、義経の宿陣せられし事をいひ伝ふ。元暦二年(1185年)五月二十四日、源延尉義経、思ひの如く朝敵を平げ、剰へ屋島の内府平宗盛を相具して参り、其賞兼て疑はざる處に、不儀の聞へ有に依て、忽御気色を蒙り、鎌倉へ入られず、腰越の驛に於て徒に日を捗るの間、愁鬱の余り、因幡前司廣元に附して、一通の疑状を幕府え奉るといふ。其状の下書なりとて、今も此寺にあり。辨慶が筆なりといひ伝ふ。文書中【東鑑】に見えしとは異なる所もあり。辨慶が書けること覚束なし。
硯池
寺の前庭にあり。寺伝に、義経の仰に依て、辨慶が疑状を書たる時、硯水を汲し池といふ。又池の端に辨慶腰かけ松と名附るもあり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(腰越村)満福寺
龍護山醫王院と号す。古義眞言宗手廣村青蓮寺末。
開山は行基、中興は高範(承安三年(1173年)三月十六日寂す)
本尊は薬師なり 長三尺三寸、行基作、同作の日月光、十二神もありしが、寛文中、回禄に烏有せしとぞ。
不動 弘法作長八寸
十一面観音 同作、長二尺五寸
彌陀 定朝作、長一尺五寸 等を安ず。
文治元年五月延尉義経頼朝の不審を蒙りて鎌倉へ入られず、当所に滞留す。
当時●止宿の所なりと云ふ
此時大江廣元に就て呈せし疑状の草案なりとて今に蔵せり。古文書部に詳載す、世に腰越状と称す是なり、辨慶が書記せしと伝ふれどおぼつかなし
【寺宝】(抜粋)
薬師書像一幅 弘法筆
地蔵堂 天神社 辨天社
硯池
本堂の前にあり。是辨慶疑状を書し時、池水を汲て硯池に滴す故に此名ありと云ふ、池辺に腰掛石といふあり、辨慶が腰を掛し所といふ。

■ 山内掲示
龍護山満福寺と号し、開山は行基(668-749)と伝えられ、本尊は薬師如来像です。源義経(1159-89)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。-古義真言宗-

■ 山内掲示(鎌倉市教育委員会・鎌倉文学館)
源義経と腰越
鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官と称した。父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。
治承四年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄範頼とともに源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇ノ浦に平氏を壊滅させた。
しかし、頼朝との不和が深まり、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。この時、頼朝の勘気を晴らすため大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。

「平家物語」(巻第十二 腰越)には次のように記されている。
さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。

その申し状に曰く、
源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに選ばれね勅宣の御使として朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)

しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などの作品にもなり、現在でも「判官もの」として親しまれている。
中世には鎌倉と京とを結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉-大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。

■ 現地掲示(義経宿陣之趾/鎌倉市青年団)
文治元年(皇紀一八四五年) 五月
源義経朝敵ヲ平ラゲ 降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ
頼朝ノ不審ヲ蒙リ 鎌倉二入ルコトヲ許サレズ
腰越ノ驛二滞在シ 鬱憤ノ餘
因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ歎状ヲ呈セシコト東鑑ニ見ユ
世ニ言フ腰越状ハ 即チコレニシテ
其ノ下書ト傳ヘラルルモノ満福寺二存ス


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江ノ電「腰越」駅からもほど近く、駅前通りを南東に進んだところが参道入口。
ここにサイン類と「義経腰越状旧跡 満福寺」の寺号標があります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道入口のサイン類


【写真 上(左)】 寺号標-1
【写真 下(右)】 江ノ電と参道階段

ここから、江ノ電の踏切の向こうに山門と鐘楼、そして本堂の屋根が見えます。

踏切遮断機のすぐ脇から山門階段。江ノ電の線路に至近で、撮り鉄さんにはたまらないスポットでは?


【写真 上(左)】 幟
【写真 下(右)】 参道階段

階段脇に「義経腰越状旧跡 満福寺」の幟がはためき、雰囲気が高まります。


【写真 上(左)】 参道階段すぐ下に江ノ電
【写真 下(右)】 山門

階段の先に構える山門はおそらく入母屋屋根銅版葺の四脚門で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、梁上に四連の斗栱、軒に二軒の垂木を備えた豪壮なもの。
見上げに山号扁額、大棟には清和源氏の紋「笹龍胆」を掲げています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山門の寺号標


【写真 上(左)】 「義経宿陣之趾」の石碑
【写真 下(右)】 鐘楼

山門右手には、鎌倉市青年団建立の「義経宿陣之趾」の石碑。左手には鐘楼。
山門そばには「笛供養」の碑があり、これは笛を愛した義経公にちなむものと思われます。
「笛供養」の碑のよこには、ぼけ封じ祈願仏(おそらく地蔵尊と思われる)が御座します。

さほどの階段ではないのにかなり高低差を稼いでいるらしく、山内からは相模湾が見渡せます。

【写真 上(左)】 「笛供養」の碑とぼけ封じ祈願仏
【写真 下(右)】 山内からの相模湾


【写真 上(左)】 大師堂と札所碑
【写真 下(右)】 相州霊場札所碑-1

山内には大師堂があり、こちらが弘法大師霊場の拝所とみられます。
山内には相州二十一ヶ所霊場の札所を示す碑や板がいくつかあります。この霊場の札所標はあまり目にることがないので、これは貴重です。


【写真 上(左)】 相州霊場札所碑-2
【写真 下(右)】 相州霊場札所碑-3

山門くぐって正面が本堂。
入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。向拝上に端正な軒唐破風をおこしています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、頭貫から中備にかけて、じつに8つの斗を置いています。
身舎側に海老虹梁、中備の彫刻は「腰越状」書き上げの構図と思われます。


【写真 上(左)】 中備と兎の毛通しの彫刻
【写真 下(右)】 本堂扁額


【写真 上(左)】 相州霊場札所板-1
【写真 下(右)】 相州霊場札所板-2

その上兎の毛通しは朱雀の彫刻か、さらに唐破風上の鬼飾りには「笹竜胆」の紋が輝いています。
向拝正面桟唐戸の上には寺号扁額や相州二十一ヶ所霊場の札所板が掲げられ、見どころの多い本堂てす。


【写真 上(左)】 腰越状の石像と本堂
【写真 下(右)】 腰越状の石像

本堂向かって左には、義経公と辨慶の石像。辨慶が筆を執っているので、おそらく腰越状をしたためている場面と思われます。
その横に「弁慶の腰掛石」。
訪れたときは、マスコット?のおネコちゃんが座り込んでいました。


【写真 上(左)】 弁慶の腰掛石
【写真 下(右)】 おネコちゃん

本堂向かって右には慈悲観音立像と「弁慶の手玉石」。

本堂を拝観(有料)すると、腰越状(の下書き?)、義経公や静御前の襖絵、弁慶仁王立ちの絵などが間近で拝せるようですが、筆者は拝観しておりません。


【写真 上(左)】 弁慶の手玉石
【写真 下(右)】 硯の池(右)と義経公手洗の井戸(左)

本堂右手の山側には鎌倉七里ヶ浜霊園へ向かうトンネルがあり、その右手に「硯の池」、左手には義経公手洗の井戸があります。

「腰越」駅にも案内看板があり、道すがらもいくつかの案内サイン、参道まわりの幟、さらには腰越状の石像を置かれるなどサービス精神?が感じられるお寺さまです。


【写真 上(左)】 サイン-1
【写真 下(右)】 サイン-2


御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受できます。

こちらはかなり渋めの霊場札所を兼務されています。
相模国準四国八十八ヶ所霊場は湘南エリアの弘法大師霊場で文政四年(1821年)開創と伝わる歴史ある霊場ですが、現況は廃寺や札所異動も多く、御朱印はいただきにくい霊場となっています。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

小田急武相三十三観音霊場は小田急電鉄が主導して沿線の寺院を札所選定した観音霊場です。この霊場の札所印はなかなかレアですが、他霊場を兼務される札所が多く、御朱印じたいの拝受は比較的容易です。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)


〔 満福寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印

これまでに拝受している御朱印は以上の2点ですが、Web上では「千手観音」(新四国東国八十八ヶ所霊場第84番)、「十一面観音」(おそらく小田急武相三十三観音霊場第33番)の御朱印もヒットします。


63.小動神社(こゆるぎじんじゃ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
神奈川県神社庁Web

鎌倉市腰越2ー9ー12
御祭神:健速須佐之男命、建御名方神、日本武尊、歳徳神
旧社格:村社、旧腰越村鎮守、神饌幣帛料供進神社
元別当:浄泉寺(鎌倉市腰越、真言宗大覚寺(青蓮寺)末)

小動神社は八王子宮(はちおうじのみや)とも呼ばれ、源頼朝公の側近・佐々木盛綱の勧請と伝わります。

鎌倉公式観光ガイドWeb神奈川県神社庁Web、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

佐々木左兵衛尉盛綱(1151年-)は、近江国佐々木庄に拠った宇多源氏の棟梁・佐々木秀義の三男です。
秀義は平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝公に従うも敗れ、一門は関東へ落ちのび渋谷重国の庇護を受けました。
秀義には長男:定綱、次男:経高、三男:盛綱、四男:高綱、五男:義清などの優れた息子がおりました。
三男盛綱は16歳で伊豆國に配流された頼朝公に仕えました。

頼朝公の信任篤く、治承四年(1180年)8月、平氏打倒を決意した頼朝公に挙兵の計画を告げられたといいます。
治承四年(1180年)8月の山木館襲撃に加わり、加藤景廉とともに山木兼隆の首を獲ったといいます。

石橋山の戦いののちは渋谷重国の館に逃れ、頼朝公が兵を集めて鎌倉に入ると再び頼朝の麾下に参じ、富士川の戦いでも戦功をあげています。
元暦元年(1184年)、盛綱は平氏追討のため備前國児島に入り、平行盛ら五百余騎が籠もる城郭をわずか六騎で攻め落としたといいます。(藤戸の戦い)

平家滅亡後も頼朝公の側に仕え、公の寺社参詣や儀式、或いは上洛の随兵としてその名が多くみえます。
頼朝公没後の建久十年(1199年)3月に出家し西念と号しました。

なお、群馬県安中市磯部の松岸寺には佐々木盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔があります。
詳細はこちらの記事(■「鎌倉殿の13人」と御朱印-4)をご覧ください。

小動(こゆるぎ)の岬は江ノ島をのぞむ風光明媚な地で、この地に聳える「小動の松」は風もないのに枝葉が揺れ、常に妙音を琴瑟の如く発していたため、この銘木にちなみ「小動」を地名にしたといいます。

『八王子宮縁起』「鎌倉公式観光ガイドWeb」によると、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱は江の島弁財天への参詣の途中に当山に詣で、「小動の松」のあたりを散策して佳景を楽しみ、まことに神徳の地と詠嘆したそうです。
ここに「当山に詣で」とあるので、当地にはすでに寺社が存在した可能性があります。

現地掲示の『由緒略記』には「相模風土記に往時、弘仁年中(810-822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に神女影向あり」とあります。
弘法大師ゆかりの奇瑞の地とあっては、霊地として崇められのは自然な成り行きでは。

盛綱は平家追討中備州児島の戦で霊夢を感じて大勝し、その報賽のため故郷・近江國から八王子宮を勧請したのが当社の草創といいます。

盛綱の小動来訪は文治年中(1185-1190年)、児島の戦(藤戸の戦い)は元暦元年(1184年)なので時系列が合いませんが、おそらく以前から小動のパワスポぶりは知っていたのでは。
『吾妻鑑』には、盛綱が尊崇する近江國の八王子宮を勧請する地を探していたとあるので、小動のパワスポぶりを知り、藤戸の戦いの戦捷もあってこの地に八王子宮を勧請したのでは。

元弘三年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉攻めの際に当社に戦勝を祈願し、建武年間(1334-1338年)に社殿を再建したといい、義貞を中興とする史料もあります。
この戦勝祈願は稲村ヶ崎の戦いの際とみられ、小動は稲村ヶ崎より手前ですから、あるいは進路の潮が引く奇跡は八王子宮の霊験もあってのことかもしれず、この霊験を報賽して社殿再建がなされたのでは。
社殿は義貞が寄進した太刀と黄金をもってなされたといい、黄金の太刀を海中に投じたという稲村ヶ崎の戦いを彷彿とさせます。

明治維新までは、当社は八王子宮(社)、八王子大権現、三神社などと称せられ、小動の常泉寺が別当でした。
旧腰越村の鎮守と伝わり、小田原藩7代藩主・大久保忠真(1778-1837年)が「三神社」の扁額を奉納しているので、大名層の尊崇も集めていたとみられます。

明治元年、神仏分離を受け地名の小動をとって小動神社と改称しています。
以前は本地佛として銅造長四寸の十一面観世音菩薩を安じ、八王子大権現と称されていたことからも、神仏習合色が強かったのでは。

明治6年村社に列格。明治42年字神戸の鎮守・諏訪社を合祀し、昭和13年に神饌幣帛料供進神社に指定されています。

浄泉寺による管理は、神仏分離以降も大正6年7月までつづいていました。
『鎌倉市史 社寺編』には「当社は大正六年七月まで浄泉寺が別当であった。神仏分離の例外として注意しておきたい。神仏混淆引別執行のとき、引わけを実行しないで(中略)今規則に基いて公然社寺両者の関係を絶つとみえている。この時になって分離した事情については、その理由があるのであるが、ここではふれないことにしたい。」とあり、なにか委細があったのかもしれません。

関東大震災で文化十四年(1817年)建立の本殿が大破、拝殿は倒壊しましたが、昭和4年に新築しています。

毎年7月に催される天王祭は、江の島の八坂神社との共同の大規模な祭で、町一帯を回る神輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わうそうです。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
小動 附八王子宮
小動はも七里濱を西へ行、腰越へ入左の方、離れたる巌山あり。此所をこゆるぎと云ふ。山上に八王子の宮あり。又山の端に、海邊へ指出たる松あり。風波に常に動くゆへに、こゆるぎの松と云と也。

土御門内大臣の歌に、「こゆるぎの磯の松風音すれば、夕波千鳥たちさはぐなり」。
又北條氏康の歌に、「きのふたちけうこゆるぎの磯の波、いそひでゆかん夕暮の道」。
此等の歌、此所とも云ひ、或は大磯の濱とも云ふ。相模の名所こゆるぎの歌多し。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
小動
『新編鎌倉志』とほぼ同様のため略。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
八王子社
守鎮とす、幣殿・拝殿あり、社地を小動(古由留義)と云ふ。按ずるに【鎌倉志】に此地を当國の名所、小余呂伎磯となし、證歌を引用し、或は大磯の濱を詠とも記したるは、謬と云ふべし、彼名所は、淘綾郡大磯の属なること論を挨ず
本地佛 十一面観音 銅造長四寸を安ず
牛頭天王歳德神を合祀し、神社の額を扁す 今の領主の筆
縁起に拠るに文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱の勧請と云ふ。毎年正月十六日を祭期とし、六月十四日には天王の祭事を行へり
境内社後に至れば翠岩丹壁峙立して海中に突出し頗勝地たり
別当は村内浄泉寺兼管す、神木銀杏樹あり
神寶
劔一振 元弘三年(1333年)新田義貞鎌倉を攻るの時当社に祈誓し、成功の後報賽として、奉納せし物と云ふ
末社 稲荷 金毘羅 天神 船玉 第六天 山王 十羅刹 辨天 宇賀神

神奈川県神社誌(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
祭神 健速須佐之男命、建御名方神、日本武尊 相殿に歳徳神を祀る。
境内社 海神社 稲荷社 琴平社 第六天社
神事と芸能 例祭日・湯花神楽 七月十四日・天王祭の神輿渡御
社殿 本殿(流造) 幣殿 拝殿(入母屋造・唐破風付)以上権現造 銅板葺 三棟一宇
境内坪数 630.21坪
由緒沿革
『八王子宮縁起』(弘治二年(1556年銘))によれば、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱当山に詣で、松樹の辺を徘徊、佳景を愛す。殊に小動の松は平日無風なるに枝葉摩動し、妙音琴瑟の如く、正に天女遊戯の霊木なり。誠に神徳永昌の奇峰なりと感じ、平家追討中備州児島の戦に霊夢を感じて大勝した報賽のため、年来尊崇の八王子宮を勧請し奉る、これ当社の草創なり」という。
又、元弘三年(1333年)五月新田義貞が鎌倉攻めの時、当社に戦勝を祈願し社殿を再建したという。
社号は八王子宮、八王子大権現などと称せられ、常泉寺が別当あったが、明治維新、神仏分離により独立し地名の小動をとって小動神社と改称した。
明治六年十二月村社に列格。
大正十四年の関東大震災に、文化十四年(1817年)建立の本殿が大破、拝殿は倒壊したが昭和四年十二月復興工事か完成した。
昭和十三年七月神饌幣帛料供進神社に指定された。
腰越区の氏神社である。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
小動神社
もと八王子宮、三神社などと称したが明治の神仏分離に際し地名の小動をとって小動神社と改めた。
祭神は健速須佐之男命・建御名方神・日本武尊。『風土記稿』には本地十一面観音銅像長四寸を安んじ、牛頭天王・歳徳神を合祀すとある。(中略)
元指定村社。境内地630.21坪
本殿・拝殿・末社四(海神社 稲荷社 琴平社 第六天社)・社務所・倉庫(中略)
腰越の鎮守。
勧請年月未詳。
弘治二年(1556年)、浄泉寺中興の元秀法印が書写した八王子宮縁起によれば、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱が勧請し、建武年間(1334-1336年)新田義貞が中興したという。
明治四十二年三月九日、諏訪神社を合併。
文化十四年(1817年)四月建立の本殿は震災により破損した。拝殿は昭和四年に新築したものである。
当社は大正六年七月まで浄泉寺が別当であった。神仏分離の例外として注意しておきたい。神仏混淆引別執行のとき、引わけを実行しないで(中略)今規則に基いて公然社寺両者の関係を絶つとみえている。この時になって分離した事情については、その理由があるのであるが、ここではふれないことにしたい。

■ 境内掲示(小動神社由緒略記)
祭神 日本武尊 素戔嗚尊 建御名方神 歳徳神
伝承
相模風土記に往時、弘仁年中(810-822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に神女影向あり、この松を小動の松と云うとあり。新編鎌倉史に、土御門内大臣の歌『こゆるぎの磯の松風音すれば、夕波千鳥たちさはぐなり」の歌は、此所の事とも云ひ、或いは、大磯の浜を詠うとも云う。相模の名所「こゆるぎ」の歌、多しとある。
社号は、古くは八王子宮、八王子大権現などと称された。相模風土記には、八王子社を鎮守とし、社地を社地を小動(古由留義)と云うとあり。
明治初年、現在の『小動神社』と改称した。
明治42年当地字、神戸の鎮守であった諏訪神社を合祀した。

由緒
文治年中(1185年)佐々木盛綱の創建と考えられる。
盛綱は、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた武将で、源平合戦の時に、神恩報賽のため守護神である父祖伝来の領国、近江の八王子宮を新たに勧請すべく、その地を探し求めていたが、ある日、江の島弁財天に参詣の途次、小動山に登り、大いにその風光を賞せられ勧請の地と定められた。
新田義貞が、鎌倉攻めの戦勝を祈願され、後に『報 賽』として『剣一振に黄金』を添えて寄進され、社殿は再興された。
八王子宮縁起によれば、新田義貞を中興の祖と称している。
江戸時代、小田原城主、大久保忠真公(113,000石)は【三神社】の扁額を揮毫し奉納された。三神社とは、三柱の祭神を尊称したものである。

社殿(前半略)・祭礼(略)
境内社として、海(わたつみ)神社(海上安全の神様)・稲荷社・金刀比羅宮・第六天社をお祠りしています。

■ 境内掲示(鎌倉市)
主祭神 健速須佐之男命 建御名方神 日本武尊
小動の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。
縁起によれば、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた佐々木盛綱が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請したものと伝えられています。
元弘三年(1333年)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。
七月第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭は、江の島の八坂神社との共同の大規模な祭で、町一帯を回る神輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わいます。


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「腰越」駅からもほど近い小動の岬に御鎮座です。
西側は腰越漁港。現在の主力魚種はしらすで、周辺には名物「しらす丼」の店がいくつかあります。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標

社頭は国道134号に面しています。
参道すぐに石像の明神鳥居と右手に社号標。
海際の神社は境内が狭い例も多いですが、こちらは鳥居から長々と参道が伸びています。
道幅が広くスケール感のある参道です。


【写真 上(左)】 神宝殿
【写真 下(右)】 参道階段手前

しばらく進むと両脇に一対の石灯籠。
その先から参道階段が始まります。
海側に向かっているのにのぼり階段とは、当地のパワスポぶりを物語っています。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 手水鉢

位置関係が定かではないのですが(おそらく参道階段の手前)、立派な手水舎のなかの手水鉢は黄褐色に変色し、これは井水使用かと思います。

階段の先に石造の明神鳥居で、社号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 二の鳥居
【写真 下(右)】 二の鳥居の扁額


【写真 上(左)】 小動神社
【写真 下(右)】 小動神社の向拝-1

小動神社は参道右手。
拝殿前に狛犬一対。
拝殿は入母屋銅板葺で流れ向拝。軒唐破風とその上に千鳥破風を起こす重厚な意匠です。
水引虹梁両端に獅子漠の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置き、その上に兎の毛通し、唐破風の鬼飾、千鳥破風の懸魚と鬼飾を立体的に連ねて見応えがあります。
向拝正面桟唐戸のうえには社号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 小動神社の向拝-2
【写真 下(右)】 向拝の扁額

史料に載る境内社が趣ふかく御鎮座される、パワスポ的空気感の境内です。

小動神社の向かって右手の奥には石の鳥居の先に、海(わたつみ)神社が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 綿津見神 別名 船玉神とも云う」「漁業の神・航海の神」とありました。



【写真 上(左)】 海神社
【写真 下(右)】 稲荷社(右)と金刀比羅宮(左)

参道階段の正面にあたる位置には覆屋があり、向かって右手の朱い鳥居の先に、稲荷社が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 宇迦之御魂神 併神 佐田彦神=猿田彦神 大宮能売神=天鈿女命」「商売繁盛・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の神」とありました。

向かって左手の石の鳥居の先に、金刀比羅宮が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 大物主神 別名 大国主命」「海神竜王ともいい、航海安全 海難救助を司る神」とありました。

境内右手奥の石の鳥居には六天王の扁額が掲げられています。
ここからくの字に曲がった参道階段がつづき、大(第)六天社が切妻造銅板葺妻入りのお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 第六天神 別名 淤母陀琉神(おもたるのかみ)」「諸願成就の神」とありました。
淤母陀琉神(おもだる)は神世七代の第六代の神とされ、中世には神仏習合により第六天王の垂迹であるとされました。


【写真 上(左)】 第六天社
【写真 下(右)】 腰越漁港と江ノ島

境内からは腰越漁港を見下ろし、その先には江ノ島が望めます。


御朱印はたしか社務所でご神職から拝受できました。


〔 御霊神社の御朱印 〕




以下、つづきます。


【 BGM 】 (サザンオールスターズ特集-2)
■ 素顔で踊らせて


■ Oh!クラウディア


■ 旅姿六人衆
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