豊橋と言えば…ちくわとちくわとちくわとちくわとちくわとちくわとちくわとちくわと…市電ですよね???
ということで豊橋駅から市電に乗って
市役所前で降りる…
周辺施設のご案内にあるとおり
目指すは吉田城址
ここは公園に整備されちゃってはいるものの…
切り掘とか石垣とか残っていて、城址マニアにはたまらない場所…
お薦めの城址です…
随分、昔に訪れた時に書いたブログ…ついでにぜひぜひ!!
豊橋駅から…吉田城へ…気分だけは昭和…そして、戦国・江戸時代へと…
この吉田城の二の丸に鎮座していたという吉田藩祖豊城神社の碑
鳥居は残っていましたが…明治以降に源頼政を祀り城外に豊城神社が造られて移転されているようです…
そんな吉田城址の遺構(いこう)を巡って、ぶらぶらと…次の史跡にいこう…(笑)
市役所をぐるっと廻って、R1号線沿い豊橋市役所立体駐車場のそばには「歩兵第十八連隊西門」の遺構(いこう)が…
豊橋公園は戦前まで陸軍歩兵第十八連隊の駐屯地だったようで…豊橋公園は、吉田城の遺構だけでなく…戦争の遺構も、いくつか残っているようで
さらに、遺構を観に行こう…
あ、これは、遺構じゃないけど、東海道の四大橋の一つである
吉田大橋
この吉田大橋の解説の石碑
その吉田大橋をそばに架かっている歩道橋の上から、眺める…
妄想上で江戸時代の旅人を思い浮かべて、古の…江戸時代の光景へと想いを馳せる…
なんて言って綴ってみるも…
実際のところは、バカは高いところに登りたがる…私、まさに、そのとおりの性格なので…単に、高いところに登って眺望を楽しんでいるだけのことですが…苦笑
さてさて、豊橋と言えば…ちくわとちくわとちくわとちくわとちくわとちくわとちくわとちくわと…手筒花火ですよね!!
その手筒花火発祥の地、吉田神社を参拝する…
創建については諸説あるけど、1124年、この地で疫病が流行した際、牛頭天王を勧請し疫病退散を祈願したのに始まるとか…
疫病退散!!…このご時世にぴったりの神社じゃないか…
源頼朝の崇敬も篤く、その後、天王社を建立したとのこと…
さらには、今川義元、酒井忠次、池田輝政、さらには、徳川幕府成立後も歴代の吉田城主により社殿の造営がなされ、1662年、吉田城主による社殿の造立を始めとして、新造営2回、修理14回、すべて吉田城主の造営によるとか…
そして、1558年に今川義元の吉田城代・大原備前守が手筒花火を奉納したことから、手筒花火発祥の地とされているとのこと
ご祭神は素戔嗚尊さま…
手筒花火発祥の地である吉田神社…戦国時代に登場した花火は、徳川幕府成立後、家康は強力な武器となる諸藩の鉄砲火薬の製造は厳重に制約したが、徳川発祥のここ三河においては、製造や貯蔵を奨励していたそうな…その後、天下泰平の時代になるにつれ、三河武士の火薬の技術は民間にも伝えられ、悪霊や疫病を駆逐する火の力と天王信仰が結び付き、吉田藩の庇護のもと、吉田城内天王社祭礼の花火として発展していったとか…
第一鳥居
とその中央に扁額
鳥居をくぐると
東海道五十三次「吉田宿」の画
参道の途中には1673年に鳥居を建て直す際に地中から見つかったという
「影降石」
影降とは、神や仏が仮の姿で人々の眼前に現れることを意味するそうな…
け躓いて…転倒…した旅人も多くいたに違いない…
そして
手筒花火発祥之地記念碑
そして、さらに参道を進むと
百度石
残り99回も参拝できないだろうから、4,5回まとめて撫でておいて…
ではでは、早速手水舎で手を浄めてと…
ここは、手を浄めるだけでなく、ひょっとしたら手にへばりついているかもしれない新型コロナウイルスをしっかり洗い流して…
トドメに持参の手指消毒液でシュッシュ…
とりあえず、私の手に関しては、疫病退散、実践できたので、あとは世の中が穏やかな…日常に戻ることができるよう…
疫病退散を願って…
拝殿前の灯籠には囲いが…
触れるの厳禁!といった感じなのでしょうか…新型コロナウイルスがくっつくから???…
そんな、灯籠(とうろう)の横をとうろう(通ろう)…苦笑
拝殿の左右には狛犬
マスクもせずに、そんなに口をあけてると、新型コロナウイルスに感染しちゃいますよ!!
そうそう…口を閉じて…
なんていう訳ではありませんが…
ではでは、疫病退散を願って素戔嗚尊さまに、二礼二拍手一礼
拝殿の左側には「八岐大蛇退治図」
この画は「八岐大蛇を退治」してるけど、こんな調子で、新型コロナウイルスも退治しておくれよ!!
なんだか「八岐大蛇」が新型コロナウイルスにみえてきた…
新型コロナウイルスは、こんな感じで「密」で襲ってくるような…
さてさて、参拝後は境内をぶらぶらと…
豊橋祇園祭の解説板
豊橋祇園祭は、疫病払いを祈願するお祭りだそうで…火の使用による悪霊放逐という考えが、やがて手筒花火の放揚に結びついたと推察されるとか…花火を打上げ始めた時期に関しては諸説あり、少なくとも戦国時代の鉄砲伝来以降であったと考えられているとのこと…戦国時代の1558年、吉田城城代 (今川義元の統治下)により手筒花火の奉納が執り行われ、氏子八ヶ町から手筒を放揚し、技を競い合ったという記録が社史に残されているとか…
江戸時代には、火薬の利用が多様化し、また、吉田藩主の保護を受けながら、本格的な花火大会になっていったようで、江戸時代には、徳川家康の出身地であった三河地方において、火薬の製造・貯蔵に関する規制が他藩に比べ寛大であった背景から、三河武士のあいだで火薬の利用が広まり、打ち上げ花火をあげる技術的な土台ができたとか…
ぜひ、生きているうちに…笑…みてみたいものだ…
さらに、豊橋祇園祭でも打上花火も年々盛大となり、午後7時から9時までの間に、1万発以上の花火が、清流「豊川」の北岸から打ち上げられるとか…
ちなみに、訪ねた2021年は、残念ながら豊橋祇園祭は、疫病退散を祈願するお祭りなのに…疫病のため、感染拡大の防止の観点から中止とのことでした…
拝殿向かって左側には
大きい境内社が金柑丸稲荷社
その左の小さめの境内社が伊雑社
もともとは、これが金柑丸稲荷社の手水舎だったのでしょうか…その名残…
まず紹介するは金柑丸稲荷社
御祭神は宇迦之魂命さま
明治42年には同じく吉田神社に移されてきた城守護稲荷社と合祀され、歴代の吉田城主は幕府の要職についたことから、出世稲荷として信仰されているとのこと…