尾張旭市にある
本地ヶ原神社を参拝する…
創建の正確な年代は分かっていないとのことだけど、700年代の奈良時代には丘陵地の東部に「白山社」が祀られ、祖霊祭祀が厳かに行われていたとか…
1665年に尾張徳川家によって再興されたという記録は残っているとのこと
尾張徳川家によって再建された後には、地域の人にも崇拝されるようになるも、明治44年に本地ヶ原が陸軍演習場となり、稲葉の一之御前社へ合祀されることに…
その後、1970年一之御前神社に合祀されていた白山神社を復祀し、「本地ヶ原神社」として現在の位置に祀られるようになったとか…
ご祭神は伊弉那美大神さま
この歴史を感じる「元白山神社」と刻まれた石碑のことだけど
1989年に、この石碑が長坂町の遺跡公園の東北部から発掘されたそうな…そもそも、そこには白山第3号古墳があっただろうと考えられていて、その古墳の調査中に地中から見つかったとのこと…この「元白山神社」の石碑は、1911年に白山神社が稲葉の一之御前社に合祀された時、その跡に建てられたものであるよう
鳥居の左側には
本地ヶ原地蔵さま
そして、本地ヶ原開拓記念碑…
めちゃ、境内は拝殿を始めとして、新しく綺麗に整備されているんだけど
…鳥居の扁額には、一切お金を投じてはいないようで、扁額と拝殿、境内の新しさと比べると、実にアンバランスで…
では、早速参拝をと…手水舎にむかえば
完全に水は枯れていました…龍も心なしか寂しそう…
…龍も心なしか寂しそう…というか…あれ、水がないやんけ!!と「龍」自身が驚いているように思えちゃいました…
ここは、私、持参の手指消毒液でシュッシュ…
これで、女神さまである伊弉那美大神さまも、2021年のオリンピックのように???「安心・安全」でしょう…
狛犬もアニメチックで新しめ…
ではでは、さっそく「二礼二拍手一礼」
参拝時は、2021年7月のオリンピック前のこと…
願うことはただ一つ、当時の総理、スガ総理は「安心・安全」と言いながら、強引にオリンピック開催を進めちゃったけど、その後もホントに「安心・安全」でありますように…感染拡大がとんでもないことになりませんように…と
頼むよ!伊弉那美大神さま!
あ、やっぱり「安心・安全」じゃなかった…ですね…なんども「第〇波」がやってきたりして
ご参拝の作法を示すオネーサンは、ジミなイラストで描かれていました…
参拝後は、境内をぐるっと見渡すと…
おお、砂山が盛られています…足元見て、歩いててよかった…気づかずに歩いてて壊さなくてよかった…
そして、絵馬掛け…ちょいと淋しすぎる気もしますが…
拝殿向かって左側には、境内社が3社ならんでいて
右側から兜神社、北野天満社、黒石大明神の三社
兜神社は、小牧長久手の戦いの戦没者を慰霊するために建てられたもの
そして、ここに…天満社があるからこその…この牛なのね…
最初、ここに参拝にきたとき、天満社でもないのに、なぜ「撫で牛」が…と思ったのですが…これで納得!納得!!
境内のそばには巨石があって
そして、向かって境内の右側には
「天狗のかかと岩」
大きな黒い石の中央に穴が開いているのは、昔、白山林にすんでいた天狗が、猿投山の天狗に会いにいくとき、この岩からいつもより強くふんばってから跳びはねたから、石の上に足のかかとがめりこんで、その時についたの足跡なんだって…
そんな「尾張旭市のむかしばなし」の看板も…
この石は、7世紀に建造された市内で唯一の横穴式石室を持つ「天狗岩古墳」の天井石の一つだそうで…宅地化に伴い、長坂町の矢田川の崖にある「長坂遺跡」から運ばれて来たものだそうな…
さてさて、参拝記は以上なんだけど、私がわざわざ、この地まで、ここへ参拝しに来た理由…
それは、この場所が小牧長久手の戦いにおける
「白山林の戦い」の地なんだな…
1584年、後継者争いをする秀吉と信長の次男・信雄の間で行われたのが「小牧長久手の戦い」
実質的には秀吉と、織田信雄が援軍を頼んだ家康との戦い
しばらく膠着状態が続くも、秀吉軍は家康の本拠地・岡崎城を襲うために秀吉方の池田恒興・森長可隊、堀秀政隊、そして羽柴秀次隊が南下を開始
先発隊の池田隊らは、ほぼ同時刻に岩崎城に攻め立てていた時
羽柴秀次隊はここ白山林で休息していたそうな…
夜だったので、夜が明けたら、早朝には小幡城を奇襲攻撃するつもりだったようで…
でも、早朝5時…羽柴秀次隊は、逆に奇襲を喰らうことになる…
突然林の中から一斉射撃をしてきた大須賀康高・岡部長盛隊、同時に背後から水野忠重・丹羽氏次隊も襲いかかってくる…側面からは榊原康政・本多忠重隊にも…要は四面八方、取り囲まれて…
羽柴秀次隊は大混乱!逃げる!逃げる!!
ここで多くの羽柴秀次隊の武士は討ち死に…
その供養のために建立されていたのが、境内社である兜神社
羽柴秀次は自分が乗っていた馬さえどこかへ見失ってしまい、必死で徒歩で逃げたとか…
その時、そばを通りかかった家臣の可児才蔵に馬を貸すように頼んだところ
才蔵は「雨の日の傘に候」…戦場での馬は武士にとっては雨降りの傘…お貸しすることはできない…と言ったとか???
いやあ、大将の懇願を蹴るなんて、あまりにもかっこよすぎるぞ!可児才蔵!でも、それだけ羽柴秀次隊が窮地に追い込まれていたのではないかと思わせるエピソードですよね!
続いて通りかかったのが、木下勘解由利匡、木下は秀吉の身内ということもあって、この命は断れなかった…
木下勘解由利匡は自分の馬を秀次に与えて落とし、自らはそこに留まり徳川軍と奮戦して討ち死に
兄の木下助左衛門祐久も木下勘解由利匡と一緒にここで戦死したとか…
秀次の退路を確保するために、秀次が生き延びるために、多くの木下氏一族が、討ち死したとか…
そんな「残念な人」のようなイメージに思われる「白山林の戦い」での
羽柴秀次
その敗戦の史実を打ち消すように、廻りは宅地化され、当時のイメージを残すものは「白山道」と呼ばれる通りがあるのと…この看板1枚のみが知らせる…
「白山林の古戦場跡」だったのでした…