大物にはなれなかった…
平凡な小物の私が
阪神電車の
大物駅に降り立つ
あの、この駅名は、「おおもの」とは読まず「だいもつ」と読むそうな
でも、大物駅から
「小物」の私が参拝しようと出向いたのが
駅から徒歩5分くらいのところにある
大物(だいもつ)主神社
ではなくて
大物(おおもの)主神社
御由緒によると、尼崎という場所はもともとこの地が、神崎川と武庫川に挟まれた三角州から発展し、大阪湾と瀬戸内海を繋ぐ海運の要衝だったよう…
たくさんの魚がたくさん獲れて「海土ケ幸(あまがさち)」「海土ケ幸(あまがさち)」とか「海ケ崎(あまがさき)」と言われていたのが後に「尼崎」になったとのことで
当時点在した三角州の一つに祀りの場として大物主の社が建てられたようで
創建者としては、大物主の子孫・太田田根子の後裔、鴨部祝が祖神をここに祀ったのが始まりなんだとか
さらには、平安時代後期には、安芸守であった平清盛が厳島神社の祭神を勧請合祀し
海上交通の要所かつ難所であった、この神社の近くにあった大物浦の安全を祈念したよう
江戸時代には若宮弁財天などと呼ばれていたが、 明治7年、社号が現在の大物主神社となったとのことで
市杵島姫命さま、田心姫命さま、湍津比売命さまの宗像三女神
駅から向かうと
境内への入り口は
先程写真に掲載した
石柱門から入れますが
社殿の正面には石鳥居(とりい)があることを
まず、とりぃあえず、紹介して
鳥居をくぐった社殿との間
ど真ん中に建っているのは
「百度石」ならぬ「万度石」
万(まん)も参拝してもらえると、神様も「まん足」に違いない??
そして、まんどいし(万度石)が、やがて、まいどいし(毎度石)って参拝者には呼ばれていたんじゃないかとは、小物の私の勝手な推測
手水舎
枯れてるどころか、蓋が閉められていますなあ
新型コロナウイルス感染症が流行っていたころは、手指消毒液を持ち歩いていましたが
最近は、持ち歩いてはいなくて
手を浄めれません…
一言アドバイス
大物主神社を参拝するなら
事前に阪神電車大物駅のトイレを利用した方がいい??
ここで、手を浄めてくるのがいいかも…
さてさて
手を浄めていませんが
拝殿にて
二礼二拍手一礼
扁額
拝殿の左右には
狛犬
新しめの狛犬さん
阿形の狛犬の表情がいいですなあ…
「あれれれ、手水舎の蓋が閉じてるやん!」
と思った私の表情に似ているような…
拝殿の裏側に
本殿が繋がっています
さてさて
境内はそんなに広くはないんですが…
境内を散策すると
あるのは
尼崎の伝統産業「汁醤油発祥の地」の記念碑
「尼の生醤油」という「尼の生揚醤油保存会」で造ってる「生醤油」というものがあったらしく 大物で醤油が生まれたのは平安時代の末期からなんだとか…
阪神大震災で喪失するまでは、醤油蔵だったという建物が神社の近所に残っていたそうで…
戦後はその醸造の伝統が途絶えていたものを、40数年のブランクを経て復活され
その成功を祈念(きねん)し記念(きねん)して碑がここに建立されたとのこと…
そして、もう一つ
ここは源義経ゆかりの地…
大物主神社の境内には「義経弁慶隠れ家跡碑」が
大物浦は、源義経が兄の頼朝の追討を逃れるため西国へ船出した場所で
その際に義経と弁慶が当社東側にあった七軒長屋に一時滞在していたんだって
その大物浦は謡曲「船弁慶」でも、源義経と静御前の別れの場になっていて源義経はここ大物浦で追いすがる静御前を説得して
別れの酒盛りを行い、弁慶と船出するも遭難することに…
「忽ちに西の風吹きける事も平家の怨霊の故とぞ覚えける」
平家の怨霊の仕業と平家物語では語られるこの伝承
一行は、暴風雨のため押し戻されたかたちとなり、奥州藤原氏を頼って逃れていく
この「義経弁慶隠家跡碑」は、源頼朝から追討された主従が西国へ船出するために、大物主神社東側にあった七軒長屋に逗留したという口伝を保存するため、有志の希望をうけ神社で設置したものとのこと…
さすが大物(おおもの)主神社だけあって
大物主大神さまのまわりには、大物(源義経、弁慶)が逃亡という形であったにせよ、集まるんだな…と妙に納得して???
参拝を後にしたのでした…