東大阪でそろばん教室を運営しているの先生のブログ 関西珠算瓢箪山教場・石切教場

子供たちから教えられたこと、感じたことを想いのままに綴ります。

努力アレルギー

2014-04-21 00:32:26 | 日記
 最近、アレルギーもちの生徒さんが増えています。そろそろ花粉が暴れだしたようで、つらそうにしている子供たちを見ていると本当にたいへんだと思います。振り返ってみると、私が小学生の時ってこんなに周りにアレルギーもちの子供がいたかな?と思います。多分「花粉症」なんて最近の半分もいなかったんではないでしょうか。私の通った小学校は、裏が雑木林になっていて、春先には蒲公英の綿毛が飛びまくり、秋にはすすきの先っぽが飛びまくっていましたが、周りにくしゃみ連発、目をゴシゴシなんて友達がいた記憶がないんです。

 原因は「環境ホルモン」とか「ファストフード」とか「ホルムアルデヒド」とかいろいろ言われていますね。多分どれも正しいのではないでしょうか。でも、もっと思うことがあります。私は現在40歳(独身…)ですが、子供の頃はとにかく汚かった記憶があります。たとえば、商店街でお買い物をすると、包装紙は新聞紙だったような記憶があります(コロッケとか、野菜とか)。お豆腐を売りに来てくれれば、家から普通にボウルを持って買いに行きました。でもおなかをこわした記憶もなければ食中毒もなったことはありません。今にして思えば「不衛生」な環境が当たり前でしたよね。だから体が鍛えられたのかもしれません。今でも食べ物を床に落としたくらいなら「3秒ルール」です(キリッ!)。←別におすすめはしませんよ


 で、何が言いたいのかと言うと「そういえば、私が子供の頃は手取り足取り教えてもらった記憶があまりないな」ということなんです。だってわからなければ「放っておかれる」んですよ。そりゃ必死でした。先生の言うことをしっかり聞いて、周りを見ながら行動しなければ、ちょっと油断して言うと自分だけおいていかれる。そんなことありませんでした?。

 いつからこんなに指導することに手をかけるようになったんでしょうか?。わからなくてもできなければ手を差し伸べてくれる大人があちこちにいる。もちろんそれが素晴らしい側面も持っています。子供一人では引き出すことのできない内面を、指導者が気づき引き出してくれるという。でも、本当の力は自分自身で「引っ張り出す」んじゃないでしょうか?。そしてそのためには努力が絶対に必要です。

 今の子供たちは、衛生的な環境で食事をし、清潔な服を着て、きれいなおうちに住んでいるように感じます(昔と比べてですよ)。それがアレルギーの遠因になってるのならば、子供たちの指導に手をかけすぎてしまうことが「努力アレルギー」の遠因になっているんではないだろうか?。教えることを初めてすぐにそんなことを考えるようになりました。そして10年来の考えが「しんどいことをたくさんしてほしい」

 だから子供たちにはどんどん不便な生活を送ってほしいとおもいます。携帯禁止!、ゲーム結構禁止!(ちょっとくらいは私も子供の頃してたので強くは言えません…)。テレビもまあまあ禁止(ちょっとくらいは私も子供の…)。音楽プレーヤーもそれなりに禁止!(ちょっとくら…)

 だんだん弱気になってきましたが、ここらへんで本題に戻って。要は努力しなきゃ仕方のない環境に置いた方が実は子供は伸びるんじゃ?と思っているわけです。でもね、目の前にわからなくて困った顔をした生徒がいると、教えてしまうわけですよ。「放っておく」ことがとても難しいわけです。だから私は「高い壁」を作ることで、「放っておく」ことの代わりにならないかと悪戦苦闘を続けています。

 新4年生の日本地図チャレンジ、いよいよ佳境に入ってきました。半数以上が合格を勝ち取っています。めんどくさいことは頑張らないとできるようにならない!。「努力アレルギー」が一人でも減ることを願って、私の戦いはまだまだ続きます!
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携帯電話とのお付き合い

2014-04-18 23:49:43 | 日記
 今日、授業後に懇談を一件させていただき、家路についたのが11時前。その帰りすがら某歯医者さんの前の空き地で、女子中学生と思しき数名が固まっていました。バイクで走っていましたので詳しくは見ていませんが、全員がスマホ(携帯)の画面にくぎ付けでした。

 そんな時間まで授業をしている学習塾は恐らくないでしょう(受験直前ならありえますが)。親御さんはその時間になっても帰ってこない娘さんに対して心配ではないのでしょうか?

 携帯電話、特にスマートフォンは魔物です。大の大人がはまってしまうコンテンツ・アプリが簡単に手に入ります。子供たちに自制しろと言うほうが無理かもしれません。そんな魔物をたかだか中学生、下手をすると小学生に持たせるのはいかがなものでしょうか?。と私は考えてしまいます。

 子供たちの言い訳第一位は「みんな持ってるから」。いえいえ、みんな持っていません。中学生への普及率はそうはいっても5割はないでしょう。たまたま周りの身近な面々が持っている場合はありえますが、「みんな」ではないでしょう。

 でも、子供たちは「みんな」って言うんですよね。でもね、考えてみてください。子供たちが本当に自分自身で自制して、ルールを決めて付き合えるかを?。そして、スマートフォンを持っている子供たちが全員そのルールを守っているかどうかを。
 よく懇談をさせていただいて「うちの子、携帯ばっかり触っているんですよ」とか、「ゲームばっかりしてるんです」なんてよくお聞きしますが、与えられたのは親御さんですよね?。ルールを守れるからこそ与えたんですよね。ではルールを守れないのならばぜひとも取り上げてください。自分自身でルールを守れるようになって初めて与えなおしてください。

 アプリで対戦して、ラインでお話して、テレビを見て…。いつ自分のために時間を使うんですか?。スマートフォンやゲーム機器と上手く付き合えないと、絶対に学力も基礎的な能力も育ちません。

 まだスマートフォンを買い与えていない保護者の皆様は、ぜひ与える前に「自制心」を育ててあげてください。残念ながら与えてしまった保護者の皆様は「ルール順守の徹底」を今一度考えてみてください。

 そうした能力も、これからの社会を生き抜いていくうえでは必要な能力だと思います。ネットリテラシーにもつながるこの能力、。保護者の皆様の強制力がきちんと効く、小・中学生の間にきちんと身に付けさせてほしいと思っています。
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叱るということ

2014-04-12 00:03:48 | 日記
 私は本気で叱ります。それは「怒る( おこる と読んでも いかる と読んでも結構です)とははっきり一線を画します。その叱り方には様々なやり方があります。こんこんと諭し続ける先生。声を荒げる先生。最初はこんこんと、でも肝心な部分は声を大きくする先生。
 ここの部分を「その時の自分の感情に任せて行う」ならそれを「怒る」といい、「この子にはこうなってほしい」とか、「今までこの子にはこのやり方で改善が見えなかったから、今日はこう叱ろう」ときちんと向こう側を見て行うならばこれを「叱る」という。私はこう考えています。

 そして再三の指導にも関わらず、人として間違った行いをしたときには「考えられないほどの厳しさ」で叱り、その行いが間違いであることを気づかせる。それが指導者には必要だとも考えています。

 その「考えられないほどの厳しさ」は一昔前には「体罰」が主流でした。以前にも書きましたが、私は一定の体罰は否定しません(たとえばでこピンや、ツボを押さえるなど、叱られていることをわからせる程度の痛みを伴うおしおきですね)。ただし、力いっぱいひっぱたくといった手段は本当に最終手段だと思っています。「人のものを盗んだ」「意味もなくいじめを行った」「他人に武器を向けた」などかなり厳しいレベルの間違いを正す場合に限られるのではないかと。

 私は、現在教育の場でいかなる体罰も禁止であるとなっていることには必ずしも賛成ではありません。しかしルールとして決められているのであればそれは守らなければなりませんが、体罰の線引きは難しい部分があります。わたしの普段の指導に「体罰」の範疇に入るものもあるでしょう。子供たちが体罰と感じれば体罰になるのでしょう。でも子供たちは大人以上に間違いを犯します。その間違いは大人が正していかねばなりません。その手段の一つに体罰があるでしょう。ここは私も否定しません。

 でも私はいわゆる、体に傷が残る体罰はしたくありません。そこで「考えられないほどの厳しさ」のひとつに私は「土下座」がると考えています。それくらい悪いことをしたんだとわかってほしいんです。

 そうした叱り方をしたところ「それは人間として屈辱的だ。こどもにさせる罰としてはとても重すぎる。というかしてはいけない」というご意見をいただきました。その方は「土下座なら力いっぱい叩いた方がましだ」と言われました。前述のとおり私はこの考え方には反対ですが、すごく考えることが出来ました。

 今日から私は「考えられないほどの厳しさ」として 

「力いっぱい体罰する」>「土下座(並みの)謝罪をさせる」>「      」>>>>「厳しく叱り諭す」>「こんこんと諭す」

>はレベルの違いを表しています。

 この空欄部分の叱り方を探さねばいけないと痛感しました。そしてここまで叱らなくても子供たちの間違いを正していけるように、さらに日々の子供たちへの接し方、話し方、叱り方を考えていかねばいけないと思いました。

 私の想いは、「人のことを考えることができる人間に育ってもらうこと」。それを「そろばん教室で提供できる課題を通じて身に付けてもらうこと」。このために、これからも本気で子供たちに向き合い、本気で叱ることをあきらめないで行きたいと思っています。そしてそのことが私が今日まで考え続けてきた「矜持」に通じると思っています。
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知識がないと智慧がない

2014-04-10 00:09:56 | 日記
 インターネットをしていると、ホームページ上やブログ上に広告が表示されていると思います。そこに表示されることが多いバナー広告というものがあります。クリックすると直接その広告主のサイトへジャンプするようになっています。

 このブログは無料のサイトで書いていますが、無料なのはかの広告表示のおかげなんですよね。だから広告のことを言うのはあまりよくないのかもしれませんが、どうしても気になったので書いてしまいます。

 バイトを募集(登録?派遣会社のサイトかな?)に「日雇いバイト! 毎日が給料日!」というキャッチコピーを見つけました。今の高校生や大学生のみなさんがバイトを探すときには、こうしたネット上で探すことが当たり前のなっているんでしょうね。
 私が学生の頃は「バイト情報誌」が基本でした。だから競合する雑誌を読み比べ、希望職種において条件のいいものを探し、実際に足を運んで外から雰囲気を見て、という手順を踏んだものでした。そこで、一から仕事をして、1か月後(実際の給与支払いはもう少し後ですね)にいただいた給与のありがたみは今でも鮮明に覚えています。
 
 で、さきほどのネット広告のキャッチコピーなんですが、そんな給与までインスタントにもらってどうするんでしょうか?。社会に出て、日払いの仕事なんてそうそうありませんよね。給与をいただくまでの間、金銭を計画的に使うことができるようになる。自分が働いて使えるお金を計算して行動する。実際に社会人になるまでに、学生時代のバイト経験を通して身に付けておきたいスキルなんですが、日払いバイトを数多く経験してしまうと、「正社員」という働き方は難しくなるのでは?と感じました。

 とはいえ、これを書いているあなたは自営業でしょ? とツッコまれるかもしれませんが、収入は「お月謝」なので、月給をいただくのと同じ感覚です。しかも完全歩合制ですから、収入の見込みはより立てにくくなります。金銭感覚の節度がしっかりないと余計に難しいのですね。

 労働することに対する対価はその職種に精通し、能力が高くなることで上がっていきます。日払いのバイトを繰り返していると、そんな社会の仕組みもつきにくいのでは?。なんて考えてしまいます。

 もちろん、日払いの仕事にもその良さはありますよ。それは、ある程度社会人としての知識と、様々な職種に対する理解が育って判断できるはずですよね?。判断材料が育っていない学生のうちからこのようなバイトに身を委ねるのは少々よくない気がしました。

 毎日が給料日ということは、労働をしない日は給料が発生しない。つまり、様々な社会保障を享受する機会を失う可能性がある。そんなことを理解でき理知からも、社会の仕組みをきちんと理解できる「智慧と知識」が下支えするのでは?。なんてことを考えてしまいました。
 もちろん「日払いバイトを労働の中に組み込んで上手に使う」ことは全く否定しませんよ。むしろそれこそが上手な使い方だと思います!。
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ありがとうございます

2014-04-08 00:33:23 | 日記
 このブログ、お預かりしている中学3年生の受験がひと段落するまでは開店休業状態でした。やっと入試も終了し、最近はブログ更新の頻度も増やすように心がけています。

 そのおかげなのか、毎日このブログを覗いてくださる方が日増しに増えておりまして、去る4月5日には約200万のブログがある中で、アクセス数で18000位という順位になっておりました。

 さらに先週の週間累計ランキングでも約27000位という順位になっておりました。たくさんの方に見ていただき感謝の気持ちでいっぱいです。

 このブログは主に教室に通っていただいている生徒の保護者の皆様に向けて書いていますが、子供たちを指導していて日々感じることは、教室を超えて学びたいと感じているすべてのお子様に当てはまる部分は多いと考えています。

 まだまだ未熟ではありますが、これからも感じたことを伝え続けていければと思います。

 そうそう「ありがとう」といえば、先日中学生の指導をお手伝いしてくれている卒業生たちをお食事に招待しました。そこで、「ほんまにこの教室に来てよかったと思いますよ」と言ってくれた教え子がいました。
 「こんなけいろんなイベントやって、本気で叱って、本気で一緒に喜んで、こんな先生なかなかおらんと思いますよ」と。そういえば、ずいぶん前のブログで、「ある小学校の校長が、校内にナイフを持ち込んだ生徒を平手打ちにしたら、大阪市教育委員会が、いかなる理由がろうとも体罰はいけないという理由で、この校長先生を処分し、校長先生は依願退職された」という出来事を取り上げた覚えがあります。そして「このように、叱ることが処罰の対象になるなら、子供たちを本気で叱れなくなる、事なかれ主義に陥るのでは?。」と書いたことを思い出しました。

 私が市井の教室で子供を指導する道を選んだ原点は「子供たちに本気で向き合う」ことがしたかったからです。戦い始めて14年が過ぎました。保護者の方にも何度も叱責され、トラブルがなかったわけではありません。堅物すぎて敬遠されている部分があるのも承知しているつもりです。
 でも、保護者の方々の顔色を伺う「経営者」にはなりたくないんです。子供たちをいつでも第一に考える。そんな「先生」でありたいんです。
 
 前出の卒業生は「お食事」という餌につられて気を使ったのかもしれません。話半分であっても「ほんまに、大学生になってそろばん教室に帰ってくるとはおもわんかったなあ」の一言が、気遣いから出るとは思えないんです。

 手前味噌は重々承知の上で、それでも「本気が少しでも伝わったのかな」と、この卒業生たちにも「ありがとう」です。
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