私はそろばんの先生ですから、そろばんを念頭に置いたお話になりますことをご了承くださいね。
さて、「そろばん」という習い事は一般的には「計算が早くなる」とか「数字に強くなる」といったイメージではないでしょうか?
私の勝手なイメージで言えば、「お習字なら字が上手になる」とか「水泳だと泳げるようになる」とか「柔道だと精神的に強くなる」とかいうものが一般的なものではないでしょうかね。
でもお習字の先生も、水泳の先生も、柔道の先生も知り合いがいますので、先のイメージだけではないということもまた知っています。
しかしながら、どうしてそろばんを含めて先のイメージが一般的になっているのかといえば、私はこう考えています。
「こどもの成長の先にあるものを考えていない指導者が多いから」
どういう意味かと言いますと、本来子供たちに接する指導者は、その指導する事柄を通して子供たちの成長に寄与することを念頭に置かねばならないと思うのですが、残念ながら「その事柄が上手になればそれでいい」とお考えの指導者が多い(多かった:今ご高齢の指導者の皆様はそんなことを考えずとも生徒は集まったという時代の流れでしょうかね)ということなんです。
そして、そういう指導者の下で何かを身につけた者が成長して指導者となると、前述の事柄が繰り返されるわけです。
教師を目指して教員養成課程に進めば、児童心理学や発達心理学などを学びます。教育実習で現場も少しですが経験します。そうした経験を積み上げていけば、子供たちの成長に何が必要なのかを考え、それぞれの立場で子供たちに伝えることを考える指導者になるはずなんですよね。
また、一般的な企業に勤務した後に習い事のお教室を開けば、社会から要請されることをその人物なりに理解していますから、やはり教育の専門家とはアプローチは違うでしょうが、成長の過程で必要なことを、その習い事の指導を通して伝える指導者になるでしょう。
ところが、私の知る限り「いったい何を伝えたいの?」とか、「子供たちの成長にとって害悪にしかならない」指導者のことがたくさん耳に入ってきます。
・スポーツの指導者で、グランドに挨拶をさせない方がいます
・スポーツの指導者で「試合に勝てば自分の指導のおかげ、負ければ子供たちの努力不足」と言う指導者がいます
・スポーツの指導者で、昨日と今日と明日で言っていることがころころ変わる(指導方針が日和見)な指導者がいます
・文科系の指導者で「とにかくこどもたちを叱らない」指導者がいます
・文科系の指導者で、授業のたびにお菓子やパンを渡す指導者がいます
・文科系の指導者で、遅れようが忘れ物をしようが何も言わない指導者がいます
こうした指導者は「子供たちの成長に自分の指導が寄与するものは何か」という観点が指導から抜け落ちています。
さて、皆様はお子様に「何」を身につけて欲しくてその習い事をさせておられますか? 心ある指導者であれば「どう指導すれば子供たちの成長に寄与できるか?」を常に考えながら指導しているはずです。そしてそれはお勉強に結びつくとは限りません。
たとえば「挨拶」かもしれませんし、「くじけない心」かもしれません。「自分で常に考えること」かもしれませんし「努力する習慣を身につけさせること」かもしれません。
私自身はそろばんの指導を通して「結果は努力に正直であること」「一生涯の計算(数的)能力を獲得すること」「前向きな学習習慣を身につけること」「読み・書き・そろばんの基礎学力(リテラシー)を獲得すること」が子供たちに身に付いて欲しいと考えています。
習い事に通う意味とは、ご家庭の方針そのものだと思うのです。そして習い事は基本的に指導者と指導方針を選ぶことと同じだと思います。どういう成長をして欲しいのかをきちんとお考えいただければ、習い事の選び方に通ずると思います。
さて、「そろばん」という習い事は一般的には「計算が早くなる」とか「数字に強くなる」といったイメージではないでしょうか?
私の勝手なイメージで言えば、「お習字なら字が上手になる」とか「水泳だと泳げるようになる」とか「柔道だと精神的に強くなる」とかいうものが一般的なものではないでしょうかね。
でもお習字の先生も、水泳の先生も、柔道の先生も知り合いがいますので、先のイメージだけではないということもまた知っています。
しかしながら、どうしてそろばんを含めて先のイメージが一般的になっているのかといえば、私はこう考えています。
「こどもの成長の先にあるものを考えていない指導者が多いから」
どういう意味かと言いますと、本来子供たちに接する指導者は、その指導する事柄を通して子供たちの成長に寄与することを念頭に置かねばならないと思うのですが、残念ながら「その事柄が上手になればそれでいい」とお考えの指導者が多い(多かった:今ご高齢の指導者の皆様はそんなことを考えずとも生徒は集まったという時代の流れでしょうかね)ということなんです。
そして、そういう指導者の下で何かを身につけた者が成長して指導者となると、前述の事柄が繰り返されるわけです。
教師を目指して教員養成課程に進めば、児童心理学や発達心理学などを学びます。教育実習で現場も少しですが経験します。そうした経験を積み上げていけば、子供たちの成長に何が必要なのかを考え、それぞれの立場で子供たちに伝えることを考える指導者になるはずなんですよね。
また、一般的な企業に勤務した後に習い事のお教室を開けば、社会から要請されることをその人物なりに理解していますから、やはり教育の専門家とはアプローチは違うでしょうが、成長の過程で必要なことを、その習い事の指導を通して伝える指導者になるでしょう。
ところが、私の知る限り「いったい何を伝えたいの?」とか、「子供たちの成長にとって害悪にしかならない」指導者のことがたくさん耳に入ってきます。
・スポーツの指導者で、グランドに挨拶をさせない方がいます
・スポーツの指導者で「試合に勝てば自分の指導のおかげ、負ければ子供たちの努力不足」と言う指導者がいます
・スポーツの指導者で、昨日と今日と明日で言っていることがころころ変わる(指導方針が日和見)な指導者がいます
・文科系の指導者で「とにかくこどもたちを叱らない」指導者がいます
・文科系の指導者で、授業のたびにお菓子やパンを渡す指導者がいます
・文科系の指導者で、遅れようが忘れ物をしようが何も言わない指導者がいます
こうした指導者は「子供たちの成長に自分の指導が寄与するものは何か」という観点が指導から抜け落ちています。
さて、皆様はお子様に「何」を身につけて欲しくてその習い事をさせておられますか? 心ある指導者であれば「どう指導すれば子供たちの成長に寄与できるか?」を常に考えながら指導しているはずです。そしてそれはお勉強に結びつくとは限りません。
たとえば「挨拶」かもしれませんし、「くじけない心」かもしれません。「自分で常に考えること」かもしれませんし「努力する習慣を身につけさせること」かもしれません。
私自身はそろばんの指導を通して「結果は努力に正直であること」「一生涯の計算(数的)能力を獲得すること」「前向きな学習習慣を身につけること」「読み・書き・そろばんの基礎学力(リテラシー)を獲得すること」が子供たちに身に付いて欲しいと考えています。
習い事に通う意味とは、ご家庭の方針そのものだと思うのです。そして習い事は基本的に指導者と指導方針を選ぶことと同じだと思います。どういう成長をして欲しいのかをきちんとお考えいただければ、習い事の選び方に通ずると思います。