子供たちの様々な「スイッチ」。探しても見つからないこともあれば、見つけても押すタイミングを思案することもあります。
最近感じるのは、とてもスイッチを見つけにくい子供たちが増えてきたなあということです。もっと言えば、スイッチを探す過程において、「探しすぎる」と、押す前に完全に隠れてしまったり、場合によっては壊れそうになったりすることも。そんなふうに感じることが増えてきたのです。
押し引きのタイミングだけでは語れない弱さというか脆さというか。そういうものを感じずにいることができません。
私自身は大変に暑苦しい先生だと思います。こちらから諦める・見捨てると言うことを選択肢に考えたことはないと言っても過言ではないとさえ思います。だから子供たちとはたくさんお話ししますし、よく声かけをするんだと思います。叱ることも多い方だと思います。
最近は「こうした私の行動そのものが、子供たちのしんどさの遠因になっている」と感じることも増えつつあります。
ところが、中学校の定期考査を終えて、明らかに答案が違う生徒が数名いまして。よくよく話を聞きますと「せんせいをギャフンと言わせたくて(^0^)」とコソコソと見えないところでたくさん勉強した生徒もちらほらと出てきまして。中学生くらいまで関わりが続くと、なんだかんだと言いながらでもこちらの想いはある程度通じているのかなあと思ったりもするわけです。
禍もあって、子供たちの感性(感受性?)が年々変化していると思っていてはいけないような気がしています。月々、あるいは日に日に変化していると思うくらいでちょうどいいのかもしれません。長く関わることで、漢方のような効き目が出てくるような関わり方を目指しているのですが、漢方でも効きすぎる場合がある。そんなふうに思うのです。
こどもたちのスイッチを探す。この考え方自体が限界に来ているのかもしれません。スイッチを探すと言うよりは、日々の関わるの中で見えたスイッチを見逃さないという考え方にシフトすべき時期なのかな?そんなことをおぼろげに考えています。
最近感じるのは、とてもスイッチを見つけにくい子供たちが増えてきたなあということです。もっと言えば、スイッチを探す過程において、「探しすぎる」と、押す前に完全に隠れてしまったり、場合によっては壊れそうになったりすることも。そんなふうに感じることが増えてきたのです。
押し引きのタイミングだけでは語れない弱さというか脆さというか。そういうものを感じずにいることができません。
私自身は大変に暑苦しい先生だと思います。こちらから諦める・見捨てると言うことを選択肢に考えたことはないと言っても過言ではないとさえ思います。だから子供たちとはたくさんお話ししますし、よく声かけをするんだと思います。叱ることも多い方だと思います。
最近は「こうした私の行動そのものが、子供たちのしんどさの遠因になっている」と感じることも増えつつあります。
ところが、中学校の定期考査を終えて、明らかに答案が違う生徒が数名いまして。よくよく話を聞きますと「せんせいをギャフンと言わせたくて(^0^)」とコソコソと見えないところでたくさん勉強した生徒もちらほらと出てきまして。中学生くらいまで関わりが続くと、なんだかんだと言いながらでもこちらの想いはある程度通じているのかなあと思ったりもするわけです。
禍もあって、子供たちの感性(感受性?)が年々変化していると思っていてはいけないような気がしています。月々、あるいは日に日に変化していると思うくらいでちょうどいいのかもしれません。長く関わることで、漢方のような効き目が出てくるような関わり方を目指しているのですが、漢方でも効きすぎる場合がある。そんなふうに思うのです。
こどもたちのスイッチを探す。この考え方自体が限界に来ているのかもしれません。スイッチを探すと言うよりは、日々の関わるの中で見えたスイッチを見逃さないという考え方にシフトすべき時期なのかな?そんなことをおぼろげに考えています。