私は高校受験を対象とした学習塾もひっそりと運営しております。この受験前の時期は基本的にお休みはなく学習塾の教室を開けております。公立高校入試が終わるまでは大体毎年75~80連勤程度になってしまいます。ただし、朝の9時~開けるのであれば夕方まで。22時まで開けるのであれば早くても午後からしか開けません。入試の直前であっても「朝から晩まで丸一日教室を開ける」ということはしないようにしています。
聞こえてくるお話では、入試前の日曜日は朝は9時前から、夜は22時を過ぎても開けている塾さんもあります。また学校帰りにそのまま塾によってお勉強できる塾さんもたくさんあります。試験当日は朝6時くらいから学校が始まるまで直前特訓のようなことをされている塾さんもあります。
私はそれぞれの塾さんの考え方なので否定はしません。私のスタンスは「自分でできることは自分でする」なんです。でも自分ですることには限界がある。だからわからないときには質問できる環境は必要だと思います。そして入試が近づいてくると、やはり大なり小なり受験生はお勉強と向き合いますから、質問したいことが出てくるまでのサイクルが短くなります。そうなると毎日対応することが必要になるだろうから教室を開けます。それでも「自分でお勉強すること」も大切にしてほしいので、一日中は教室を開けないのです。
もうひとつ。私は「生徒のためになるのであればできる限りのことをする」という考え方です。この「できる限り」というのがポイントだと思っています。やりすぎてこちらが体を壊しては本末転倒ですし、生徒が頑張りすぎて体調管理ができなくなってもいけません。さらに「教室が開いていることが当たり前」になってもいけないと思うのです。先生には先生の生活があります。(幸いにして私の教室の保護者の皆様からクレームをいただいたことはありませんが)、「どうして入試前に一日中開けてくれないのですか?」「子供が一生懸命頑張っているのに子供がかわいそうだと思いませんか?」よ聞かれれば私はこう答えると思います。
「では、お仕事はどうして休日を取られるのですか?顧客の皆様が困っているとは思いませんか?でしたらそちら様もお休みなく一日中顧客への対応をされているんですよね?」と。
面倒見をよくするためには人材を増やすしかありません。さすれば少なくとも経営側は人件費が増えますから授業料を値上げしなければなりません。指導する側の善意が明らかにコストを超えるような要求はすべきではないと思っています。
授業を提供する側としては「お値段以上(←ニトリさんではないですよ)のものをご提供する」気持ちを持ってはいます。これは「提供する側の意識」であって「要求する側の意識」であってはいけないと思うのです。要求する中身が高くなればなるほど必要なコストは当然高くなります。日本が資本主義経済である限りここは絶対の原理です。お値段以上のことを繰り返し要求すれば、提供する側は絶対に疲弊します。そうすれば質の高いものを提供し続けることは不可能になることは自明です。提供する側は、自分が提供できる質を担保できるように授業時間・内容を考え、妥当だと思えるお値段をご提示しているのです。お値段に提供するものが見合わなければ退場となるわけです。
面倒見がよいこととお値段は反比例の関係にあると思います。面倒見は提供する側の善意に依るところが大きすぎるのです。面倒見がいいことは当たり前ではないと思うのです。面倒見をよくすればするほど、提供される側に「これが当たり前」という意識が芽生えてしまう。これは仕方のないことです。せめてお互いに感謝の心を持つこと。これがお値段以上の面倒見を継続していくためには必要なのではないかな?なんて思うのです。
塾の先生でお話をしましたが、学校の先生でも同じことが言えます。いやこれ以上に「先生に求めすぎてはいけない」と思います。学校の現場は崩壊寸前です。要求することが当たり前になってしまいそれが行き過ぎれば「学校現場に誰も残らない」という事態になりますし、実際にそうなる寸前です。今、学校は先生方の善意で成り立っています。
求めすぎないこと。指導者が面倒見よく子供たちをみるためには、これが一番大切なのではないか。そんなことを考えます。
聞こえてくるお話では、入試前の日曜日は朝は9時前から、夜は22時を過ぎても開けている塾さんもあります。また学校帰りにそのまま塾によってお勉強できる塾さんもたくさんあります。試験当日は朝6時くらいから学校が始まるまで直前特訓のようなことをされている塾さんもあります。
私はそれぞれの塾さんの考え方なので否定はしません。私のスタンスは「自分でできることは自分でする」なんです。でも自分ですることには限界がある。だからわからないときには質問できる環境は必要だと思います。そして入試が近づいてくると、やはり大なり小なり受験生はお勉強と向き合いますから、質問したいことが出てくるまでのサイクルが短くなります。そうなると毎日対応することが必要になるだろうから教室を開けます。それでも「自分でお勉強すること」も大切にしてほしいので、一日中は教室を開けないのです。
もうひとつ。私は「生徒のためになるのであればできる限りのことをする」という考え方です。この「できる限り」というのがポイントだと思っています。やりすぎてこちらが体を壊しては本末転倒ですし、生徒が頑張りすぎて体調管理ができなくなってもいけません。さらに「教室が開いていることが当たり前」になってもいけないと思うのです。先生には先生の生活があります。(幸いにして私の教室の保護者の皆様からクレームをいただいたことはありませんが)、「どうして入試前に一日中開けてくれないのですか?」「子供が一生懸命頑張っているのに子供がかわいそうだと思いませんか?」よ聞かれれば私はこう答えると思います。
「では、お仕事はどうして休日を取られるのですか?顧客の皆様が困っているとは思いませんか?でしたらそちら様もお休みなく一日中顧客への対応をされているんですよね?」と。
面倒見をよくするためには人材を増やすしかありません。さすれば少なくとも経営側は人件費が増えますから授業料を値上げしなければなりません。指導する側の善意が明らかにコストを超えるような要求はすべきではないと思っています。
授業を提供する側としては「お値段以上(←ニトリさんではないですよ)のものをご提供する」気持ちを持ってはいます。これは「提供する側の意識」であって「要求する側の意識」であってはいけないと思うのです。要求する中身が高くなればなるほど必要なコストは当然高くなります。日本が資本主義経済である限りここは絶対の原理です。お値段以上のことを繰り返し要求すれば、提供する側は絶対に疲弊します。そうすれば質の高いものを提供し続けることは不可能になることは自明です。提供する側は、自分が提供できる質を担保できるように授業時間・内容を考え、妥当だと思えるお値段をご提示しているのです。お値段に提供するものが見合わなければ退場となるわけです。
面倒見がよいこととお値段は反比例の関係にあると思います。面倒見は提供する側の善意に依るところが大きすぎるのです。面倒見がいいことは当たり前ではないと思うのです。面倒見をよくすればするほど、提供される側に「これが当たり前」という意識が芽生えてしまう。これは仕方のないことです。せめてお互いに感謝の心を持つこと。これがお値段以上の面倒見を継続していくためには必要なのではないかな?なんて思うのです。
塾の先生でお話をしましたが、学校の先生でも同じことが言えます。いやこれ以上に「先生に求めすぎてはいけない」と思います。学校の現場は崩壊寸前です。要求することが当たり前になってしまいそれが行き過ぎれば「学校現場に誰も残らない」という事態になりますし、実際にそうなる寸前です。今、学校は先生方の善意で成り立っています。
求めすぎないこと。指導者が面倒見よく子供たちをみるためには、これが一番大切なのではないか。そんなことを考えます。