あの日から14年が過ぎました。あの日は授業の準備を終えてつかの間の休息をしていました。大阪府の公立高校入試の指導も一段落つき、さてそろばんを教える時間だなと思っていたところです。少し船酔いに似たような感覚に襲われ「あれ、やっぱり疲れてる?」という気持ちになったのを覚えています。しかしながら、吊り下げている時計が揺れているのを見て「えっ?」と感じました。当時はまだガラケーを使っていてワンセグでのテレビ視聴が可能だったので、テレビを付けると地震の情報。とんでもない状態になっていることが分かりました。
東北沖の震源で、大阪が長周期振動。大学で活断層の活動予測(いわゆる地震予知の前段階です)を研究していた私にはシャレにならない状態だということはすぐに理解できました。それでも授業を止めるわけにはいきません。学童経由で来る生徒も複数いる状態では教室を止めると、行くところが無くなる生徒が出てきます。万が一に備えて、リュックに買い置きの水を詰め込み、中学生の自習時間においていた甘いものを詰め込み、ティッシュやビニール袋などを準備して、いつでも避難できる態勢にしてから授業を開始したことを覚えています。
その日は大阪では特段の被害はありませんでしたので、準備したものを使うことはなく授業を終えることができました。その後日が経つにつれ、様々な状況が分かってきます。日に日に子供達が不安になっていきます。そこで私は授業時間内に「聴きたいことあるなら聴いていいよ」と、子供達の不安に向き合いました。学年に応じてできるだけ平易な言葉を選び、学術的なうそがないように、でもできるだけ安心できるような答えをするように心がけました。頭でっかちな人たちがいることも事実ですが、日本で現場を守る方々の技術水準は世界一だとその当時は思っていましたから(もちろん今でも思っています)、そういうことも含めてお話しをしました。
何名かの保護者の方からご連絡をいただきました。子供がたくさんお話ししてくれましたと(私の経歴を知らなかった保護者の方々には驚かれました)。私としては子供達の不安を少しでも減らせればそれで良かったわけです。
それでも現地の状況が良くなるわけではありません。さすがに原子力発電所の仕組みや安全装置に詳しいわけでも無く(フェイルセーフの仕組みくらいしか安全装置に付いての知識は無かったんですよね)、日々伝えられる緊迫した状況に対して、改めて無力さを痛感しました。
思い返してみれば、このときの子供達への向き合いかたが、後のコロナ禍での向き合い方に生きたのかもしれません。
とはいえ、私には子供達に伝えることしかできません。地震が来るまでにどうしておくべきなのか?地震が来たらどうするべきなのか?地震が来るとどのような災害が起こるのか?などなど。私の今の立場でできることは、学んだ知識を「生きた形」で子供達に伝えることです。阪神淡路大震災、鳥取県西部地震、岩手・宮城内陸地震、東日本大震災、熊本地震。平成以降でも大きな震災は複数起こっています。そしてこれからも震災は起こるはずです。だからこそ、機会を見て伝えていかなければいけないと思っています。